「続」 「黄昏」 「玄関」

黄 昏 (1)

* * *  1  * * *

 四州国の北東に位置する雁にも、短い夏が訪れようとしていた。吹く風は甘い花の香りを含み、人々を慰める。そして、国主延王の住まう玄英宮にも、季節の移ろいとともに便りが届いていた。

「慶から問い合わせがきたそうだが」
「ああ、冢宰から、秋官府と夏官府に、な」
 延王尚隆の問いかけに、延麒六太は意味ありげな笑みを見せる。隣国の冢宰から、と尚隆は少し眉根を寄せた。慶東国国主景王陽子は、公にされてはいないが、雁州国国主延王尚隆の伴侶である。慶からの問い合わせは、王同士の親書である鸞が来ることがほとんどなのだ。
「冢宰から? 秋官に夏官というと、外交と警備だな。──いったい何の件だ」
「──戴の件だとよ。ほら、お前がぐずぐずしてるから、陽子が動き出しちまったじゃねえか」
 六太は尚隆を睨めつけると大仰に溜息をつく。そういうことか、と思いつつも尚隆はその問いに答えずに訊き返す。
「──冢宰からの問い合わせなのだろう?」
「国が落ち着いてもいないのに、あの冢宰が、勝手にそんなことするもんか。陽子が、戴を気にしてるんだ」
「──事情は書簡を見てからだな」
 憤然と答える六太にそう言って、尚隆は慶からの書状に目をやった。雁州国の隣国、慶東国冢宰から秋官府と夏官府に宛てて届いた書簡。その大まかな内容は、戴極国について分かることがあれば教えてほしい、とのことだった。

 四極国のひとつである戴は、雁の北東、虚海に浮かぶ国である。七年前、蓬莱に流されていた胎果の泰麒を六太が見つけ出した縁で、泰王、泰麒ともに誼があった。
 その戴は、六年前に政変があり、泰王と泰麒が弑逆されたとの情報が流れた。しかし、鳳は鳴かず、また蓬山に泰果が生ってもいない。ということは、どちらも死んではいない。しかし、行方が知れない状態だった。
 尚隆は戴に公式の使節を向かわせた。雁と戴には国交がある。現状の説明を求めて然るべきだろう。しかし、使節は首都鴻基にも辿りつけない有様だった。非公式に手勢を送ってもみたが、詳しいことは結局分からずじまいだった。
 その当時、沢山の荒民が流れこんできた。戴の沿岸には妖魔が出没するとの噂も飛び交っていた。気にしてはいたが、あまりにも情報が少なく、取りつく島がない。荒民の保護をしつつ、尚隆は事態静観を決めこんだ。まだ稚い泰麒と誼があった六太は、なんとかしろ、と文句を言ったのだが。

 冢宰からの書状によると、慶東国に満身創痍の戴国将軍が訪れたという。どうか戴を救ってほしい、景王陽子にそう訴え、将軍は倒れて床に伏した。今、彼女から事情を聞ける状態ではない。故に、戴について分かることがあれば教えてほしいとのことだった。
 公式の書簡にはそれしか書かれていない。しかし、状況を容易に想像でき、尚隆は軽く溜息をつく。妖魔と戦いつつやってきたその将軍は、右腕を失い床に伏しているという。陽子は命を懸けてのその嘆願に胸を打たれ、戴のために心を砕いているのだろう。
「ほんと、陽子らしいよな。困った奴を放っておけない気性だから」
 自国も復興の最中だというのに、あまりにも陽子らしいその対応。書簡を読む尚隆にそう話しかけ、六太は苦笑した。しかし、書状を読み終わった尚隆は、難しい顔をしていた。
「笑い事ではない。慶は、まだ他国を助けられるほど立ち直ってはいないのだから」
「じゃあ、やっぱりお前が動くべきだろ。誰が言い出したかは知らねえが、稀代の名君、なんだもんな、お前は」
「──六太、勘違いするな。俺は雁の王であって、戴の王ではないのだ」
 軽く答える六太に、尚隆は厳しい顔を向けて断じた。そして、景王陽子もまた、慶の王であって戴の王ではない。若く胎果の女王は、常世の常識に疎い。国同士が関与しあい、協力も侵略も常だったあちらの世界とは違うのだ。常世には、他国と積極的に係わる習慣はない。尚隆は再び溜息をつく。
「──慶へ行く。陽子は、恐らく覿面てきめんの罪を知らぬだろう」
「おれも行く」
 六太は目を上げ、即座に応えを返す。尚隆は思い切り渋い顔をする。
「──六太」
「──今回は譲らねえぞ。お前一人で行かせたら、きっと陽子に無理を強いる」
 尚隆を見上げ、六太はにやりと笑う。尚隆は一瞬黙し、深々と息をついた。
「──人聞きの悪いことを」
「やっぱり、否定しねえんだな。──さあて、支度しよっと」
 陽気な声を上げ、六太は踵を返す。その後ろ姿を、尚隆はどこか苦い顔で見つめていた。

* * *  2  * * *

 鸞が来た。しかも、雁からだ。

 景王陽子は目を見張る。己の伴侶、延王尚隆は、いつもふらりと気儘に現れる。わざわざ鸞を送ってくるということは、身分を明かしての訪問要請なのだろう。
 そう推察して銀の粒を与えると、鸞は明朗な男の声で、一声鳴いた。正午に禁門を開けるように、と。おれも行くぞ、と小さく六太の声もした。相変わらず強引なひとたち。陽子は苦笑すると、下官を呼び寄せ、賓客を迎える準備を申しつけた。
 報せを受けてすぐに景麒が訪れた。その眉間に刻まれた皺を見て陽子はまた苦笑する。
「──今回は、非公式訪問らしいですね」
「ああ、延王としていらっしゃるそうだ。──戴のことだ、景麒、そんなに嫌な顔をするな。蓬莱に詳しい延麒も一緒だそうだから」
 よい顔はしないが、景麒にも分かっている。ともに胎果で蓬莱にも詳しい雁国主従は、今回最も頼りになる手助けなのだ。実際、景麒が陽子を迎えに来たときも、事前に延麒六太の助言を仰いだというのだから。
 陽子はひとつ溜息をつく。戴から満身創痍で訪れた将軍、李斎。彼女は陽子の前に崩れ落ちるように叩頭し、声を振り絞って嘆願した。

(どうか、戴をお救いください。戴の民には、自らを救う術がございません)

 戴の沿岸には妖魔が溢れ、民は国を出ることも叶わない。泰王は謀反あって宮城を追われ、台輔ともども行方が知れない。けれど、白雉は落ちていない──。李斎はそう訴えて倒れてしまった。詳しい事情を訊こうにも、李斎は伏して目を開けず、瘍医いしゃは面談を拒否した。
 李斎が伏している間、冢宰浩瀚が戴国について調査した結果を奏上した。泰王は七年前に即位し、六年前、内乱を治めに行ったまま消息不明になった、と。その後、新王即位の報を持った使節が訪れたが、慶国の鳳が鳴くことはなかったそうだ。
 他国の王の即位や崩御を、鳳が鳴いて報せるのだ、と陽子は既に学んでいた。荒民問題相談のため公式訪問した延麒は、鳳が陽子の即位を報せたのだ、と嬉しげに語った。そして、雁にいたとき、延王尚隆も戴の話を聞かせてくれた。鳳は鳴いていないし、蓬山に泰果も実っていない、と。
 荒民の話と李斎の話、そして独自に集めた情報に食い違いはない、と怜悧な冢宰は語った。陽子は柳眉を顰める。李斎を疑ったのか、と。浩瀚は、そんな陽子にさらりと応えを返した。確認してみただけでございますが、と。それから、雁の秋官府と夏官府に調査を依頼したので近々返答があるでしょう、と付け足した。どこまでも如才ない冢宰に、陽子は苦笑の溜息をついた。
 女史から李斎が目を開けたと報せを受け、陽子が駆けつけたときには、また目を瞑っていた。病み衰えた李斎を見下ろし、陽子は思う。何とかしてやりたい、と。こんなになってまで陽子に救いを求めてきた李斎。陽子に何ができるかは分からない。けれど、救ってやりたい。この将軍も、戴も、そして──泰麒も。

 ──泰麒。

 陽子はまだ見ぬ麒麟に思いを馳せる。陽子と同じ時代を生きている胎果。陽子の住んでいた、あの日本を知る人。陽子とも年が近く、もしかして、あの街のどこかで、すれ違っていたかもしれない人──。
 尚隆と六太も胎果だが、なんといっても五百年時代が違う。彼らが語る蓬莱は、陽子の知っているあの街ではない。陽子にとっては、歴史で知るだけの世界、それは御伽噺のように聞こえた。胸に異郷を抱く想いは一緒でも、やはりそれはどこか違う夢だった。
 そう、夢。日本で暮らしていたことは、夢のようなもの。景王として立って二年の陽子にとって、蓬莱は今や夢幻そのものだった。
「主上……」
 物思いに沈む陽子を、景麒が気遣わしげに見つめていた。景麒は、何を心配しているのだろう。今更あちらが恋しいわけではない。ただ──少し思い出していただけなのに。

 心に思うことすら、罪なのだろうか。もう、二度と帰ることのできない、遠い故郷なのに。

 そして陽子は首を振る。この思いは、どんなに説明しても、常世の者には、きっと理解できないのだろう。陽子は景麒に笑みを向ける。
「──さて、今回お客さまは珍しく猶予をくれた。さっさと仕事を片付けてしまおう」

2006.07.13.
 長編「黎明」連載終了から、1ヵ月半──。月日が経つのは早いものです。 お待たせいたしました、長編「黄昏」連載開始でございます。
 前回「黎明」では、細かいところを詰めずに連載を始めて、 かなり青息吐息してしまいました。 今回は皆さまにご心配をおかけしないように頑張りたいと思います。 応援よろしくお願いいたします!

2006.07.13 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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