黄 昏 (37)
* * * 73 * * *
執務室にて政務を執っていた景王陽子は、筆を置いては小さく息をついた。延麒六太が雁から戻り次第、延王尚隆は、虚海を渡る。胎果の王が、胎果の麒麟を迎えに、蓬莱へ出く──。
泰麒は、蓬莱は、そして──王が渡ることによって起こるであろう蝕は。
積み上げられた書簡を突き抜けて、陽子の心は彷徨う。それに気づいては再び筆を取り、自嘲の溜息をつくのだ。
「──主上」
何度か目の深い溜息をついたところで、冢宰浩瀚が嗜める声を上げた。陽子はびくりと肩を震わせる。自身も朝から溜息をつきまくっていた景麒を、執務室から叩き出したのだ。陽子は軽く咳払いをして顔を上げた。
「な、なんだ、浩瀚」
「今日は全く身が入っておられないようですね」
「そんなことは……」
「ございます」
自信なげに続けた言葉は、浩瀚にきっぱりと否定されてしまった。言葉に詰まる陽子に、にっこりと笑みを浮かべつつ、浩瀚は畳みかける。
「今日はもうお休みなさいませ」
「大丈夫だ。まだできる」
「いいえ、お休みください」
ささやかな抵抗を試みる陽子に、浩瀚は物騒な笑みを見せた。その有無を言わせぬ口調に、陽子はもう言い返すことを諦め、後事を浩瀚に託し、退室したのだった。
六太は戻ったのだろうか。尚隆は、まだ自室にて待機しているのだろうか。
虚海を渡る伴侶に想いを馳せながら、陽子は清香殿に向かう。もう一度、顔を見たい。けれど。会って、何を話せばよいのだろう。
昨夜、陽子は伴侶の前で涙を零した。陽子が帰ることを禁じられた故郷に出向くこととなった、もうひとりの胎果の王を羨んで。陽子はそんな浅ましい己を恥じて、また泣いた。五百年ぶりに故郷に戻る伴侶は、ごめんなさいと呟いて子供のように泣く陽子を、もう謝るな、と優しく抱きとめた。
どこまでも不甲斐ない陽子を、尚隆はどうして受け止めるのだろう。揺るぎなく強い腕に抱かれながらも、陽子は涙を止めることはできなかった。そして、まんじりともせず、夜が明けていくのを感じていた。
空が白む前に起き上がった伴侶は、少し眠れ、と陽子の耳に囁いた。このひとには、何も隠せない。陽子は微かに頷き、出て行く伴侶の背を見送った。それから、声を殺して泣いた。
浅い眠りから目覚めると、空が白んでいた。陽子は身支度を整え、蘭雪堂に向かった。程なく現れた延王尚隆に、今度は笑みを向けることができた。陽子は揺れる己を抱きとめてくれた伴侶に、胸でそっと感謝したのだった。
「──悧角、頼んだぞ」
躊躇いがちに足を踏み入れた清香殿で、景王陽子は延麒六太の声を聞いた。その声に引かれて露台に出ると、三尾の狼に跨った延王尚隆の背が、見る間に小さくなっていくところだった。
ああ、行ってしまった。
伴侶の背を見えなくなるまで見送ってから、陽子は六太に声をかけた。振り返る六太は多少疲れた顔をしていたが、元気な笑みを返す。そして、仕事は、と訊ねた。陽子が執務室を追い出された経緯を話すと、六太は声を上げて笑った。
それから六太は景麒と泰麒について知っていることを話してくれた。あの景麒が、泰麒を弟のように可愛がっていたとは。陽子は驚きを隠せない。それを見て、六太はまた笑った。
そんなとき、慌しい足音と共に氾麟が姿を見せた。泰麒はこちらを覚えていないようだ、と告げる氾麟に、六太は血相を変えた。
蘭雪堂に戻り、実際に泰麒に会った廉麟に確かめる。廉麟は悄然と泰麒の様子を語った。泰麒は自分が何者で、使令が何で、何が起こっているのか、分かっていないのだ、と。
角か、と六太は吐き捨てる。どうすれば、と心許なげに訊ねる廉麟に、六太は乱暴に答えた。記憶があろうとなかろうと、呼び戻さないわけにはいかないのだ。
このままでは泰麒は遠からず命を落とす。そうなれば、度を失っている使令はあちらに災いを成すだけ。真に解放された饕餮が何をしでかすかは想像もつかない。
六太の言で己を襲った巨大な妖鳥を思い出し、陽子は背筋を粟立てる。尚隆に報せは、と六太が訊ねた。氾麟は既に使令を遣わしていた。
泰麒はこちらへ連れ戻さなくてはいけない。本人が嫌がるのなら、攫ってでも。そして六太は決然と告げる。
「それでもいいな? 覚悟できるな?」
はい、李斎は痛々しいほどに白い貌で頷いた。陽子は思わずそんな李斎から目を逸らし、六太を見つめた。
「延麒……」
「もう、迎えに行った尚隆に委ねるしかない。──あいつは、任せろ、と言った」
だから、何が起きても何とかするだろう、と六太は薄く笑った。陽子は黙して頷く。延王尚隆が任せろと言ったからには大丈夫。尚隆はできない約束をする人ではないのだ。それでも。
待つことしかできない、緊張した時間。蘭雪堂は緊迫した陰鬱な空気に包まれていた。何もしないことに耐えられず、陽子は黙々と茶を淹れ続けた。
* * * 74 * * *
五百年ぶりの蓬莱を後にし、延王尚隆は泰麒とともに呉剛の門を潜る。光に満ちた短い隧道を再び抜けて、飛び出した海の上は、波が泡立ち、吹き荒ぶ風に千切られて四散していた。
押し寄せる烈風に乗り、泰麒を背負う悧角は疾走する。尚隆は同じく疾走する班渠の背から泰麒を眺める。蝕を考慮して、半日かけて大陸から遠ざかった。帰路も同じ選択をした。
病んだ泰麒は、この旅に耐えられるだろうか──。
軽く首を振り、尚隆は再び前を向く。余計なことに囚われず、疾く、疾く戻れ。そのために最も脚の速い使令を選んだのだ。
そして、払暁の頃、悧角と班渠は金波宮に辿り着いた。吹き荒れる風に乗って疾走していた班渠は、広い露台の奥へと弧を描いて舞い降りた。
班渠とともに振り返ると、駆け寄る景王陽子と目が合った。その、切迫した翠玉の瞳。その双眸に、蓬莱で見た泰麒が重なった。見知らぬ他人の顔をした、麒麟。
そう、陽子も、あちらでは、姿が変わるのだ──。
視線が絡み合い、陽子は躊躇うように足を止める。そんなとき、一拍遅れて到着した悧角の背から、人影がずり落ちた。争うように駆け寄ろうとしていた景麒と六太が蹈鞴を踏んだ。その低い呻き声に、陽子ははっと視線を外す。尚隆も露台にくずおれた人影に目を遣った。
あれほど待ちわびた泰麒の帰還。それなのに、麒麟は誰も泰麒に近寄れないのだ。どうしてこんな、と言ったきり絶句した六太。声を発することすらできない景麒。蓬莱にて泰麒を確認したはずの廉麟さえ、蒼白になって立ち止まるばかりだった。
そんな中、陽子が訝しげに景麒を見やり、あれが泰麒か、と問うた。振り返った景麒が頷くと、陽子は露台に倒れた泰麒に走り寄る。その後を、李斎がまろぶように追った。
「ねえ、これは何なの!?」
主に縋ったままの氾麟が叫ぶ。陽子が振り向いて目を見張った。氾麟の問いに答える者はなかった。
「こんなの、穢瘁じゃない。──血の穢れなんかじゃないわ! これは泰麒自身に対する怨詛じゃないの!」
譫言のように続け、氾麟はくずおれた。氾王がその身体を受け止める。尚隆は足早に泰麒に近づき、動かぬその身を抱き上げた。固く目を閉じ、土気色の顔をした泰麒を見つめ、尚隆は断じる。
「──蓬山へ連れて行こう。このままここに留め置いても回復は見こめぬ」
言いながら、泰麒を抱えた尚隆は悧角に跨る。景麒に目配せした陽子が即座に班渠に走り寄った。そのとき。
「──お待ちください! どうか、私もお連れください!」
それまで黙していた李斎が蒼褪めた貌で叫んだ。戴の者として、己にも行く権利がある、と李斎は言い募る。それを止められる者など誰もいなかった。
「──延王、少しご休憩なさったほうがよろしいのでは? お顔が蒼白でございますよ」
不意に声をかけられ、尚隆は廉麟に目を遣った。自身も血の気の失せた顔を見せながら、廉麟は尚隆を気遣う。こんなときでさえ、麒麟は他人を慮るのか。そう思い、尚隆は廉麟に淡い笑みを返した。
「──李斎の支度が整うまで、時間が必要であろ。その間、みな休まれてはいかがか。無理は禁物ゆえ」
意識を失った氾麟を抱き上げた氾王が提案した。ずっと緊張し続けていた者たちは、その言に従った。氾王とは犬猿の仲の延王尚隆でさえも、逆らうことはなかった。
泰麒は速やかに運ばれていった。駆けつけた女御に旅の支度を頼み、李斎も泰麒を追って出ていく。それを見送り、尚隆も蘭雪堂を後にした。
「──助かると思うかえ?」
「さてな」
後ろからかけられた声に振り向きもせずに答えた。声を発した者はくつくつと笑う。
「素気無いねえ」
「──上が何を考えているかなど、俺に分かるはずもなかろう」
「本気で言っているのかえ?」
意識のない氾麟を抱いた氾王は可笑しげに訊く。己と同じく王である男の問いに、延王尚隆は立ち止まる。振り返って氾王を見据え、尚隆は口許を歪めた。
「俺に何を言わせたいのだ?」
「──嬌娘が倒れるほどの穢瘁じゃ。それでも泰麒は度を失った使令を御している。──蓬山に連れて行けば、お役目は終了ではないかえ?」
「それを、麒麟の前で訊くのか?」
目を閉じる氾麟の蒼褪めた顔に目をやった尚隆は、眉根を寄せて問い質す。当事者でも胎果でも麒麟でもない氾王は、どこまでも冷静だ、と思いながら。氾王は楽しげに肩を揺らす。
「話を逸らすでないよ。──まあ、私も、嬌娘をそんな目に遭わすと思うと、ぞっとするが」
己の半身に視線を落とし、氾王はおもむろに言う。そして、意味ありげに尚隆を見つめた。責めるわけでもないその目を見返し、尚隆はにやりと笑う。
「喰えぬ奴だな」
「お互いさまであろ」
そして、会談を終えた二人の王は、互いに背を向けて、それぞれの堂室へと戻っていった。
2007.07.13.
お待たせいたしました、長編「黄昏」連載第37回をお届けいたしました。
やっと短編「帰還」尚隆視点に入りました。──長かった! そしてまだ続きます。
この回でとうとう原稿用紙400枚を超えました。書いた文字も12万字超。
なのに終わりがまだ見えません。──しばらくお付き合いくださいませ。
そして、次回も気長にお待ちくださいませ。
2007.07.13. 速世未生 記