黄 昏 (28)
* * * 55 * * *
「お前は、他国の王を何人知っている?」
雲海の上を飛びながら、延王尚隆は道連れの景麒に訊ねる。景麒は訝しげに眉根を寄せ、それでも応えを返した。
「三人──延王、泰王、そして氾王でございます」
「宗王にお会いしたら、お前は安心するだろうな」
人の悪い顔を見せて、尚隆は笑う。宗王は、尚隆が知る王の中で、最も王らしい王なのだ。宗王を知らぬ景麒はますます眉を顰めた。
この世に十二人しか存在しない王。独立不羈を尊ぶ常世では、隣国といえども国交がない場合もある。他国に干渉をしない流儀のため、王や麒麟でも、他国の王を知る機会は少ない。故に、景麒が自王の他に三人の王を知っているというのは、珍しいことであった。
尚隆は、景麒が主の伴侶でもある尚隆を、隣国の放埓な王と呼んでいるのを知っていた。景麒にしてみれば、大切な主を振り回す隣国の王を疎ましく思っても仕方ないだろう。そんな伴侶に影響される己の主に、諫言しては溜息をつく気持ちもよく分かる。しかも、景麒は前の主を、己への恋着で喪っているのだから。
しかし、そんな景麒も、あの氾王とまみえて驚いたはずだ。景麒の知るもう一人の王、威風堂々とした泰王とはあまりに違う、女物の襦裙を纏う氾王。男物の長袍を着用する女王を主に持つ景麒も、あれには度肝を抜かれたことだろう。それは容易に想像がつく。
今回の一件で、景麒はそんな曲者の王たちを見知ってしまった。今の景麒から見れば、宗王は誠に王らしい王に思えることだろう。しかし、常世最長命を誇る奏南国の国主は、やはり一味違うのだ。
そこまで考えて、尚隆は薄く笑う。常に足許に潜む暗闇との戦いを余儀なくされる王が、普通の者であるはずがない。物問いたげな景麒に、行けば分かると返し、尚隆は破顔した。
南の大国、奏南国王都隆洽。宗王が住まう清漢宮は、隆洽山の頂にある。延王尚隆と景麒は、雲海の上に突き出る壮麗な宮殿の禁門の上に到着した。そして、報せどおり門扉の前で待ち受けていた門卒に、恭しく迎えられたのだった。
尚隆と景麒は、内殿の掌客の間で宗王先新と対面した。恰幅がよく、いかにも王というに相応しい貫禄を持つ大きな男が宗王である。
「ようこそいらせられた、延王、景台輔」
重々しくそう声をかけ、宗王は破顔した。玲瓏たる宰輔宗麟もその側に控える。そして、六官の長たちもずらりと居並んでいた。
「宗王、ご無沙汰しております。此度は無礼な訪問で失礼仕りました」
六百年の治世を誇る常世最長命の王に、延王尚隆は恭しく頭を下げる。景麒も黙してそれに倣った。
「火急の用件だとて、気にしておらんよ。どうぞ楽にしてくだされ」
非礼を詫びる尚隆に、宗王は鷹揚な応えを返す。そして、尚隆は顔を上げ、宗王に笑みを送る。それを認め、宗王が微かに頷いたことを、尚隆は確認した。その後も型通りの挨拶を交わし、宗王はさり気なく誘う。
「久しぶりのお越しに、我が后妃も喜んでおる。後ほど茶会に付き合ってくださらんか」
「喜んで」
己の意が即座に伝わったことに満足し、延王尚隆は再び頭を下げた。宗王は福々しく破顔し、大きく頷いたのだった。
一度掌客殿に下がり、尚隆は茶会の準備をする。そんな尚隆に、景麒は眉根を寄せて訊ねた。
「延王……火急の用と知りながら、暢気に茶会などと……。宗王は、いったい、此度のことをどうお考えなのでしょうか」
「──景麒、今までは、ほんの序盤に過ぎぬ。その茶会こそが本番なのだ。陽子のために頑張れよ」
苛立ちを隠せない景麒に、尚隆は不敵な笑みを見せる。事情を知らない景麒は、案の定、訝しげに問う。
「どういうことでございますか」
「奏は、官が動かしている国ではない」
五百年もの間玉座に君臨する延王尚隆は、にやりと笑う。景麒ははっと目を見張った。
「──後宮が政を動かす、稀有な国なのだ」
常世最長命の国をよく知る、稀代の名君と称される王が断じる重々しい言葉。景麒はもう問い返すことはなかった。
* * * 56 * * *
「茶会の準備が整いました。どうぞいらせられませ」
やがて、女官が掌客殿に迎えに来た。延王尚隆は軽く頷き、景麒を促した。女官の先導で、尚隆と景麒は清漢宮の奥へと進んでいく。歩きながら、景麒が僅かに首を傾げた。尚隆はその様を、微笑を浮かべて眺めた。
景麒が不思議に思うのも無理はない。王宮は通常、王の居所となる正寝を頂点として編成される。延王尚隆の居城である玄英宮も、景麒が仕える景王陽子の居城、金波宮も同様だ。しかし、女官はその正寝を過ぎ、更に奥へと進んでいるのだ。
伴侶を持たぬ王が使うことのない後宮へと、女官は進んでいく。そして、後宮の正殿である典章殿の門前で、女官は一礼した。門を守る杖身が恭しく拱手し、道を空ける。女官はそれ以上先へ進むことなく、尚隆と景麒を更に奥へ行くようにと促した。
戸惑う景麒に頓着せず、尚隆は慣れた様子でそのまま奥へと向かう。典章殿の入り口には、一人の臈長けた娘が立っていた。
女官と見紛うことのない典雅な装いをしたその娘に微笑を送り、尚隆は歩調を少し緩めた。清楚な襦裙を纏う娘は、尚隆と景麒を認めると、笑みを浮かべて優雅に拱手した。
「ようこそ清漢宮へいらせられました」
「これは文公主、わざわざのお出迎え、痛み入る」
尚隆は文公主文姫に笑顔で話しかけた。公主自らの出迎えに、景麒は目を見張る。
「お久しぶりだな。息災だったか?」
まるで、己の主を見るようだ、とでも言いたげな景麒であった。尚隆は苦笑しつつ、宗王の末娘に気安く声をかけた。文姫はは悪戯っぽい笑みを見せる。
「お蔭さまで、溢れる荒民に、悲鳴を上げておりますわ。延王、此度はどのような楽しいお話をお聞かせいただけるのかしら」
「──残念ながら、今回は文公主好みの楽しい話はできそうもないな」
尚隆は片眉を上げ、軽く応えを返す。文姫は小首を傾げ、楽しげに問うてきた。
「まあ、延王らしくない仰りよう。剣呑なお話ですの?」
「剣呑というか、厄介というか。後ほどゆっくりお話しするとしよう。ところで」
本題は要人が皆揃ってからでなくては。尚隆はそう思い、話題を変える。尚隆にとって、事前に知っておきたいことを文姫に問うてみた。
「俺がまみえたことのない、第二太子が国におられると伺ったのだが?」
「まあ、よくご存じですこと」
文姫は鈴を転がすような笑い声を立てた。公の場では顔を合わせたことのない、奏国第二太子卓郎君利広は、やはり国にいる。
「はい、風来坊の兄は、ただいま荒民対策の担当をしておりますの。兄も、延王にお目にかかるのを、楽しみにしておりますのよ」
文姫は目を細め、楽しげに語る。その様からは、風来坊の太子がどこまで家族に語っているのかは読み取れない。小娘に見えても、文公主は齢六百を超える年月を重ねる強かな女である。
「六太に聞いて、俺も楽しみにしていた」
口許に笑みを浮かべつつ、尚隆は答える。それは尚隆にとって、正直な感想だった。
いつが最初か思い出せないくらい遠い昔から、様々な場所で巡り会ってきた風来坊。人懐こい奇妙な若者くらいにしか思っていなかった男と、忘れた頃に再会した。出会う場所はいつも、軋み始めた国の都。
何度も顔を合わせるうちに、何者なのかは分かった。無論、直接問い質したことはない。しかし、尚隆に匹敵するほど永の年月を旅している者など、この世にそう存在しない。
何十年に一度しか会わなかったその男と、ここ何年かは頻繁に鉢合わせる。その際たるものが、伴侶の治める慶東国王都堯天でのすれ違いだった。
その後、柳北国王都芝草で再び邂逅したのだ。あのとき、利広は尚隆に熱弁を振るった。景王陽子との出会いは天の配剤だ、と。そして、ここで尚隆と会ってしまったことにも、意味があるのだ、と。
(何故、天意を信じないの? 天啓を受けた身でありながら──)
そう問うた利広が、公の場で、どんな顔をして尚隆を迎えるのか。三度の邂逅は、目前だった。
2007.01.19.
お待たせいたしました、長編「黄昏」連載第28回をなんとか金曜日にお届けできました。
余裕がないのが普通になってきております。──切ないです。
風来坊の太子が今回は名前しか登場しませんでした。あれ?
次回こそは!
2007.01.19. 速世未生 記