黄 昏 (27)
* * * 53 * * *
慶東国の凌雲山を辿りながら、景王陽子は蓬山へと急ぐ。以前、六太と二人で向かったときは、二日で蓬山に辿りついた。しかし、利き腕を失い、病まだ癒えぬ李斎を連れての旅は、思った以上に時間がかかった。
こんな思いをしてまで、李斎は蓬山に向かうのだ。ただ、救国のために。陽子は小さく息をつく。
天が本当にあるのなら、何故、神は戴を救ってくれないのか。
そんな李斎の叫びは、陽子の胸を衝いた。それは、陽子の胸に蟠る思いでもあった。その思いが、天に届くことはあるのだろうか。
真摯な思いは人を動かす。そんな人の思いが、天をも動かすことを、陽子は願って已まない。
やがて、蓬山に着き、一行は碧霞玄君玉葉に迎えられた。かつての陽子と同様、李斎は驚いていた。六太の説明を聞いて、前回と同じく玄君は去った。
宮のひとつを宛がわれ、落ち着いた李斎は、その場に突っ伏した。陽子は心配になり、李斎に大丈夫かと声をかけた。
李斎は泣きながら訴える。何もかも知っていながら、玄君は何故戴を見過ごすのか、と。陽子はその問いに答える術を持たない。ただ困惑してその背を撫でていた。
そんな陽子に、李斎は烈しく言い募る。あの昇山の旅は何だったのか、と。妖魔の跋扈する黄海を、李斎はかつて二月かけて旅した。それがどうだろう、雲海を越えれば、丸一日で辿りついてしまった、と言うのだ。
昇山を知らない陽子に、李斎はその厳しさを語る。道もなく、休む場所もない不毛な荒野を、妖魔に怯えながら進む。何人もの命が喪われる、苛酷な旅なのだ。
昇山者は天意を諮るために蓬山を目指す。命を懸けて黄海を越えねばならないからこそ、民は二の足を踏むのだ。ただ麒麟に会うだけならば、雲海の上を越えればよい。
──天は、それだけの代償を昇山者に求めているのか。それは、何故なのか。
李斎の言に、陽子は眉を顰める。──確かに、可怪しい。これはいったいどういうことだろう? 陽子は考えに沈む。
天が予め民の全部を把握しているならば、昇山などという手続きは必要ない。昇山しなければ王の素質を見抜けないならば、何故、胎果の王が存在するのか。
天にとって、王は、民は、いったい何なのか。李斎の叫びを聞きながら、陽子は唐突に思う。
──神の庭。
この世界が天帝の統べる国ならば。玉座に在る天帝は、諸国の王を選ぶ。陽子が六官を選ぶように、神々を選び、女仙を登用する。
それならば、全てが腑に落ちる。陽子は目眩を感じた。李斎の叫びは民の叫び。そして、そんな李斎に陽子が言えることは、ただひとつ。
「人は自らを救うしかない、ということなんだ──李斎」
王を神と仰ぐ世界。神なる王は雲海の上に住み、通常民の前に姿を現すことはない。そして、神と呼ばれながら、王は万能ではない。それは、玉座を与えられた陽子が身に染みて感じることだ。
それでも、その苦渋を民に見せてはならない、と隣国の王は諭した。揺らぐ王に従う者などいない、と。天も、それと同じだとしたら。
迷いながら王を選ぶ神を、陽子は信じることができるだろうか。弱味を見せる神に、従うことができるだろうか。だから──神は姿を見せないのだろうか。
天が存在するならば、必ず過ちを犯すだろう。起こると分かっていた内乱を、景王陽子が止められなかったように。天もまた、万能ではないのだ。
翌日、その考えを裏付けるような答えを、碧霞玄君は齎した。角を失った泰麒はもはや麒麟ではない、自ら正されるのを待て、と。
「それは死ぬのを待て、ということですか!?」
玄君と六太の問答を聞いていた李斎は、腰を浮かせて鋭く問うた。その率直な問いに、玄君は目を逸らす。陽子は瞑目した。
太綱の始めに、仁道をもって国を治めよと記されている。そう教える天が、麒麟の死を待てと言う。こんな理不尽なことがあるだろうか。
問いつめる李斎に、玄君は沈黙する。李斎、と腕を引く六太を振り解き、李斎は更に言い募る。かくも容易く仁道を踏みにじる方々が、これまで道を失った王を裁いてきたのか、と。
天には天の道理が在る。神と人の間に住まう狭間の女は重い溜息を零す。そして、泰麒を不憫に思う、と漏らした。それが玄君の本音なのだ、陽子はそう思った。
では泰麒を救い、戴に希望を与えてください。必死に願う李斎に、玄君は苦吟を隠さない。やがて玄君は六太にひとつの案を示す。李斎が歓喜の声を上げる。
しかし玄君は、礼は言わぬほうが良かろうと述べた。泰麒だけを連れ戻っても、何の解決にはならぬ、と。泰麒は、と陽子は訊かずにはいられなかった。泰麒には角がないという──それはどうにもならないのか、と。場合による、泰麒に会ってみないと分からぬ、と玄君は答えた。それでも、治癒が叶うようなら手を貸す、と言ってくれた。
天には理があり、これを動かすことはできない、と玄君は断じる。天も条理の網の中にあり、民に非道を行うことなど許されない。李斎は黙して頭を垂れた。
王が覿面の罪に縛られるように、天もまた理に縛られるのか。
神ですら、万能ではない。
その事実に、景王陽子は深い溜息をついたのだった。
* * * 54 * * *
密やかに扉が叩かれた。開いている、と延王尚隆は短く応える。すると、扉が微かな音を立てて開けられた。現れたのは、予想通り、思いつめた顔を見せる、慶国女王。
景王陽子は、黙して尚隆を見つめる。
あなたは、何を知っているのか。いったい、何を隠しているのか。
その蒼褪めた顔は、確かにそう問うている。
尚隆は無論、純粋な女王の怒りを予測していた。陽子はさぞかし尚隆を問いつめたいことだろう、と。
しかし、佇む伴侶は、依然として語らない。旅支度を終えた尚隆は、物問いたげに目で促す。女王の形よい唇が、決意とともに開かれた。
「──延王」
尚隆の号を呼びかけて、景王陽子はまた黙す。そして、ますます顔色を失い、唇を噛みしめる。握った拳が小刻みに震えていた。
それでも、お前は俺を責めないのだな。
胸でそう呟き、尚隆は微笑とともに問いかけた。
「どうした?」
見つめる女王の瞳が、僅かに潤む。胸に想うことを言葉にできぬほど、陽子の心は乱れているのだ。尚隆は、そんな伴侶を、きつく抱きしめたい衝動に駆られた。だからこそ。
「──行ってくる」
ただ一言、万感の想いを籠めて、そう告げた。そして、一瞬だけ、伴侶の朱唇に口づけた。そのままゆっくりと、立ち尽くす伴侶に背を向けて歩き出す。
蓬莱にも、奏にも、行かせたくない。本当は、蓬山にさえも行かせたくない。ずっと、この腕から離したくないのだ。
この期に及んでそう思う、己の弱さ。尚隆は自嘲の笑みを浮かべる。
己の伴侶は、一国の王だ。己の腕に留められる女ではない。初めから分かりきっていることだった。
景王陽子は、戴の窮状を知り、泰麒救出を望んだ。その願いは、常世の七カ国と、蓬山までも動かした。そして、蓬莱にて泰麒が発見された。様々な問題を抱えつつも、若き胎果の王の願いは、今、叶えられようとしている。
景王陽子の輝かしき翠玉の瞳は、全てを映し出す。初めて会ったときと同様に、己が隠す昏い深淵も、認めたくない望郷の想いをも。
(──らしくないね)
氾王の揶揄を思い出し、尚隆は口許を歪める。伴侶の動揺に、己の心も乱されている。
(──五百年ぶりの故郷は、それほど恋しいものかえ? それとも……)
氾王の意味深な笑みに含まれるもの。それも、心に刻まねばなるまい。神と呼ばれる王も、その実、人の理から逃れられないのだ。齢五百年を重ねても、それは変わらない。また、そうでなければ、民を治めることなどできはしない。
年若き伴侶に、気に入らない強かな他国の王に、それを気づかされたな。延王尚隆は独り笑う。暗闇は、常に王の足許に潜む。だが、そう簡単に呑まれてやる気はない。
前を見据える。奏へ行き、宗王に泰麒発見を報じ、使令を借り受ける。そして、泰麒を迎えに、蓬莱に赴く。今やるべきことを、こなすのだ。己が己であるために、己が王であるために。
旅支度をした景麒が、清香殿の入り口で待ち受けていた。景麒は尚隆を認め、恭しく拱手した。
「延王」
「景麒、上から行く。使令に先触れさせてくれ」
「──御意」
大国奏を、雲海の上から訪れるなど、どう考えても非常識だろう。しかし、下から行くと、時間がかかりすぎる。蓬莱にいる泰麒は、予断を許さぬ状態だ。尚隆は時間が惜しかった。
景麒はその言に異を唱えず、即座に遁甲できる使令に命を下した。そして延王尚隆は、景麒とともに奏へ向けて旅立つ。
さて、鷹揚に見えて強かな、常世最長命国の王たちは、どう出るか。そして、公の場で会ったことのない、風来坊の太子が国に居るという。卓郎君利広は、どんな顔で延王尚隆を出迎えるのか。
何故、提案者である景王を連れてこなかったのか。食わせ者の第二太子は、尤もな意見を無邪気に問うのだろう。その様を思い浮かべ、尚隆は薄く笑んだ。
2007.01.13.
大変お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第27回をなんとかお届けできました。
ここでとうとう原稿用紙300枚突破でございます。
──気長にお付き合いくださいませ。
2007.01.13. 速世未生 記