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雪 明ゆきあかり (1)

* * *  1  * * *

「雪を見に来い」
 北西の隣国からやってきた鸞は、明朗な男の声で一言そう鳴いた。

 確かに、今は冬だけど。でも、どうして、雪? 

 景王陽子は首を傾げた。相変わらず、何の説明もなく、一言のみの言葉。陽子は溜息をつきつつも苦笑する。
 延王尚隆は、きっと何か意表をついたことをする気に違いない。悪戯好きで、奔放な伴侶のことだから。そのつもりで身体を空けておこう。伴侶の人の悪い笑みを思い浮かべ、陽子は仕事に精を出した。
 ふと筆を置いて立ち上がった。軽く伸びをして、ゆっくりと歩き出す。大きな窓を開けて露台に出ると、吹き渡る風は冬の匂いを孕んでいた。雲海ばかり見ていると気づかないが、庭院の木々はとっくに葉を落としている。穏やかな堯天山の頂にも、とっくに冬はやってきていたのだ。
 季節の移ろいに気づく余裕もない己に、陽子は少し自嘲する。そういえば、下界では初雪が降ったようだ、という報せにすら、生返事をしただけだった。

 尚隆なおたか、あなたは、いつも私に忘れていたものを思い出させてくれる。

 吹き抜ける冷たい風に身を晒しながら、陽子は心に抱く温もりを感じた。遠い関弓に居ながら、こんなにも近しい、愛おしい伴侶の温もりを。

 景王陽子が治める慶東国は温暖な気候だ。冬に雪が積もることはそうない。雪が降ると、子供たちは喜び勇んで外に駆けていく。その姿を見て、年老いた者たちは呟くのだ。
 昔、国が荒れていた頃には、よく大雪が降ったもんだ。今はすっかり落ち着いて、雪は珍しいものになったな。
 へえ、昔は、雪は楽しいものじゃなかったんだ。子供たちは感嘆する。雪は、こんなにも綺麗で嬉しいものなのに、と。

 珍しく雪が積もった、と聞いて、その日、陽子はこっそり王宮を抜け出した。堯天ではなく、懐かしい固継に足を向けたのは、それを確かめたかったからかもしれない。
 固継は、遠甫に教えを請うために訪れた、小さな里。かつて陽子は、この里で蘭玉を喪い、その後、桂桂を引き取り、閭胥だった遠甫を王宮に招いた。だから今、この里に知り合いはいない。もともと、ほんのひと月ばかり滞在しただけだった。そして、あれから、かなりの月日が経った。
 それでも、旅券を見せて固継の里閭を潜ると、懐かしい景色が広がっていた。そして、あの頃よりずっとこざっぱりした民家が立ち並んでいる。それを眺めながら、陽子はゆっくりと足を進める。辿りついた里家の客庁や里会の窓には玻璃が入っていた。
 陽子は少し目を見張り、それから唇に笑みを浮かべた。あの頃は、ここは玻璃など無縁だったな、と。そして登極したばかりの頃、この里家で暮らしていたときを思い出した。

 気候温暖な慶では、冬には火鉢で暖をとる。それでも寒いときには、竈に大鍋をかけて湯を沸かす。人々はその湯気と人いきれで寒さを凌ぐ。今は亡き蘭玉が、そう教えてくれたのだった。
 そして蘭玉は、新王のお蔭で今年は雪が少ないのよ、と笑った。そうか、とぶっきらぼうに答えながらも、陽子は嬉しかった。己の登極で天災が減ったのだ、民は喜んでいるのだと実感が湧いた。

 懐かしい思いを抱きながら、里家に目をやる。雪の積もった院子には子供の歓声が響き、里会からは大勢の賑う気配がした。
 冬には人々が廬から里に戻ってくる。里会に大勢が集い、冬の作業をしているのだろう。その中で、比較的手がすいているらしい老人が、院子で遊ぶ子供たちに声をかけた。
「雪は楽しいか?」
「うん、もちろんだよ」
「そうか。そいつはよかった。わしらが若い頃はな……」
 古老は、庭で遊ぶ子供たちに辛い時代を話し始める。無邪気に驚く最悪の荒廃を知らぬ子供たち。善い王が立ってくれてよかった、と感謝を述べる人々の声に、陽子は思わず頭を下げた。

* * *  2  * * *

「慶も、すっかり雪を楽しめる国になったわね」
 休憩する陽子に茶を勧めながら、祥瓊が微笑んだ。ああそうだ、雪を見るのは辛い、と祥瓊はいつも言っていた。雪深い北の国で、公主の身分を剥奪されて里家にいた頃を思い出すのだ、と。
 冬の里家で暮らしたことがある陽子は、大きく頷いた。温暖な慶でも、玻璃のない家に火鉢と竈では寒い。ましてや、雪に覆われる北国では、民人の冬の暮らしはいかに辛いことだろう。
 蓬莱にいた頃は、雪が降ると嬉しかった。今思えば、それは雪が降っても寒くない家があったからだ。窓に紙を貼って寒さを凌ぐ慶の国では、雪を楽しむことなどできない。ずっとそう思っていた。
 あれから、もう幾年も経った。国を荒らす女王を厭っていた慶。今、国は景王陽子を受け入れ、落ち着きを取り戻し始めている。
 固継の里家を思い出し、陽子は微笑する。客庁や人の集まる里会の窓に玻璃が入っていることを、己の目で確認した。無論、全ての家に玻璃が入るようになるまでは、まだまだかかるだろう。それでも、慶でも玻璃はそんなに珍しいものではなくなっているのだ。

 きちんと対策を立てれば、雪は辛いものではない。

 常世でも北東にあたる国を治める王は、かつてそう言って笑った。かの国では、民家にも玻璃が入り、馬車が通れる橋が架かり、冬を恐れる必要がない。豊かな隣国は、いつも陽子の目標とするところだった。
「──ああ」
「どうしたの、陽子」
「思い出した……」
 茶杯を置いて微笑む陽子に、祥瓊が小首を傾げて訊ねた。そう、あの拓峰の乱の終焉に、伴侶は密かに現れた。そして、ちらちらと降る雪を眺めて溜息をつく陽子に、いつか雪景色を見せてやると笑った。

「──昔、延王が約束してくれたんだ。いつか慶が雪を楽しめる国になったら、雁の雪景色を見せてくれるって……」

 懐かしげに笑う陽子に、祥瓊は優しく頷いた。今までこんなに頑張ったんだから、少し楽しんだっていいわよ、と。そうかな、と不安げな陽子に、祥瓊は大丈夫よ、と片目を瞑ってみせた。
 景王陽子は冢宰浩瀚におずおずと申し出る。雪を見に雁へ行きたいのでしばらく休暇をもらえないか、と。生真面目な主の稀な願いに、浩瀚は微笑した。
「急を要する案件はございませんから、よろしいのでは?」
「本当か、浩瀚」
 陽子はぱっと顔を輝かせた。浩瀚は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。主の伴侶の話になるといつも眉を顰める景麒も、浩瀚の説得に折れた。陽子は、隣国からやってきた鸞に、晴れ晴れとした声で応えを返し、空に放った。

 隣国の気儘な王は、珍しく鷹揚に景王陽子の要請を受け入れた。即ち、いつも強引に決める日程を、陽子の予定に合わせてくれたのだ。再びやってきた鸞の報せを楽しげに語る陽子に、景麒は眉根を寄せた。
「──不気味ですね。もしかして、大雪で高岫こっきょうが塞がれるかもしれませんよ」
「どうしてそう不吉なことばかり言えるんだ、景麒」
 真顔で語る半身に、陽子は柳眉を顰めて深い溜息をつく。しかし、景麒はあくまで真面目に問いかける。
「あの方が、こうも素直だったことがございましたか?」
「──ないかも」
 そんな景麒の言に、陽子は苦笑した。確かに、尚隆は気紛れに現れ、金波宮を気儘に振り回す。どちらかというと、困惑する陽子を見て楽しんでいるふうもあった。
「無茶だけはなさらぬように、楽しまれてくださいませ」
 景麒は恭しく拱手しながらも、喧しい諫言を忘れない。陽子は片眉を上げて、にやりと笑う。
「少しは主を信頼しろ」
「主上の日頃の行いを思えば、私の心配は尽きません。だいたい、また私の目を盗んで下界に降りられたでしょう?」
 景麒は厳しい視線を浴びせる。痛いところを衝かれ、陽子はまた苦笑した。それでも、柔らかな微笑を浮かべ、お忍びの感想を述べた。
「──固継は、黄領ちょっかつだからかもしれないが、みんな平和に暮らしていたよ」
 諫言しつつも景麒は、それはようございました、と返す。陽子は景麒を見返し、幸せそうに頷いた。

2007.01.29.
 中編「雪明」連載第1回をお送りいたしました。 予告してから、かなりの月日が経ってしまいました。ごめんなさい〜。
 散文ちっくな冬と雪の物語でございます。何も起こりません。 ほのぼのしつつ、途中妖しくなるのは、どうぞお許しくださいませ!

2007.01.29. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま
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