黄 昏 (9)
* * * 17 * * *
その日、積翠台は緊張に満ちていた。それは半分むっつりと押し黙っている己のせいであると、延王尚隆は自覚していた。景王陽子は視線を合わせようとしない。憔悴した様子で考え事をしている。
やがて、冢宰浩瀚が口火を切った。怜悧な冢宰は、この緊迫した空気の中でも、怖けることなかった。
浩瀚は滑らかに奏上する。まず、泰王の所在を確認することが肝要である、と。泰王はまだ戴国内にいるのではないか。そう述べる冢宰に、尚隆は同意する。雁と戴は国交があったし、尚隆は泰王と誼があった。泰王が他国に頼るとすれば、雁を置いて他はないだろう。
浩瀚は続けて述べた。泰王を保護するには戴に乗りこんで泰王を捜す必要がある。そしてその行為は天の摂理に抵触する可能性がある、と。
それを聞いて陽子は考えこんだ。泰王を捜すだけなら軍勢は必要ない。戴を訪問し泰王がいないので捜すのはどうか。陽子のその問いに、浩瀚は微笑して応えを返す。天の目こぼしをもらえるかどうか定かではないので、不可能だ、と言っておきます、と。
この応えに、堅物の景麒は溜息を零し、六太は声を上げて笑った。陽子は苦笑を浮かべ、頷いた。
不可能だとして他に方法はないか、と問う陽子に、浩瀚は泰麒捜索を提案した。泰麒が姿を消したとき、鳴蝕があったという。それならば、泰麒は蓬莱あるいは崑崙に流されたと考えられる。ただし。
実際にどう捜すかが問題になる。そう述べた浩瀚に、陽子は首を傾げる。蓬莱育ちの陽子はこちらの常識に疎いのだ。蓬莱に詳しい六太が陽子に説明した。伯以上の仙ならば蓬莱に渡ることはできるが確固たる存在でいることができない、と。陽子は目を見開き、瞬いた。
六太は苦笑し、説明を続ける。蓬莱の者がこちらに来ることはできるが、こちらの者があちらに行くことはできない。あちらに行けるものは、形のないもの──卵果だけだ、と。
陽子はますます首を傾げる。景麒は主を捜しに蓬莱に行ったはずだ。陽子の疑問に六太は更に説明を続ける。胎果でない者があちらに行っても人の形を保っていられない、と。
六太に問われ、景麒が答える。景麒があちらで人の形を安定して取れたのは、陽子が近くにいたときだけだ、と。陽子は驚いたようだった。
六太は陽子が納得したのを見取って尚も語る。王や麒麟でも人の形が保てないところに手勢を多数送ることはできない。しかも、泰麒は胎果だからあちらでは姿が変わっている。簡単に捜すことはできないのだ、と。陽子はまた首を傾げ、考えながら口を開いた。
「確かに私はこちらに来たときに見た目が変わったけれども……それは、もう一度あちらに戻るとどうなるんだ?」
陽子のその疑問はもっともなものだった。尚隆も、六太によると、姿が変わったそうだ。自分の顔など見ることもそうないから、あまり気にしたことはなかったが。
六太は、戻るな、と素っ気なく言った。だから李斎を連れて行っても泰麒の顔が分からない、と六太は断言した。
ただ、麒麟には麒麟の気配が分かる。泰麒を最初に蓬莱で見つけたのは自分だ、と六太は言った。ふらふらと蓬莱に遊びに行って見つけたのだが、六太はその辺りの事情説明をうやむやにした。
生真面目な陽子は六太に問う。それならば、麒麟ならば泰麒を捜すことができるのか、と。六太は頷いた。ただし、延麒と景麒、たった二人で捜しても何年かかるか分からない。六太は難しい顔でそうつけ加えた。陽子は更に問うた。
「では、それが十二人なら?」
陽子は何気なくそう言ったようだが、場の緊張が高まった。突拍子もないその問いに、尚隆は溜息をついた。
「陽子、こちらでは他国に干渉をしないのだ」
陽子は胎果。こちらの常識を知らなさすぎる。あちらと違い、こちらは他国を当てにしない。その代わり、他国に侵略されることもない。王は、自国のことのみ考えればよいのだ。そこがあちらとこちらとの最も大きな違いだ、と尚隆は理解している。しかし、陽子は首を傾げ、鋭い視線を浴びせた。
「延王は私に手を貸してくれましたよね?」
「それは俺が胎果で、変わり者だからだ」
陽子の明らかに挑戦的な視線を真っ向から受け止め、尚隆は再び溜息をつく。どんなに無謀なことを言っているのか、陽子は全く気づいていない。
「度外れたお節介なんだ」
六太が半畳を入れた。六太はそのまま尚隆の言葉を引き取り、陽子に説明を始めた。しかし、それでも陽子は納得しなかった。
十二も国かありながら団結して何かをやったことがないのか。それともそれすらも禁じられているのか。陽子はそう食い下がる。
尚隆は瞬いた。そういえば、そこまで考えたことがなかった。というか、そんなふうに他国と協力しようなどとは思ったことがなかった。それは六太も同じらしい。尚隆と六太は、さあ、と顔を見合わせた。
確認したこともないのか、と陽子は呆れ顔だった。戴は自力で自国を救うことができないのだったら他国が手を貸す必要があるだろう。景王陽子は当然のようにそう言った。
* * * 18 * * *
「──そもそも、戴に政変があったとき、可怪しいとは思わなかったんですか」
景王陽子は延王尚隆に勁い瞳を向ける。鳳が鳴いてもいないのに王が交代するなんて、どう考えても不自然だ。何が起こったのか確認しようとはしなかったのか、と。
もちろんしたとも、と尚隆は重々しく答える。しかし、六太があっさり内情を暴露した。当初は公式非公式ともに調査したが、何の確認も取れなかったため、さっさと静観を決め込んだ、と。
六太、と尚隆は渋い顔で舌打ちした。六太は横目で尚隆を睨みながら、しかめっ面で語る。
「──以来、そのまま放置してきたんだ。言っておくが、おれは何度も、戴がどうなっているか調べろ、救済方法を探せ、と進言したぞ」
「なるほどな」
陽子はそんな六太に軽く相槌を打つと、微かに笑みを見せた。その笑みは、尚隆が見たことのない、皮肉めいた嗤いだった。
「所詮は他国のこと、なるようになれ、というわけだ?」
静かに、しかし挑発的に、陽子はそう言った。場の空気が一気に凍りつく。大恩ある隣国の王に向けるには、あまりにも不躾な言葉だ。主上、と諌めるような小声を上げたのは景麒だろうか。
延王尚隆は、眉を顰めた。可愛がってきた隣国の若き王に、そこまで侮蔑的な言葉を投げつけられるとは。尚隆は低く獰猛な声で応えを返す。
「景王には言葉が過ぎないか」
「けれども事実じゃないのですか? 静観していればそのうち泰果が生って、それで全部が振り出しに戻って雁は安泰でいられる、そういうことなんじゃあ?」
陽子それでも臆することなく畳みかけてきた。その勁い瞳は尚隆を見据える。陽子の問いは的を射ている。しかし、それを簡単に認めるのは憚りがある。尚隆はしばし逡巡した。
「ま、そういうことだな」
「六太」
あっさりと景王の推測を肯定する己の半身に、尚隆は渋い顔を向ける。が、六太はそれに頓着することなく続けた。
他国に干渉しないのが慣例だなど言い訳にすぎない。戴と雁の間には虚海があるからだ、と。
陽子は唖然とした顔で尚隆と六太を見比べた。そうではない、尚隆は眉根を寄せ、そう言おうとした。
しかし、六太はその前に大きく手を振り、尚隆を軽く睨めつけた。つまらない言い訳をするな、と。六太は説明を続ける。
結局、問題は荒民なのだ。他国から荒民が流れてくれば、国情に係わる。だから国境を接している隣国の動向を気にし、手助けもする。しかし、戴との間には虚海がある。海を越えて流入してくる荒民は少ないのだ。
「雁大事というわけだ」
陽子は口許を歪め、くっと皮肉に嗤った。その言葉に六太は心得たように頷く。
「そういうこと」
「──俺は雁の王だぞ」
陽子と六太のやりとりに、尚隆は声を荒げた。雁の王が雁大事で何が悪い、と。延王は雁を治めるために在るのだ。雁のことを最優先するのは当たり前のことではないか。
しかし、尚隆のその剣幕にも、六太は軽く鼻を鳴らすのみ。それどころか、苦笑を浮かべて陽子に同意を求めた。
「こいつは、御覧のとおりだ。お前だけでも、何とか努力してやってくれないか、陽子。おれにできることは協力する」
なんとか、ちびを助けてやりたい、と六太はしみじみ語った。泰麒はこんなに小さかったのだ、と。それを聞いて、尚隆は深い溜息をつく。これでも六太は麒麟なのだ。何よりも憐れみを優先する。陽子はそんな六太に優しく微笑む。
「できる限りのことはする」
陽子らしい応えだ。しかし、尚隆はそんなことを認めるわけにはいかないのだ。景王が他国のために命をかけるなど──。尚隆は眦を吊り上げ、卓を叩いた。そして大喝した。
「慶はまだ安寧には程遠い。それを景王自らが、自国をおいて他国のために労を割くというのか? それこそ思い違いだぞ」
しかし、陽子は全く動じない。それどころか、笑みさえ湛え、軽く言った。それは自信に満ちた、一国の女王に相応しい笑みだった。
「胎果の誼だ、放っておけない」
「胎果の誼で忠告してやる。お前はそんなことをしている場合ではない」
「では、雁なら動いてくれるのか?」
怒声を上げる延王尚隆に、景王陽子は間髪を容れずそう問うた。尚隆は、ぐっと言葉に詰まった。陽子はにやりと笑みを浮かべ、尚隆をじっと見つめる。その目は己の勝利を確信していた。
してやられた、と延王尚隆は臍を噛む。稚い雛と思っていた隣国の女王の、思わぬ成長ぶり。突拍子もないことを言い出すと、覚悟していた。しかし、ここまで完膚なきまでに言い負かされるとは。延王尚隆は内心感嘆しつつ、若き女王を睨めつけたのだった。
2006.09.04.
かなりお待たせしたような気がいたしますが、そんなことはないですね。
長編「黄昏」連載第9回をお届けいたしました。
原稿用紙100枚書いて、ようやく短編「対決」に辿りつきました。
はい、300枚終結は諦めました。どう考えても無理でございます。
かなり長いお付き合いになるかと思います。何卒よろしくお願いいたします。
2006.09.07. 速世未生 記