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燠 火おきび (9)

* * *  17  * * *

「──どうかしたか?」
 瞳に涙を滲ませる伴侶をしばし見つめ、尚隆は足を止めた。そして、おもむろに声をかける。

 動揺を、隠すことはできただろうか。

「──雪が、眩しくて、目に染みただけ」
 伴侶は慌てたように首を横に振り、言い訳めいたことを述べた。
「雪目かもしれないな、見せてみろ」
 尚隆は、平静を装って伴侶の瞳を覗きこむ。潤んだ瞳は、少し赤かった。もしかして、歩いているうちに、昨夜のことを思い出してしまったのだろうか。そう思うと胸が痛んだ。
「少し赤いな。──乗れ」
 そう呟いて、尚隆は伴侶に背を向けて屈んだ。伴侶は遠慮がちに答えた。
「──大丈夫だよ、碧双珠もあるし」
「いいから、乗れ」
 尚隆は重ねて伴侶を促した。じゃあ、と小さな声がして、伴侶は尚隆の背に乗る。華奢な身体を背負い、尚隆は立ち上がった。伴侶の鼓動はやや速く、その身も強張っている。

 却って緊張を増やしてしまっただけだったろうか。

「──雁の冬は、どうだった? 雪は……楽しめたか?」

 いたたまれずに訊いてみた。伴侶は少し首を傾げ、考えているようだった。それから身体の力を抜き、楽しげに応えを返す。
「うん。知らないものを、沢山見ることができて、楽しかったよ。冬も雪も、厳しいだけじゃないんだね」
「──そうか。それはよかった」
 尚隆は少し安堵して笑った。雪の上に寝転び、蒼穹を見上げた伴侶は、空の色が違う、と言っていた。それから、雪明りを眺め、吹雪を体感した。そして、暖炉に火を熾したり、薪を割ったりと、積極的に北国の暮らしを楽しんでいた。
「結局、如何に受け入れて、どう対処するか、だよね」
「ずいぶん悟ったようなことを言うんだな」
 しみじみと告げる伴侶に、尚隆は苦笑を返す。伴侶は、悪戯っぽく、しかも自信ありげに続けた。

「悟ったんだよ。──私だって、いつまでも子供じゃないんだから」

 尚隆は思わず足を止める。いつまでも子供じゃない、など──どんな貌をして言っているのか。振り向いて背に乗る伴侶をじっと見つめ返す。尚隆の視線を真っ直ぐに受けとめ、伴侶はにっこりと笑んだ。
 十六で時を止めた娘。身体は少女のままでありながら、その瞳は出会った頃よりも遥かに老成していた。それは、若き女王が、悩みながらも王の道を歩み、成長し続けた証。

 ──思い出した。

 延王自ら迎えに行った新しき景王は、頑なに玉座を拒んだ。しかし、皆の説得を受け入れて王になる決心をした陽子は、まるで蝶が羽化するかのように劇的な変化をみせたのだ。
 それは、悠久の時を過ごしてきた尚隆にとって、目を見張る出来事だった。そして、若き女王とともに過ごした日々は、短いながらも濃密な時間であった。
 若いからこそ、未熟だからこそ、陽子にはまだまだ伸びる余地がある。子供だと、侮っていたつもりはない。しかし、守らなければならない者だとは思っていたようだ。

 ──己の伴侶は、一国を統べる王だというのに。

 輝く太陽よりも、煌く雪原よりも眩しい光を放つ翠の瞳。もっと知りたい、いつもそう望んでいる、女王の勁い瞳。
「お前は、本当に物好きな女だ」
 何もかもを吸いこむ力を持つ伴侶の瞳を見据え、尚隆は大きく笑った。その瞳に映し出される己の暗闇を吹き飛ばすように。伴侶は明るく笑って言った。
「──昔、教えてくれたよね。きちんと対策を立てれば辛いものなど何もないって」
「──そんなことをよく憶えているな」
「先達の訓戒は、ちゃんと憶えてるよ」
 少し驚き、少し呆れた尚隆に、伴侶は片目を瞑ってそう返す。それから、にやりと笑って続けた。
「まあ、悪いこともいっぱい教えてくれたから、景麒は怒ってるけどね」
「それも俺のせいだというのか? 人聞きの悪い」
 顔を蹙めて言い返すと、伴侶は我が意を得たりというように大きな笑い声を立てた。尚隆の胸の蟠りは、伴侶の明るい声とともに融け去ったのだった。

* * *  18  * * *

「もう、大丈夫」
 背中の上から力強い声がした。尚隆は歩みを止める。伴侶は尚隆の背から滑り降り、雪を踏みしめた。それから、小さな手を尚隆に差し出す。首を傾げる尚隆に、伴侶は恥ずかしそうに告げた。

「どうせ膝まである雪なんだから、手を繋いで並んで歩こうよ」

「──音を上げるなよ」
「辛くなったら、そこから班渠に乗せてもらうもの。班渠は誰かと違って意地悪しないからね」
 笑い含みに答えると、伴侶は予想通りとばかりに澄ましてそう言った。足許からは低い笑い声が聞こえる。
「御意のままに」
「──小憎らしいことを」
 女王の意を汲む使令の応えを無視し、尚隆はわざと顔を蹙めて左手で伴侶の華奢な手を取る。班渠はまだ楽しげに笑っていた。

 それから、二人で白銀に煌く雪原を見下ろした。星明りに青白く浮かび上がっていた雪景色は、冬の淡い陽射しに照らされて、眩しいくらいに輝いている。伴侶は額に手を翳し、改めて感嘆の溜息をついた。
「──うわぁ、綺麗! 北国の人は、いつもこんな宝石を見られるんだね……」
「雪のない国の者は、こんなものにも驚くのだな」
 尚隆はそう返して笑った。しかし、北国に住まう者も、冬の初めには久しぶりに見る雪の美しさに声を失う。そして、その美しき冬の使者の無慈悲さをも思い出し、冬支度に励むのだ。

 ああ、それすらも、今の雁が豊かな証拠なのだ。

 尚隆は思い返す。国が貧しい頃は、雪を美しいと言う者などいなかった。生き延びるために、雪に里が閉ざされる前に、必死で冬籠りの準備を整えた。冬を、雪を楽しむ余裕がなかった、あの厳しい時代。

「ねえ、この途は、まるで、私たちが歩む道のようだね」

 尚隆を回想から呼び戻す声がした。一面の銀世界を眺めながら、伴侶は厳かに告げる。尚隆は訝しげに伴侶を見つめた。伴侶は尚隆を見上げて力強く笑う。

「王が歩む道って、こんなふうに途なき道のような気がする」

 そう言って、若き女王は視線を眩しい雪原に戻す。尚隆もまた、まだ誰の足跡も残されていない銀色の斜面に目をやった。
「──なるほどな」
 降り始めれば雪は、すぐに膝まで埋まるくらいに積もる。苦労して小途を作っても、吹雪がくれば、あっという間に呑まれて消えてしまう。そこに途があったことすら忘れられてしまうほど、呆気なく。それでも、こうやって前へ進むために、雪を掻き分けて歩く者がいる。その足跡を辿って誰かが歩み、また小途ができていく。

 世界に道を印す者として、麒麟に選ばれた王が起つ。途なき道を、最初に歩む者として。王が揺るぎなく歩み続ければ、小途は次第に太くなる。そして、いつしか広途になっていくのだろう。

「──私は、こうやって並んで立って……あなたが見るものを一緒に見つめてみたい」

 隣国の女王は、翠玉の瞳を輝かせ、雪原を見下ろす。その、勁い視線の先には、己の進むべき道がしっかと見えているのだろうか。
「お前はそう言うがな」
 延王尚隆は笑みを湛え、己が伴侶に選んだただひとりの女を見つめる。伴侶はきょとんとした貌で尚隆を見上げた。

「そういうお前こそ、俺に見えぬものを見つめているのだぞ」

 鮮烈な光を纏いながら、未だ己を知らぬ若き女王。王のいない国からやってきた娘は、己と臣を同列に扱う。その視点は、尚隆にとって、常に新鮮で驚きに満ちている。
 伴侶は翠の瞳をいっぱいに見開いた。それから、花ほころぶような鮮やかな笑みを見せた。厳しい冬の寒さにも負けることない、眩しい陽光の笑みを。

「──では、まいろうか」
「うん!」
 延王尚隆は景王陽子と手を繋ぎ、膝まである雪を掻き分けて歩いた。時折滑って倒れそうになる伴侶を支えながら。そして、途なき道を歩く楽しみを、伴侶の笑顔に分けてもらいながら。そして二人はそのまま廬の入口まで歩き通したのだった。

2008.02.22.
 大変お待たせいたしました、 長編「燠火」連載第9回をやっとお届けすることができしました。
 ──2月は29日しかないってことを、すっかり忘れていた愚かな管理人でございます。 どうぞ笑ってやってくださいませ……(溜息)。
 ここまでで原稿用紙93枚分でございます。やはり長編と言っておいてよかったかも。 次回で終わると思います。なんとか2月中に出せるように頑張りたいと思います。 ですが。
 やはり、いつもの如く、気長にお待ちくださいませ……。

2008.02.22. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま
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