「続」 「戻」 「秋冬目次」 「玄関」

雪 明ゆきあかり (2)

* * *  3  * * *

「雲海の上から来い」

 厳冬の隣国からやってきた鸞は、笑いを含んだ伴侶の声で一言鳴いた。それを聞いた陽子はまたもや首を傾げる。陽子に問われた祥瓊は、下から行くと寒いからでしょう、と笑った。
 それから、雁は芳ほど雪深くないけれど、慶よりずっと寒いわよ、と教えてくれた。陽子は親友の忠告を容れて、冬用の旅支度を整えた。そして、陽子は皆に見送られ、班渠とともに雁へと旅立った。
 雲海の上から行くのですね、と班渠は笑う。その含み笑いの意味を訊ねる陽子に、班渠は応えを返さない。陽子は少し不満だったが、旅立ちの喜びがそれに勝った。
 麒麟を除けば常世最速の脚を持つ班渠に跨り、景王陽子は雲海の上を駆ける。雲海の上からも、白く輝く雪原を垣間見ることができ、陽子は感嘆の声を上げる。延王とご一緒に後でゆっくりとご堪能ください、と班渠はまた笑った。

 やがて、玄英宮の一角に到着した。久しぶりの訪問を、雁国主従が満面の笑みで迎えてくれた。
「陽子、よく来たな!」
 陽子が班渠から降りるなり、延麒六太が抱きついた。陽子は小柄な六太を受け止めて破顔する。
「六太くん、お久しぶり。会えて嬉しいよ」
「玄英宮で陽子に会えるなんて、おれ、すっげー嬉しい」
「六太、いい加減にしろ。早く陽子を休ませてやれ」
 延王尚隆が、はしゃぐ六太を嗜める。六太は不満げに頬を膨らませた。おれはついていけないのに、とぼやく六太に、視察だからな、と尚隆は笑う。嘘をつけ、と六太は怒声を上げる。相変わらずの雁国主従に、陽子は笑みを贈った。
「──ところで、どこへ行くの?」
 夕食を取りながら、目を輝かせて陽子は訊ねる。尚隆はにやりと笑うだけで答えない。六太が小さく肩を竦めて言った。
「こいつは、口を割ろうとしないんだ。悪いが、大人しくついていってやってくれ。ただし──」
 六太は言い止めて、にやにやと人の悪い笑みを見せる主の顔をじろりと睨む。そして、陽子に向き直り、優しい声で言った。
「この莫迦が悪さしたら、すぐおれに言えよ」
「俺が陽子に、どんな悪さをするというのだ?」
「何をしでかすか分からねえから言ってるんだろ!」
 呆れ顔の尚隆に、怒声を返す六太を、陽子は笑顔で見守る。相変わらずの賑やかで和やかな雁国主従との夕餉のひととき。陽子は心からそれを楽しんだのだった。
 掌客殿に戻り、茶の支度をした。御自ら茶を淹れる隣国の女王のため、茶器の用意がいつもなされている。喧しくはあるが気配りを忘れぬ官吏が揃う伴侶の国で、陽子は寛いでいた。

 いつものように、深更に、そっと伴侶が現れる。艶然と伴侶を迎え入れ、軽い口づけを交わす。いつも酒瓶を片手にやってくる伴侶が、今夜は手ぶらであった。
「──珍しいね、今日は、飲まないの?」
「今宵は、酒よりも、お前に酔いたい」
 訝しげに問う陽子を引き寄せ、伴侶は耳許で甘く囁く。歯の浮くような科白に頬を染めながらも、陽子はくすりと笑う。また何か、悪戯を考えているのだろうか。
「どうしちゃったの? ほんとに珍しい」
「──よく来たな。ずっと、待っていた」
 陽子の眼をじっと見つめ、伴侶はしみじみと告げる。陽子はそれ以上何も言えなかった。約束を忘れるほど長い間、待たせてしまったのだ、と気づかされたから。

(いつか、慶が落ち着いたら、ゆっくり雪を楽しむといい。俺が案内してやるから)
 かつてそう言って笑った伴侶。いつかって、いつだろう、と溜息をつく陽子を抱きしめ、尚隆は重ねて言った。
(──焦るな。どうせ、寿命は長いのだ。俺は、いつまでも待っているからな)

 昔交わした他愛もない約束を、ずっと憶えていてくれたひと。己のことで頭がいっぱいの陽子を、いつも見守ってくれている。温かな約束を、忘れていたのだ、と思うと、目尻に涙が滲んだ。
「──待たせて、ごめんね」
「まあ、よい。これから、たっぷりと埋め合わせをしてもらうとしよう」
 広い胸に頭を預けて小さく詫びると、伴侶は楽しげに笑う。真っ赤になって俯く陽子を軽々と抱き上げ、伴侶は臥室へと向かった。

* * *  4  * * *

 翌日、和やかな朝餉の後、六太はこまごまと陽子の冬支度を手伝った。過保護だな、と呆れる尚隆に悪態をつきながらも六太は楽しげだった。陽子はそんな六太の気遣いに感謝した。
 万全に準備を整えた陽子は、尚隆とともに玄英宮の禁門を飛び立つ。六太は名残惜しげに手を振って二人を見送った。

 雲海の下の世界は、冬の冷気を陽子に吹きつける。雪は少ないけれど、条風が吹くから雁は寒いのよ、と言った祥瓊の言葉を思い出す。
 寒風を感じつつ目をやると、眼下に真白の街が広がり、陽子は感嘆の溜息をついた。まだまだこんなものではないぞ、と北国の王は笑い含みに告げる。陽子の胸は期待に高まる一方だった。
 雪が少ないといわれる雁でも、山沿いは存外に雪が降る。尚隆はそう説明した。その言のとおり、山間に近づくにつれて雪が深くなっていく。
 葉を落とした落葉樹は、次第に少なくなった。その代わり、真っ直ぐな常緑樹の林が目に入る。背の高い常緑樹もところどころ雪に覆われ、蓬莱の樅の木を思わせた。それから、陽に照らされて白銀に輝く山肌を眺め、陽子は息を呑む。珍しいか、と訊ねる尚隆に、陽子は声なく頷いた。
 やがて谷間に小さな廬が見え、尚隆は小道に舞い降りる。冬なのに何故、廬に人がいるのか、と陽子は不思議そうに問う。尚隆は、牛を飼っている者は、通年廬にいるものだ、と教えてくれた。ああ、と陽子は納得する。こんな山間ならば、畑の作物もそう期待できない。であれば、牛を飼い、乳を搾ったり、肉を売ったりするのだろう。
 促す尚隆に続いて、陽子は雪の積もった小道に足を踏み出す。雪は陽子の足の下で、さくりと音を立てた。慣れない雪道を歩く陽子に合わせ、伴侶はゆっくりと歩んでくれた。
 小道の脇には柵があり、その中の雪原を幾頭もの牛がのんびりと歩いている。冬なのに外にいるんだね、と陽子は呟いた。運動不足になるから、昼は外に出すんだ、と伴侶は答えた。
 玻璃の入った民家、点在する牛舎。慶の廬とは違う景色を、陽子は物珍しげに眺めながら進む。雪道は緩やかに上り坂になっていった。
 小道の両脇には、慶では高地にしか見られない常緑樹が立ち並び、重そうに雪を載せている。風が吹くとその雪がさらさらと零れ落ち、まるで桜吹雪のようだった。
 そういえば、と陽子は気づく。慶で降る雪は、掌で融ける大きな牡丹雪だ。風が吹くたびに流れ飛んでいくここの雪は、まるで粉砂糖のよう。目を丸くしてそう告げる陽子に、そう美味いものではないぞ、と伴侶は楽しげに笑った。
 どこまで行くのか、と問うと、もう少しだ、と明るい応えが返ってきた。細長い廬を、かなり歩いてきた。氷点下の中でも、これだけ歩けば身体はじんわり温かい。けれども、手足と顔はかなり冷たくなっていた。そんなとき、あそこだ、と伴侶は小さな家を指す。
 丸太造りの家の煙突から、細く煙が立ち昇っていた。暖炉に火が入っているのだ、と陽子は嬉しく思う。自然と歩調が速くなる。尚隆は、そんなに急ぐと転ぶぞ、と手を差しのべた。陽子は笑顔で伴侶の大きな手を握った。
 小さな家に辿りつき、扉を開くと、冷え切った身体が緩んでいくのを感じた。暖炉で暖かな火が燃えていた。厨房の竈には大鍋がかけられ、湯がしゅんしゅんと沸いていた。みると、同様な大鍋が二つ三つ置いてあり、蓋の隙間から湯気が零れ出ている。これだけふんだんに湯があるのならば。
「わあ、すぐお風呂に入れそう!」
 嬉しげに歓声を上げる陽子に、尚隆はくすりと笑って首を振る。冷えすぎた身体をもう少し温めてからにしないと、ぬるい湯でも熱く感じると言うのだ。陽子は驚きに目を丸くした。暖炉にあたってこい、と笑う尚隆に、陽子は素直に従った。
 真冬の北国には、知らないことが沢山ある。陽子は子供のように好奇心を漲らせていた。暖炉の火で手を炙りながら、伴侶に明るく声をかける。
「手が温まったら、お茶を淹れるね」
「──俺は酒の方がよいな」
 伴侶の憎らしい声が少し遠くから聞こえる。明るいうちはお茶じゃないと駄目だよ、と陽子は大きな声で応えを返した。

2007.01.31.
 中編「雪明」連載第2回をお送りいたしました。 陽子主上、厳冬の雁にやってまいりました。 相変わらず散文くさく、何も起こりませんが、よろしければお楽しみくださいませ。

2007.01.31. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま
「続」 「戻」 「秋冬目次」 「玄関」