雪 明 (4)
* * * 7 * * *
朝の光で目が覚めた。身体を包む温もりを感じる。頭の下にある太い腕、そして、髪を掻きあげる指がそっと頬に触れる。陽子はゆっくりと目を開けた。見つめる瞳が優しく微笑む。寝顔をじっくり見られていたのだと思うと顔が火照った。
おはよう、と笑い含みの声が言った。陽子は咄嗟に衾で顔を隠した。そんな陽子を軽く抱き寄せて、よく眠れたようだな、と伴侶は笑う。うん、と小さく返事をすると、伴侶は起き上がった。つられて身を起こすと、少し寒い。暖炉の火は消えているようだった。
火を熾してみるか、と尚隆が笑う。火鉢に火を入れたことはあるが、暖炉の火を熾したことはない。陽子は二つ返事で立ち上がる。
熾し方を知っているか、と問われて、陽子は少し考える。昔蓬莱で見た絵本が、何故か頭に浮かぶ。見よう見まねで、陽子は暖炉に薪を組み上げようとしたが、思ったような形にならない。悪戦苦闘する陽子に、尚隆は少し笑って声をかけた。
「最初は、そんなに複雑に組む必要はないぞ」
尚隆は大きな薪を二本取り出し、真ん中を空けて暖炉に置く。そして、その上に中くらいの薪を何本か、橋のように渡した。その下の空間には、上につかない程度に小枝を沢山入れる。陽子は目を丸くしてその様子を眺めていた。
「──木の皮に火を点けて、小枝の上に置いてみろ」
目を丸くしたまま、陽子は木の皮に火を点けて、小枝の上に置いた。火はめらめらと燃え上がり、上の薪に支えて下に広がる。そして、瞬く間に小枝に燃え移った。小枝はぱちぱちと音を立てながら炎を上げ、ゆっくりと上に積んだ中くらいの薪を炙っていく。
「こうするとな、最後に大きな薪に火が点いて、ゆっくりと燠火になる」
「──大きな薪をくっつけたらどうなるの?」
「火が勢いよく燃えすぎて、暑いぞ」
へえ、とますます目を見開く陽子に、目が落ちそうだな、と尚隆は笑って言った。伴侶の言うとおり、小枝は中くらいの薪に火を移し、大きい薪を焦がして燃え尽きた。中くらいの薪が燃え落ちてきて、その炎が大きな薪をゆっくりと炙っていく。大きな薪は静かに燃えて、やがて燠火になった。
その様子をずっと見守っていた陽子は、漂ういい匂いに気づいた。慌てて厨房に向かうと、尚隆は既に朝食を卓子に並べていた。
ごめんね、と謝ると、お前を見ているほうが面白かったぞ、伴侶は楽しげに笑う。陽子は少し頬を膨らませた。それでも、伴侶が用意した簡単な朝餉を、美味しく食したのだった。
今日は何をするの、と訊ねると、外を見てみろ、と伴侶の応えは簡潔だった。陽子は窓を見やり、あ、と小さく声を上げる。窓は真っ白で、何も見えなかった。陽子は思わず立ち上がり、窓に駆け寄った。
玻璃の入った窓から見た外は、すぐ傍の木が見えないほど吹雪いている。昨日はあんなに天気がよかったのに、と陽子は小さく溜息をついた。しかし、雪がこんなに降っているのを見るのは初めてだった。
雪は斜めに激しく降りしきっていた。ひゅるりと風が唸り、時折家をも揺らす。北国の家の窓に玻璃が必要なわけを、陽子は今更ながら悟る。これでは、紙など貼っても無意味だ。
「こんな日は何をするか知っているか?」
いつの間にか隣に立っていた伴侶が、人の悪い顔をして訊ねた。陽子は少し警戒する。また何か悪戯を考えているかもしれない。
「──家の中でできることをするんでしょう?」
そうだ、と伴侶はあっさりと首肯する。陽子はその肩透かしに面食らった。こんなときのために、薪を割らずに置いてあったりするんだ、と伴侶は笑う。そして玄関の土間に積まれている太い木の幹を指差した。ほんとだ、と陽子は肩の力を抜いて笑った。
それからな、と伴侶はにやりと笑った。冬は日の出が遅いし、日の入りも早い。だから、さっさと寝てしまう。そう言って伴侶は陽子を抱き寄せる。
「──夜が長いから、お楽しみの時間も長いのだ」
「ま、まだ、明るいよ……」
「硬いことを言うな、せっかく二人きりなのに」
班渠がいるよ、と口に出す前に、唇を軽く塞がれた。陽子は少し慌てて、吹雪も体験してみたい、と言ってみた。尚隆は、大きな溜息をつきつつも頷いた。
* * * 8 * * *
「こんな日に外へ行きたいなど、酔狂だな」
「だって、吹雪なんて、初めてなんだもの……」
外に出る支度をしながら、尚隆は片眉を上げて苦笑した。そんな伴侶に、陽子は上目遣いで訴える。分かっているさ、とまた尚隆は苦笑した。ただ、遭難するからすぐ傍までだぞ、と念押しをする。陽子は素直に頷いた。
扉を開いて外に出た。荒れ狂う風の叫びが耳許で響き、思わず首を竦める。容赦なく雪が叩きつけられ、頬が痛い。目を開けるのも辛い状態だった。
足許を見ると、小道も足跡も跡形もない。芳の冬は里に籠もりきりだ、と言っていた祥瓊の苦笑を思い出した。確かに、こんなふうに道がなくなってしまうのなら、どこへも行けないだろう。
少しずつ目を上げていった。近くの木々も、白くぼやけて見える。遠くなど、見えるべくもない。まるで白い闇に閉じこめられてしまったようだ。
雪を踏みしめ、空を見上げてみた。逆巻くように雪が襲ってくる。その様は、恐ろしくもあり、美しくもあった。見る間に顔にも雪が降り積もる。空を見つめて動かない陽子に、そろそろ戻ろう、と伴侶が声をかけた。
玄関の土間で身体に積もった雪を払った。ほんの短時間だというのに、雪だるまのようになってしまった。確かに、こんな天気に外に出るなど、酔狂どころか自殺行為だ。
隣の物置に辿りつけずに遭難することもある、と伴侶が顔を蹙めて言った。陽子は大きく頷いた。これだけ視界が奪われれば、それも有り得ると実感したのだった。
北国ではみんな、この厳しい冬に耐えているのだ、と思うと胸が熱くなった。陽子がそう伝えると、伴侶は仄かに笑って言った。
「それは、お前が雪のない冬を知っているからではないか?」
ここではこれが当たり前だ、と伴侶は軽く笑う。冬には雪が降るから、その前に準備をするのだ、と。雪に塗りこめられる前に薪を集め、炭を買い求め、食糧を用意する。ずっと、そうやって生きてきたのだから。
目を丸くしながらも、陽子はその言葉に納得した。雪のない慶の国を知っているからこそ、この冬を厳しいと思う。これしか知らなければ、冬に雪が降るのは当たり前。この冬を越すための準備を怠らないようにするのだろう。そして、冬を越すために何が必要かを考えるのだろう。
豊かな雁では、民家にも当たり前に玻璃が入り、暖炉がある。街道には馬車が行き交い、川には馬車が渡れる堅牢な橋が架かっている。貧しくて馬車に乗れない者ですら、馬が雪を踏み固めた途を歩くことができる。
まだまだ貧しい己の国を思い、陽子は溜息をつく。それでも、慶も少しずつ前に進み、民は雪を楽しむ余裕を持ちつつある。焦らず、急がず、一歩ずつ歩んでいこう、と陽子は胸に誓っていた。
何にもなかったんだぜ、と笑う延麒六太の顔が胸を過った。何もないところから少しずつ積み上げて、この国はここまで大きくなったのだ。五年や十年ではできぬことをやるのが王だ、とこの国の王はいつも笑う。こんなとき、陽子はその言葉の重みを実感するのだ。
「──そうだね」
陽子は笑顔で応えを返し、今度は薪割りをしてみたいとねだった。普通女は布を織ったり籠を編んだりするものだぞ、と尚隆は渋い顔をする。そう言いながらも伴侶は面白がるのだ、と陽子は知っていた。
それから、へっぴり腰を笑われながらも土間で薪割りをした。陽子は己が割った不恰好な薪を暖炉の近くに積み上げながら訊ねた。
「不恰好でもちゃんと燃えるよね」
「燃えてしまえば分からないぞ」
「──もっと他に言いようがあるじゃないか」
伴侶は人の悪い顔をして応えを返す。向きになる陽子を見て、伴侶はますます笑った。そんなふうに、雁の廬での暮らしは、楽しく、他愛なく過ぎていった。
吹雪は断続的に続いていた。雪が止んでも、強い風は積もった軽い雪を散らし、いたるところに吹き溜まりを作り上げている。日が暮れかけてもまだ外は白かった。いや、暗くなればまた、雪原は白く浮かび上がるのだ。
そんな雪明りを、陽子は玻璃に額をつけて見つめていた。ずいぶん気に入ったようだな、と伴侶は微笑した。陽子は振り返り、笑顔で頷いた。家の中からだったら気が済むまで眺めてもいいよね、と訊いてみる。伴侶は苦笑しつつも優しく頷いた。
2007.02.08.
大変お待たせいたしました。中編「雪明」連載第4回をお送りいたしました。
相変わらず何にも起こらなくてごめんなさい!
今回の「火の熾し方」は、ほぼ実話でございます。ただし、薪ストーブの、ですが。
私が小さい頃使っていた薪ストーブ、こうやって火を点けておりました。
実際は小枝ではなく、細く切った「焚きつけ」と呼ばれる薪を使っておりました。
そして、木の皮よりも、灯油を染みこませたおが屑を使うことが多かったです。
さて、次回でやっと終わります。
恐らく注意書きに相応しい内容になると思われます……。
2007.02.08. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま