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雪 明ゆきあかり (最終回)

* * *  9  * * *

 気が済むまで雪明りを眺めた後、陽子は伴侶のために茶を淹れた。暖炉の前に座りこみ、二人で茶を飲むと、柔らかな沈黙に包まれているような気がした。
 陽子は膝を抱えて暖炉の火に見入った。燠となった大きな薪が、暗赤色に輝いている。燃え盛る炎はあんなに明るいのに、静かに燃える燠の色は何故昏いのだろう。
 視線を感じ、陽子はふと目を上げる。そこには伴侶の見つめる瞳があった。燠のように昏く燃える双眸に、陽子は小さく息を呑む。目を逸らすこともできず、陽子は、そのまま尚隆を見返す。
 黙して微笑む伴侶を、怖い、と思った。かといって、昨夜のように、逃げ出すことはできなかった。伴侶の熱い眼差しに射竦められた陽子は、動くことすらままならずにいた。

 もう、逃げられない。

 陽子は目を見開き、己を呑みこもうとする昏い炎に身を震わせていた。
「──どうした?」
 やがて、笑みを湛え、伴侶は口を開いた。陽子は深く息を吐き、視線を膝に落とす。その隙に 伴侶は音もなく陽子に近づいた。小刻みに震える肩を抱く伴侶は、更に陽子の頤を指で掬う。
「──怖いか?」
 再び視線を捉え、伴侶は陽子の心を見透かす問いかけをする。陽子は少しほっとして小さく頷いた。そうか、と伴侶は限りなく優しい笑みを見せる。しかし、それに反して陽子の肩を抱く大きな手の力が増した。

「──怖い俺も知っておけ」

 薄く笑い、伴侶は陽子を押し倒す。陽子は声にならない悲鳴を上げた。燠火が新たにくべられた薪を燃やすように、伴侶の瞳に火柱が立つ。

 怖い。でも、目が離せない。

 伴侶は見知らぬ男のように、欲望の炎を燃やす。その目は、仕置きだ、と嬲った昔を思い起こさせ、身が竦んだ。思わず動かした手は、軽々と掴まれ、頭の上で縫い止められた。
 動けない陽子の唇に、伴侶は荒々しく口づける。そして、帯を解くのももどかしく、陽子の肌を貪った。その、暖炉の炎よりも熱い焔に、陽子はなす術もなく翻弄された。
 それでも、男の情熱的な口づけも、奔放な愛撫も、純粋に陽子を求めていた。嬲るためでなく、苛むためでなく、男は、単純に女を求めている。熱く、烈しく、ただ陽子だけを──。
 身が震え、涙が滲んだ。それは、男が怖いせいではなかった。かつて、遠慮は止めた、と男は笑った。そのとき、陽子は初めて、本当の女の悦びを知った。あのときの情熱でさえ、伴侶は陽子のために己を抑えていたのだ、と今なら分かる。
 このひとは、いつも陽子を見守っている。ずっと陽子を待ってくれている。もっと大人になるまで。もっと余裕が持てるまで。今、やっと気づいた。

 ああ、このひとの情熱は、燠火なのだ。いつも、熱く密かに燃えているのだ。

 いくら温かく見えても、触れれば火傷するそれは、やはり、熱く燃える焔なのだ。そして、このひとは、己の熱が陽子を焦がしてしまうと知っている。だからこそ、このひとは、陽子に触れることを、時折躊躇うのだ。
 炎を宿す双眸を見つめると、切なくなる。陽子は知らないうちに、燠火に薪をくべてしまったのだろうか。それならば、この火にとことん焼かれてみよう。陽子は伴侶に乱されながらそう思う。身体は既に、伴侶の情熱に蕩かされつつあった。
 ざざざ……と──波の音がする。冬の山の中、ここには雲海もないというのに。この身体を激しく揺らす目の前の男が、海を思い起こさせるのだろうか――
 寄せる熱い波を感じ、身体が強張った。思わず息を呑み、手首を掴む男を促すように見つめる。男は、高まる熱を放ち、大きな溜息をつく。痛いほど力を籠めて掴んでいた手首を離した男は、詫びるように口づけを寄越した。そして、そっと陽子の指に、武骨な指を絡めた。
 果てた男の重みは、甘い悦びを感じさせる。そして、男の身動ぎは、新たなうねりを呼び寄せる。再び息を呑み、陽子は絡められた指を、強く握った。
 訝しげに覗きこむ男に、潤んだ目を向け、陽子は微笑する。男のひとには、分からないかもしれない。寄せては引いていく、この幸せな波は──。

 炎のような男の熱に、身も心も焦がされた。怖くなかった、と言うと、嘘になる。けれど。

 それでも、あなたなら──怖くない。

 零れる涙を優しく拭う愛しいひとに、陽子は胸で呟いた。

* * *  10  * * *

 肌寒さを感じて目が覚めた。陽子は夜着にくるまれ、ひとり臥牀に横たわっていた。辺りはまだ闇が漂っている。

 それなのに──伴侶は、いない。

 不安な気持ちを抱え、そっと身を起こす。陽子は夜着を羽織り、伴侶を捜した。暖炉では燠火が昏く燃えている。その細い光が、騶虞すうぐに凭れ、褞袍を掛けて眠る伴侶を照らしていた。
 陽子は安堵に小さく息をつく。そして、切なく伴侶を見つめた。王でありながら、野宿のように眠るひと。不寝番をしていたのだろうか。それよりも──二人で寄り添った方が、温かいのに。
 陽子は己も褞袍を取り出し、騶虞と伴侶に近づいた。片目を開けた騶虞に、たま、と小さく声をかけ、伴侶の横に腰を下ろす。それから、褞袍にくるまり、伴侶に寄り添って目を閉じた。

 やがて、微かな身動ぎと明るい光で再び目が覚めた。隣に温もりがあることを確かめて、陽子はほっとする。目を上げると、複雑な光を宿す瞳があった。
「おはよう」
 笑みを湛えて声をかけると、伴侶の瞳が和らいでいった。雲の隙間から陽が射すように、少しずつ、ゆっくりと。それから伴侶は窓の外を見やり、天気が回復したな、と笑みを見せた。

 短い休暇は終わりを告げる。伴侶は小屋の前から一気に戻ろうと提案したが、陽子は首を振った。膝まである雪道を歩いてみたいと我儘を言ったのは、二人の時間を惜しんだから。そんな気持ちを知ってか知らずか、お前は物好きだな、と伴侶は笑った。
 昨日の吹雪が嘘のように、今日の空は晴れ渡る。仄白い北国の蒼穹を見上げ、陽子は感嘆の溜息をつく。

 ──国は、王に似るのだろうか。それとも、王が国に似るのだろうか。

 この北の国は、この冬は、まるで国主たるこのひとのようだ。厳しくて、優しくて、気紛れで、掴み所がない。だからこそ、翻弄されて困惑しても、こんなに魅せられてしまう──。
 前を歩くひとの背を見つめると、じわりと涙が滲んだ。視線を感じたのか、伴侶は陽子を振り返る。僅かに目を見張り、伴侶は、どうかしたか、と問うた。陽子は慌てて首を横に振り、言い訳をする。
「──雪が、眩しくて、目に染みただけ」
「雪目かもしれないな、見せてみろ」
 心配そうに覗きこむ伴侶の眼を見ると、ますます涙が滲んだ。少し赤いな、と呟いて、伴侶は陽子に背を向けて、乗れ、と屈んだ。
「──大丈夫だよ、碧双珠もあるし」
「いいから、乗れ」
 伴侶は重ねてそう促す。躊躇いながらも、陽子はその広い背に身を預けた。

「──雁の冬は、どうだった? 雪は……楽しめたか?」

 陽子を背負った伴侶は、どこか躊躇うようにそう訊ねる。陽子は目を閉じ、この数日の出来事を反芻した。
 さらさらの粉雪、どこか白い青空、美しい雪明り、そして、荒れ狂う吹雪。色々なものを思い浮かべ、陽子は弾んだ声で答えた。
「うん。知らないものを、沢山見ることができて、楽しかったよ。冬も雪も、厳しいだけじゃないんだね」
「──そうか。それはよかった」
「結局、如何に受け入れて、どう対処するか、だよね」
 ずいぶん悟ったようなことを言うんだな。尚隆はそう言って苦笑する。悟ったんだよ、と陽子はくすりと笑って応えを返す。
「──私だって、いつまでも子供じゃないんだから」
 伴侶はぴたりと足を止めて振り向いた。呆れたような、驚いたような、複雑な色を浮かべる瞳をじっと見つめ返す。それから、陽子はにっこりと笑んでみせた。
 守られるだけでは、決して知り得ないもの。見て、触れて、己で確かめたい。厳しい寒さの中で見つけたからこそ美しい、あの雪明りを、陽子はきっと忘れない。

 だから、大丈夫。いろんなあなたを私に見せて。優しいあなただけでなく、厳しいあなたも、怖いあなたも知りたい。王であるあなたも、小松尚隆に戻るあなたも、風漢を名乗るあなたも。

 知らないからこそ、もっと知りたくなる。同じものを背負う王だからこそ、同じものを見つめたい。その瞳に隠す昏い深淵も、胸に抱く過去も、そして、見据える未来も共に見たいのだ。

 お前は、本当に物好きな女だ。

 そう嘆息しつつも、伴侶は楽しげな眩しい笑みを見せた。

2007.02.10.
 大変お待たせいたしました。中編「雪明」連載第5回をお届けいたしました。 これにて無駄に長いお話は終了でございます。お付き合いいただき、ありがとうございました。
 ──やっぱり何にも起こりませんでしたね。どうぞお許しくださいませ。 それでも、冬と雪の世界を書き綴ることができて、私は望外な幸せを感じております。 ご一緒にお楽しみいただけると嬉しく思います。

2007.02.10. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま
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