燠 火 (2)
* * * 3 * * *
「おう、尚隆。鸞が戻って来たぜ」
威勢のよい声が唐突に響き渡る。延麒六太が自ら鸞を伴って延王尚隆の執務室を訪れたのだ。それは、尚隆が隣国に鸞を送ってしばらく経った頃のことだった。尚隆は笑みを湛えて己の半身を迎えた。
「ご苦労だったな」
「いいから早く聞かせろ」
どうせ慶からなんだろ、と付け加え、六太は卓子にどっかりと腰を下ろす。鸞の声を確かめるまでは動かない、というその意思表示に苦笑しつつ、尚隆は鸞の頭を撫でる。帰ってきた鸞は、隣国の女王の弾んだ声で語り出した。
「お招きありがとうございます。無事、休暇を勝ち取りました」
「──お前、やっぱりなんか企んでたじゃねえか」
「聞く気がないなら出ていけよ」
「──ちぇ」
鸞の第一声を聞いた途端、六太はぶつくさ文句を言い出す。それを即座に制止し、尚隆は笑みを湛えて鸞の声に聞き入った。
「約束を──憶えていてくださって、ありがとうございます」
一拍おいて出された、躊躇うような、はにかむような声。きっと忘れていたに違いない。そう推察し、尚隆は低く笑う。約束、と六太は小さく呟いたが、何も問わなかった。
「──景麒は渋ったけれど、浩瀚が巧く説得してくれました」
女王は嬉しげに説明する。それを聞いて、尚隆はますます笑い、六太は口笛を吹いた。
「へえ、浩瀚が景麒を言いくるめたんだ」
「なかなか見ものだったろうな」
尚隆は笑い含みに応えを返す。事情を知る六太は、違いない、と言って笑い転げた。
主の伴侶を厭う宰輔を、同様の思いを抱く冢宰が説得したか。
全く対照的な二人だ。苦労性の冢宰に免じて、今回は伴侶の予定に合わせよう。尚隆はそう決めたのだった。
「ところで、約束ってなんだよ」
鸞が語り終えたところで六太が訊ねてきた。尚隆は鸞に銀の粒を与えてやりながら、かいつまんで話を聞かせた。
「──なるほどなぁ。確かに、慶には雪はあんまり降らねえよな」
雪を見て喜ぶ陽子を想像したらしく、六太は楽しげな笑みを浮かべた。尚隆は、その次の言葉をにべもなく阻止する。
「──お前は、留守番だぞ」
「なんでだよ!」
邪魔だからに決まっている、と本音を言うわけにはいかないだろう。尚隆は真顔で答えた。
「二人揃って宮を空けるわけにはいかぬ」
「今更なに言ってんだよ!」
「──今回は、景王と約束した視察だしな」
「それは遊びの名目だろ!」
「視察、だ」
「尚隆!」
「とにかく、お前は留守番だ。ついてくるな。──勅命だ」
食い下がる六太に伝家の宝刀を持ち出し、尚隆は話を終わらせた。無論、六太が納得するわけはない。だが、麒麟は王の命に従う者。如何にその勅命が理不尽でも、最後にはそのとおりにするのだ。
「──ちぇ。で、どこへ行くつもりなんだ?」
「内緒だ」
「尚隆! ずるいぞ!」
「陽子にも言っていないのだぞ」
怒声を上げる六太に、にやりと笑みを返す。六太はしばらく膨れっ面をしていたが、そのうち肩を竦めて出ていった。
それから、細かな日程調整のために、鸞が二国間を何度か往復した。そして、最後の連絡のとき。尚隆は秋のお忍びのときに班渠が気を回したことを忘れてはいなかった。
「雲海の上から来い」
この一言を、班渠ならばきっと理解するだろう。鈍い伴侶には分からないだろうが。そう思い、尚隆はまた笑った。
* * * 4 * * *
真冬になり、東の国の女王は約束どおり雲海の上から現れた。雁国主従は満面の笑みで冬支度をした隣国の女王を迎えた。
「陽子、よく来たな!」
延麒六太は、景王陽子が班渠から降りるなり、笑み崩れて抱きついた。陽子は笑顔で六太を受けとめる。二人がにこやかに話している間、尚隆は女王を降ろした使令に声をかけた。
「──班渠、足労だった」
「延王の御意のままに」
常に女王に付き従う使令は、笑い含みにそう答えた。心得たようにひとつ頷く班渠を見やり、尚隆はにやりと笑う。
「お前は察しがよいな」
「主上の御為でございますから」
「お前の主の御為にはならぬがな」
「それでも、主上の御為でございますよ」
相変わらず如才ないその応えに、尚隆は満足げに頷いた。低く笑った班渠は、そのまま女王の足許に消える。その女王に目を移すと、まだ六太が抱きついたままだった。
「六太、いい加減にしろ。早く陽子を休ませてやれ」
陽子に纏わりついて離れない六太を、尚隆は呆れ顔で嗜める。六太は陽子の首にかじりついたまま、拗ねた声を出した。
「いいじゃんか──おれはついていけないんだからさ」
「視察だからな」
「嘘をつけ!」
「嘘ではない」
尚隆は真面目くさって即答した。六太は更に怒声を上げる。陽子は、もう我慢できない、とばかりに吹き出した。そして、周りに控えていた下官たちがげんなりと肩を落とすのが見えた。
その後、機嫌を直した六太が、麗しき客人を掌客殿に案内すると申し出た。そのままついていこうとした尚隆は、振り返る六太の鋭い視線に殺気を感じ、足を止めた。よろしい、とでもいうように、六太は尊大に頷く。尚隆は苦笑しつつ、楽しげに語らう二人を見送った。
しばしの休息を取り、着替えを済ませた女王が夕食の席に姿を見せた。相変わらず、用意された襦裙には目もくれずに簡素な長袍に身を包んでいる。案内の女官の渋い顔に、尚隆は失笑した。
「主上、笑い事ではございません。景王には女王らしいお召し物をご用意いたしましたのに……」
女官は更に顔を蹙める。延王尚隆は片眉を上げて男装の麗人に問う。
「──だそうだが、どう思う、景女王」
「いったい何のことでしょう」
麗しき紅の女王はにっこりと笑む。鮮やかな笑みを向けられて、眉間に皺を寄せていた女官が頬を染めた。尚隆は女官と女王を見比べて大きく笑った。
「──まったくお前は質が悪い」
「延王に言われたくはありません」
涼しい顔をして笑う女王に、同じくらい簡素な身形の雁国国主は呵呵大笑する。女官は深い溜息をつきながらも、お二方には敵いませんね、と笑った。
「おおい、冷めちまうぞ」
延麒六太の声がした。女官は拱手して下がっていく。そして二人の王は食卓に着いたのだった。
給仕を終えた下官が退出すると、目を輝かせた女王があれこれ訊ねてきた。尚隆はそれに答えを返す気はない。詳細を知らない六太が肩を竦めて嘆息し、主の代わりに口を開いた。そして、にやりと笑う尚隆を睨めつける。
「こいつは、口を割ろうとしないんだ。悪いが、大人しくついていってやってくれ。ただし──」
こいつが悪さをしたらすぐに言えよ、と六太は続けた。いったい尚隆が伴侶に何をするというのだろう。呆れながらそう問うた尚隆に、六太は怒声を浴びせた。
「何をしでかすか分からねえから言ってるんだろ!」
「──六太。自分の主を何だと思っているのだ?」
「お前は、莫迦殿だ!」
尚隆に指を突きつけて、六太は力強く断じる。馬鹿に莫迦と言われたくない、と即座に返した。無論、六太も応戦する。
「──相変わらず、楽しそうだね」
「楽しくない」
ほのぼのと笑い、陽子は感想を述べる。尚隆は図らずも六太と声を合わせてそう返した。
2008.01.29.
長編「燠火」連載第2回を順調にお届けすることができました。
連載を始めたら、19日続いていた真冬日が途切れてしまいました……。
だからまだ冬の情景に入らないのかしら?
やっぱり尚隆視点だと六太が出張ってくるからかもしれませんね。
2008.01.29. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま