燠 火 (最終回)
* * * 19 * * *
膝まである雪を掻き分けて、ようやく廬の入口まで辿りついた。伴侶は今歩いてきた途を名残惜しげに振り返る。陽光に煌く雪原には、二人分の足跡が、くっきりと残っていた。
「よく頑張ったな」
慣れぬ雪道、しかも風に弄られて中途半端に硬くなった雪を掻き分けて歩いたのだ。恐らく途中で音を上げるだろうと思っていた。尚隆が笑みを向けて労うと、うん、と答えつつも、伴侶は俯く。
「──もう一度、雪明りを見たかったな」
小さな呟きはいかにも淋しげだった。夜闇に青白く浮かび上がる雪原は、それほどまでに伴侶の心を捉えたのか、と思うと知らず唇がほころぶ。
「それでは、来年も休みを勝ち取って、また見に来い」
「──そうだね」
伴侶は尚隆の提案に一瞬息を呑む。そして、ゆっくりと笑みを浮かべ、楽しげに続けた。
「春のお花見は慶で、冬の雪明りは雁で。そう思ったら、また頑張れるような気がする」
「その意気だ」
尚隆は伴侶と顔を見合わせて笑った。それから二人は、玄英宮へと戻るべく、蒼穹に舞い上がる。伴侶はこれで見納めとばかりに、空の上からも白銀の世界を眺め続けていた。
禁門前に降り立つと、門卒よりも早く六太が姿を見せた。如何に麒麟が王気を感じ取れるといっても、周到過ぎる現れた方だ。尚隆は呆れつつも留守居をしていた半身に声をかける。
「──出迎え、ご苦労」
「おっせえんだよ!」
六太は開口一番に罵声を浴びせる。尚隆は耳を塞ぎ、陽子はしゅんと頭を下げた。
「ごめん、私のせいだ。私が雪道を歩きたいって言ったから……」
「まあ、いいや。陽子、お前は一風呂浴びて休め。尚隆は仕事だ」
素直に謝る陽子に、六太は笑みを向ける。それから、己の主をじろりと睨めつけた。尚隆は片眉を上げる。
「──六太、それは横暴ではないか?」
「ぜーんぜんだ!」
六太は尚隆の抗議に耳を貸す気もない。そんな延麒六太の合図と同時に、女官と下官がわらわらと現れた。女官は陽子を取り囲み、下官は尚隆を引き摺って玄英宮に連れこむ。全てを指揮した宰輔は、悠々と後ろを歩いていた。
尚隆は下官に軽装を改められた。長袍に着替えさせられ、そのまま執務室に連行された。堆く積み上げられた書簡に、大きく溜息をつくと、六太に睨まれた。
「遊んできたんだから当然だろ! 真面目に働け」
復讐に燃える六太を見下ろし、尚隆は肩を竦める。それから大人しく仕事を始めた。六太は小卓にどっかりと腰を降ろす。どうやらこのまま見張りとして残るつもりらしい。
やがて、控えめに扉を開く音がし、女官が隣国の女王を先導した。尚隆は思わず吹き出す。湯浴みを済ませた女王は、簡素ながら髪を結い上げられ、襦裙を着せられていたのだ。
「──陽子、お前もか」
「笑い事ではありませんよ、延王」
麗しき女王はげんなりと肩を落とした。それとともに、髪に挿された歩揺が涼しげな音を立てる。六太は笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。
「うん、陽子、綺麗だぞ。お前のために動きやすい襦裙を用意させたんだからな。お前の好きな菓子も揃ってるぞ。茶の支度ができたら、土産話を聞かせてくれよ」
六太はそう捲し立て、陽子を促した。陽子は苦笑を浮かべながらも頷く。女官は隣国の王と宰輔のために茶を淹れ、一礼して下がっていった。尚隆は眉根を寄せる。
「──六太」
「お前は、仕事をしろ」
六太はきっぱりと言い切る。やはり、ここで茶会をする気か。尚隆は嘆息する。王である己が、茶と茶菓子で団欒する六太と陽子を横目で見ながら、仕事をする羽目に陥るとは。やれやれ、と呟きながらも、尚隆は薄く笑んだ。
「で、どこへ行ったんだ?」
「牛のいる廬に行ってきたんだ……」
茶菓子にかぶりつきながら、六太が訊ねた。陽子は出かける前に約束したとおり、六太に土産話を始めた。
牛のいる雪深い廬のこと。さらさらの雪に苦労しながら雪だるまを作ったこと。慶とは違う仄かに白い空の色のこと。初めて体験した雪国の冬を、陽子は身振り手振りを交え、楽しげに語る。
雪鳴り、雪明り、暖炉の火熾し、そして、吹雪の日に行った薪割り。話がそこに至ると、六太は腹を抱えて笑った。
「薪割りまでやるか! さすが陽子だな」
「だって、延王は機織も籠作りも知らないって言うから」
陽子は口を尖らせる。そりゃそうだ、と六太はまた笑う。それから陽子は思い出したように呟いた。
「あ……雪合戦もしておけばよかった」
「それは来年のお楽しみだな」
「来年はおれもついてくからな!」
尚隆が口を挟むと、六太はそう息巻いた。尚隆と陽子は、顔を見合わせて苦笑したのだった。
* * * 20 * * *
「──で、陽子、尚隆に悪さされなかったか?」
旅の話を根掘り葉掘り訊き出した挙句、六太は最後にそう問うた。陽子は肩を竦めて嘆息する。
「まだそんなこと言ってる……」
「だってさー、この莫迦、帰ってきてから、大人しすぎるから」
「大丈夫だよ。延王は親切に色々教えてくださった。ね、延王」
疑いの眼差しを向ける六太に、陽子は鮮やかな笑みを見せる。そして尚隆に同意を求めた。尚隆は真面目くさって応えを返す。
「視察だからな」
「──遊んでばっかじゃねえか」
「そ、そんなことないよ! 冬の廬に人が住んでいるのも意外だったし、民家に玻璃の窓が必要なわけも理解できた。ちゃんと視察したよ!」
尚隆を睨めつける六太に、陽子は慌ててそう言った。陽子に視線を戻し、六太はくすりと笑う。
「──まあ、雪を知らない陽子が雪だるまを作りたがっても仕方ないけどな」
「六太。いつものことながら、お前は、主を何だと思っているのだ?」
「こないだも言ったはずだぜ、莫迦殿だって」
いつもの舌戦に、今日の陽子は肩を窄めて溜息をついている。拗ねた六太は、陽子のそんな様子にも気づいていないようだった。
尚隆は夜半に自室を抜け出した。伴侶は、待っていてくれるだろうか。掌客殿に向かって歩きながら、己のそんな躊躇いに嘆息した。
昼の茶会では、伴侶は六太の突っ込みにも怯まなかった。が、夜が更けるにつれて、物思いが増しているのではないか。
休暇ももう終わりを迎え、伴侶は明日には帰国の途につく。また、しばらく会えない日々が続く。それなのに、気まずくなるようなことをしてしまった。
言っても詮無いことを。
後悔しても、時が戻ることはないというのに。尚隆は深く息をつき、伴侶の宿舎の扉を開けた。
伴侶は襦裙のまま榻に腰掛けていた。尚隆を認めると、ふわりと笑んで立ち上がる。あまり見慣れぬ襦裙のせいか、その姿は儚げで美しかった。
「──ゆっくり休めたか」
尚隆は途中で足を止め、おもむろに問う。伴侶は小さく頷いた。出会ったばかりの頃のように、緊張した様子で。
「それはよかった」
笑みを浮かべて見下ろすと、伴侶はぎこちない笑みを返す。触れることを控えさせるような、痛々しい貌であった。ふ、と唇を緩め、尚隆はそのまま榻に腰を下ろす。
「どう……したの……?」
伴侶は掠れた声で問うた。見上げると、今にも泣きそうな貌が目に入る。尚隆はくつくつと笑って軽口を返した。
「──妖魔にでも喰われそうな子供のようだぞ」
「──いつまでも、子供のままじゃないよ」
口では気丈なことを言いつつも、華奢な身体が震えている。ゆっくりと立ち上がり、そっと手を伸ばした。指が触れた途端、細い肩がぴくりと跳ねる。尚隆は薄く笑って手を引いた。
「──ほら。怖いのだろう?」
「ううん、怖くない……」
己に言い聞かせるような、小さな応え。見上げる瞳は怯えを隠せないでいる。それでも伴侶は、尚隆の胸に身を押しつけた。
「──無理せずともよいぞ」
わななく身体をそっと抱き寄せ、頭を撫でる。微かに首を振りながらも、伴侶は何も言わなかった。尚隆はそのまま愛しい伴侶を撫で続ける。頭を、髪を、背を。その身の緊張を解くように、優しく、柔らかく。
そのままでよい。いや──そのままのお前がよい。勁く、時に脆く、頑固なのに柔軟な、そのままの陽子が愛おしいのだ。
胸に燻る燠火を燃え立たせるのも、鎮めるのも、結局は伴侶なのだ。そう気づくと、笑いが込み上げてくる。伴侶は柳眉を顰め、声を殺して笑う尚隆を睨めつけた。
「──何がそんなに可笑しいの?」
「お前といると、退屈することがない」
本音を返すと、伴侶はさっと頬を朱に染めた。怖じけていた翠の瞳が、怒りに燃え上がる。尚隆はにやりと笑って伴侶を抱き上げた。
「──震えは止まったようだな」
「意地悪……」
羞じらいと悔しさが入り混じった小さな声が聞こえた。尚隆は満面に笑みを浮かべ、伴侶の朱唇を封じる。そして、いじらしい伴侶に掻き立てられた己の熱を、優しく伝えたのだった。
胸で燠火が静かに燃える。燃え盛る炎よりも熱い火が。消えぬ燠火を掻き立てては鎮める無邪気な伴侶。愛おしき紅の炎。
いつか、その炎に灼き尽くされる日が来るのかもしれない。
熱くなる肌をなぞりながら、尚隆はそう思った。
2008.02.28.
長編「燠火」最終回をお届けいたしました。
これにて「冬」と「雪」と「色」のお話は終了でございます。如何でしたでしょうか。
──3月を目の前にして、冬将軍が暴れまくっております。
歩道の横に積み上げられた雪は、私の背よりも高く聳え、なんだか鼠かモグラになったような
気分にさせられます。
そんな北の国から、1ヶ月に渡ってお送りした冬のお話でございました。
お気に召していただけると幸いでございます。
2008.02.28. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま