黄 昏 (10)
* * * 19 * * *
「ええい、何から何まで──俺を何だと思っている!」
延王尚隆は怒声を上げる。景王陽子はその剣幕にも全く頓着せず、延麒六太に笑いかける。尚隆はその後も無駄な抵抗を試みた。勝利を確信した陽子は、尚も追撃の手を緩めない。そして六太は面白がって陽子に加勢する。
尚隆は陽子と六太を見比べると深い溜息をついた。そして、恨みがましい目つきで陽子に言った。悪あがきだと、分かっていたが。
「恩義のある俺に、脅迫まがいの真似をする気か」
「同じことだろう」
陽子は失笑した。そして幼子を諭すように語った。雁は北方で唯一安定した豊かな国だ、と。陽子の言葉は説得力があった。北方の国々に何かが起これば、誰に止められようと民は雁を頼る。荒民となり、国境を越えて雁に流入する。無力な民には、それしか術がないのだ。
陽子は己の両手を見つめていた。かつて月にかざしていた、そのあまりに華奢で小さな掌。陽子がそれを常にもどかしく思っていることを、尚隆は知っている。だからこそ、助力してやりたい、と思うのだ。
目を上げた陽子は、勁い意志を輝かせた瞳を尚隆に向ける。慶にそんな余裕がないことは分かっている。だが、戴をこのまま放置もできない。何故なら戴の民の行く末には、慶の民の行く末もかかっているからだ。陽子はそう明言した。尚隆は声もなく陽子を見つめ返した。
景王陽子は気高い笑みを見せて続けた。玉座は永遠ではない。己が斃れた後、慶の民がどうなるのか。それは戴の処遇にかかっているのだ、と。そして己の臣である景麒と浩瀚、遠甫を見つめた。
そんな場合ではないと諌められても戴を救う気は変わらない。それは戴の民だけではなく、慶の民のためでもある。景王陽子はそう断じた。主上、と景麒が諌めるような声を上げたが陽子は首を振った。道を失う気はないが、何が起こるか分からない。破滅するつもりで破滅した王などいないだろう。逆賊によって国が荒らされることもある。だから王が斃れたとき、あるいは王が道を失ったときのために民を救済する前例を作っておきたい。
「王がいなくても民が救われるような道を敷いておきたいんだ」
瞳を煌かせ、景王陽子はそう明言した。尚隆と六太は唖然として陽子を見つめた。陽子は真摯な目を向ける。
戴を救おうとすれば慶の復興が遅れ、民が慶を見捨てて雁に逃れるかもしれない。ついに巧も斃れ、慶が戴が巧が雁を頼ろうとする。雁一国で救済に当たろうとすれば荷が重いのは当然のこと。
ずっと考えていた、と告げる陽子に、尚隆は驚きを隠せなかった。胎果の若き王が蓬莱で行われていることをこちらに取り入れようとしていたとは。
王が斃れた国のための義倉が各国にあればいい、という画期的な発想。そして更に、困った者が駆け込む窓口を作れないか、と陽子は続ける。尚隆は内心納得した。もしもそれが可能なら、荒民問題が少し解決に向かうかもしれない、と。
陽子は面白いことを考えるな、六太が半ば呆れたようにそう言った。陽子は軽くかぶりを振った。自分が考えたことではなく、あちらにあった仕組みだと。
陽子の時代の蓬莱には、そんなものがあるのか。それくらい、時が流れたのだ、と尚隆は感慨を覚えた。そして陽子は、尚隆に真っ直ぐその輝かしい瞳を向ける。
「誰もやったことがないのなら、やれないものか試してみたい。諸国に依頼して力を借りることはできませんか」
「俺にそれをやるとぬかす気か」
延王尚隆は景王陽子にしかめっ面を向けた。陽子の煌く双眸が尚隆の瞳を捕らえた。清麗な女王の、その真摯な願いを拒める者が、はたして何人いるだろう──。陽子は苦笑気味に畳みかける。
「私がやっても構いません。もっとも、私のような青二才が言いだしたのでは、どこの王も振り返ってはくれないかもしれませんが」
目を逸らし、尚隆は黙りこんだ。もう、既に心は決まっていた。しかし、素直にそうと認めるのは癪に障る。不平を漏らす尚隆を、六太は呆れたように見つめる。そして、お前が疫病神だからだ、と決めつけた。後で覚えていろ、と思いつつ、尚隆は深い溜息をつく。そして憤懣やるかたないといった様子で言った。
「粉骨砕身して働いて、挙句の果てにこの報いか。……泰麒を捜す。俺が采配すればいいのだろう」
「ありがとうございます」
陽子は晴れやかな笑みを見せた。その顔ははっとするほど美しかった。そして、景王陽子は優雅に一礼した。
「この借りはのちのち、必ず返させていただきます」
「いつの話だ」
「それは、もちろん」
尚隆は苦虫を潰したような顔を見せ、己の麗しき伴侶に問う。陽子は、茶目っ気たっぷりの笑みを見せた。
「延王が斃れたときに。雁が騒乱に巻きこまれるときまでには、慶を立て直しておくと約束します。安心して頼ってください」
「そりゃあいいや」
六太が大笑いした。景麒は、主上、と諌める声を上げた。浩瀚と遠甫は顔を見合わせ、苦笑いした。尚隆はむっつりと横を向く。六太が笑いながら尚隆の背中を叩いた。
「一本取られたな、尚隆。さあ、諦めて働け」
六太はそう言ってにやりとした。尚隆は深い溜息で応えるのみだった。
* * * 20 * * *
紛糾した会議がお開きになった後も、延王尚隆は座ったままむっつりと押し黙っていた。冢宰浩瀚は恭しく拱手し、景王陽子とともに堂室を出て行った。
陽子は気遣わしげに尚隆に目をやっていた。そんな陽子に、六太は気にするなと言うように手をひらひらと振った。微かに頷いた陽子が見えなくなると、尚隆は嘆息した。その場に残っていた太師遠甫が、延王尚隆に恭しく拱手した。
「──我が主上の願いを聞き届けていただき、ありがとう存じます」
「──ぬけぬけとよくほざく。まったく、おぬしは陽子にどういう教育をしているのだ?」
尚隆はさも不愉快だとばかりに問い質す。遠甫は動じない。再び深く頭を下げ、ゆるりと答えた。
「道に悖るな、と」
景麒と打ち合わせをしていたはずの六太が、それを聞いて腹を抱えて笑った。そんな六太を睨みつつ、尚隆は口を開いた。
「──この師匠にしてあの徒弟あり、だな。老骨を労われ、と教えておけ」
「御意のままに」
しかめっ面を見せる尚隆に、遠甫は笑い含みの応えを返し、堂室を辞した。その後、六太との打ち合わせを終えた景麒も一礼して下がっていった。六太とともに残った尚隆は、本日何度目か分からなくなった深い溜息をついた。
「六太、陽子は、本当に何を言い出すか分からん奴だな。お前も、少しは俺の援護をしてもよかろうに」
「今更何を言ってるんだよ。おれは陽子につくと言ったじゃねえか」
顔を顰めて不平を言い立てる尚隆に、六太は軽く笑いつつ応えを返した。それから、会議を思い出してまた笑う。
「なかなか面白いことを考えるよな、陽子は」
「ああ、確かに面白いことだ。正に、胎果の王、というべきか」
尚隆は笑みを浮かべて同意する。六太は不意に真顔になり、感慨深げに呟いた。
「もしかして、あれが天意なのかもな」
「──天意?」
何が天意だというのか。尚隆は訝しげに問う。六太は考えながら答えた。
「今までと違うことをしようとする胎果の王──。それに、胎果の王が立てば、胎果のお前が助力することも折り紙つきってわけだ」
「胎果の麒麟にも同じことが言えるのではないか?」
尚隆はにやりと笑い、そう揶揄した。六太は頷き、真面目に続ける。
「そうかも。──天は、胎果を集めて、常世の何を変えたいのかな」
「天意を具現するのが麒麟の役目であろう。お前が考えるのだな」
「ちぇ、無責任な奴。──所詮、王なんてそんなもんだよな」
人の悪い笑みを浮かべる尚隆に、六太は悪態をつく。そんな六太に、尚隆は大きく手を広げて溜息をついてみせた。
「そうか? 俺はこれからが大変なのだぞ。予定外のことをいろいろさせられる羽目になった」
そして尚隆は会議を反芻する。自信に満ち、女王に相応しい言動を見せた景王陽子。
尚隆は陽子の出方を見守るつもりでいた。突拍子もないことを言うだろう、と覚悟もしていた。しかし、陽子は尚隆の予想を超えることを多々言い出した。挙句の果てには、よりによって、恩義ある延王を脅迫したのだ。
「お前がしたことを知らなきゃ、誰もが陽子を無礼だと思うだろうよ。現に冢宰と太師は固まってたし」
やりすぎるからだ、と六太はにやりと笑い、尚隆を見上げる。尚隆は苦虫を潰したような顔をした。
そう、六太が全面的に陽子の味方をしたから、余計にことがややこしくなったのだ。尚隆は眉根を寄せ、顎をさすりながら呟いた。
「言わせておけば……。もっときつい仕置きをするべきだったかな」
「何言ってんだ、この莫迦! いい加減にしろ。仕置きがきつすぎたから脅迫されたんだぞ!」
六太は顔を真っ赤にして怒声を上げた。六太に思い切り頭を叩かれ、尚隆は苦笑した。
2006.09.15.
長編「黄昏」連載第10回をお届けいたしました。如何でしたでしょうか。
10回目にしてようやく、前半の山場を書くことができました!
そして、まだ前半が終わっていない……(泣)。
恐らく次で一区切りつくと思います。
まだまだ先は長いです。よろしくお付き合いくださいませ。
2006.09.15. 速世未生 記