「黄昏余話」 「献上品」 「玄関」
TRcatさま「19999打記念リクエスト」

帰 還

 誰もが固唾を飲んでそれを待っていた。未明の蒼穹に現れ出た黒い一点に、残されていた者たちは色めきたつ。黒い染みは二点に分かれ、吹き寄せる風に押される如く飛来し、露台に舞い降りた。
 我知らず走りだした景王陽子は、班渠に跨った延王尚隆を凝視する。駆け寄る人々を振り返る尚隆の瞳には複雑な色が浮かび、陽子は思わず足を止めた。視線が絡みあう。切迫したその瞳に宿る想いは、何なのか──。
 一歩遅れて舞い降りた悧角の背から、伏していた人影が滑り落ちた。我先に駆け出した景麒と延麒が蹈鞴を踏んで低く呻き、陽子ははっと我に返った。尚隆は黙してその人影に目を遣る。

「……ちび、なのか……?」
 掠れた囁きを漏らし、六太は僅かに退った。それは口も利けずにいる景麒も同様だった。
「……どうして、こんな」
 六太は再びそう呟き、数歩後退した。景麒は石のように固まり、その場に立ち尽くす。それは廉麟も、己の主に縋ったままの氾麟も同じだった。
 麒麟たちはどうしたのだろう、陽子は訝しげに問いかける。あれが泰麒か、と。景麒が振り返り、悄然と頷いた。陽子は泰麒に駆け寄った。後ろから李斎が近づいてくる気配かした。

「ねえ、これは何なの!?」

 氾麟が悲痛な叫びを上げた。陽子は目を見開く氾麟を振り返った。その叫びに答える者はない。氾麟は譫言のように声を上げた。

「こんなの穢瘁じゃない。──血の穢れなんかじゃないわ! これは泰麒自身に対する怨詛じゃないの!」

「──嬌娘」
 その場に崩れ落ちる氾麟を、氾王が支えた。躊躇する陽子を、氾王が目で促す。陽子は倒れた泰麒に縋る李斎の肩を叩いた。固く目を閉じ、土気色の顔をした泰麒を抱き上げ、尚隆が冷静に言った。
「──蓬山に連れて行こう。このままここに留め置いても回復は見こめぬ」
 延王尚隆は泰麒を抱え、悧角に跨った。景王陽子は景麒を振り返ってひとつ頷き、己も班渠に跨る。
「──お待ちください! どうか、私もお連れください!」
 李斎が必死の形相で叫ぶ。戴の者として己にも行く権利がある、と言い立てる李斎を、誰も止められなかった。
「──延王、少しご休憩なさったほうがよろしいのでは? お顔が蒼白でございますよ」
 紙のように血の気の失せた顔した廉麟が声をかけた。厳しい顔をしていた延王尚隆は薄く笑う。李斎とその騎獣飛燕の準備が整うまで、皆がしばしの休憩を取ることとなった。

* * *    * * *

 泰麒は速やかに運ばれていった。駆けつけた鈴に旅の支度を頼み、李斎は泰麒を追って出ていく。
 それを見送った陽子は、悄然と肩を落とす景麒と延麒に声をかける。二人とも、麒麟が近寄れぬほど穢濁に塗れた泰麒の姿に衝撃を隠さなかった。生きているのが不思議なくらいだ、と六太は呟く。そそけ立つように景麒が同意した。
 氾王は倒れた氾麟を抱いて己の堂室に戻っていった。廉麟は堂室の隅で手を揉み絞り、瞑目している。延王尚隆も、いつの間にか自室に引き取ったようだった。

 陽子は小さく溜息をつく。泰麒の惨状に、平静を保つ者はいない。それは己も例外ではないことを、陽子は知っていた。
 それでも景王陽子は己のやるべきことをしなければならなかった。冢宰浩瀚と太師遠甫に留守中の後事を託す。その後、残された僅かな時間を縫って、陽子は密かに延王尚隆の堂室に向かった。

 いったい何があったのだろう。泰麒は何故あんなに衰弱しているのか。

 泰麒捜索をしていた麒麟たちは、泰麒の使令が危険な状態に陥っていると告げていた。泰麒は麒麟としての本性を失い、凶悪化する使令を抑えられないでいる、と。
 陽子はあちらに現れた妖魔を初めて見たときの驚愕を思い出していた。陽子を襲う塙王の遣わした妖魔は、あちらに住む何も知らぬ人々をも傷つけた。

 もし、泰麒の使令が、あんなふうに暴れたならば──。

 慈悲と哀れみを本能で施す麒麟である泰麒が、どれほど傷つくだろう。蒼白な顔をした麒麟たちが、次々に陽子の頭に過ぎっては消えた。
 それでも泰麒は帰ってきた。意識を失ってまでも。陽子と同じ年頃の麒麟は、血の匂いを纏い、目すら開けていない。

 そして、尚隆は何故、あれほど憔悴しているのだろう。

 回廊を歩きながら、陽子は伴侶に想いを馳せる。帰還したときに視線を合わせたきり、陽子は尚隆と口を利いてもいないのだ。
 控えめに扉を叩いた。応えはない。少し逡巡した挙句、陽子は扉をそっと開いた。
 尚隆は榻に寝転び、窓の外に目を向けていた。声をかけるのも躊躇うような、張り詰めた空気を纏ったまま。陽子は何も言えずに扉の前に立ち尽くした。

 何と声をかけるつもりだったのだろう。このひともまた、五百年ぶりの故郷から帰還したばかりだというのに──。

 今まで、己の想いのみに拘っていたことに、やっと気づいた。故郷に想いを馳せていたのは、陽子だけではないのだ。
 麒麟による泰麒捜索が行き詰まった頃、陽子はいてもたってもいられない気持ちになった。今の蓬莱をよく知る陽子が捜しに出向いたほうがよいのではないか。密かに胸の内を伴侶に語ったことがあった。
 王は虚海を渡るべきでない。尚隆は陽子にそう諭した。王が渡ると大きな蝕が起こる。厄災が起こると分かっているのに、あえて陽子が虚海を渡る必要はない。ただでさえ胎果の王は、蝕により流され、常世に帰還したときも蝕を起こしているのだから。
 胎果の王のその言に、景王陽子は唇を噛んで黙した。蝕を起こすことは最小限にしてほしい、そう述べた碧霞玄君の言葉も思い出した。
 それでも、泰麒を連れ戻すために、王が虚海を渡る必要ができた。只人となった泰麒を仙にするためには、王が出向かなければならない。そうして延王尚隆は再び虚海を超えたのだ。

 このひとは、どんな想いで陽子を諭したのだろう。そして、どんな想いを故郷に置いてきたのだろう。

 陽子はそれを伴侶に訊ねる勇気を持たなかった。
 押し黙り、扉の前に立ち尽くす陽子に、尚隆は促す目を向ける。その視線に引かれて、陽子は尚隆が寝転ぶ榻に足を運んだ。
 陽子は枕許で立ち止まり、躊躇いがちに尚隆を見下ろす。その腕を無造作に引いて己の胸に収めると、尚隆は息もできぬほどきつく陽子を抱きしめた。突然のことに、身体が潰れるような痛みを感じ、陽子は小さく喘いだ。己を抱く伴侶の腕は、僅かに震えている。

 見るな。訊くな。ただ、ここにいろ。

 陽子を抱き潰してしまいそうな強い腕は、そう伝えているような気がした。陽子は伴侶の胸に迫る想いを、常より速いその鼓動に聞く。
 それでも、このひとは、泣くことができないのだ。例え、誰も見ていなくても、涙を零すことはないのだ。それは、このひとが「王」だからなのか、「おとこ」だからなのかは分からない。そう思うと、瞳に涙が滲む。
 陽子は伴侶の広い背に腕を回し、労うように抱きしめた。そして、潤んだ瞳で伴侶を真っ直ぐに見つめる。昏い光を宿すその双眸を覗きこみ、その深淵から言葉を手繰る。そうやって、陽子はようやく見つけたのだ。胸の痛みに黙して耐える伴侶に贈るべき言葉を。

「──お帰りなさい、尚隆なおたか

 柔らかな笑みを浮かべてそう告げる陽子を、尚隆は目を見張って凝視した。それから、その大きな体躯に纏う緊張が、ゆっくりと解れていく。切迫していた瞳も、昏い闇を払い、光を湛えていく。腕の震えが止まる頃、伴侶は薄く微笑み、掠れた声で応えを返した。

「──今、帰った」

 そして、互いに視線を求め、唇を求め、温もりを求めた。胸に抱く想いが帰り着く処は、結局互いの許なのだ、と二人には、もう分かっていた。

2006.10.17.
 「19999打記念」リクエスト、短編「帰還」をお届けいたしました。 御題は「泰麒をつれて帰った後の尚隆×陽子」でございました。
 リクエストしてくださった TRcatトラネコさん、 大変お待たせいたしました。 リクをいただいたのは4月だったような気がします……(汗)。
 「黄昏」本編に密接に絡むものだけに、半年かけて想いを凝縮させました。 執筆は、昨日一気、でしたが。 尚、このお話の尚隆視点は「黄昏」本編に入る予定でございます。 お気に召していただけると嬉しいです。

 「帰還」尚隆視点は長編「黄昏」第37回第74章〜第38回第76章でございます。 ご覧になりたい方はこちらからどうぞ。 (2009.01.12.追記)

2006.10.17. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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