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黄 昏 (最終回)

* * *  85  * * *

 範国主従から解放された祥瓊は、肩の荷を下ろし、寛いだ顔を見せる。それでも、男装を好む女王に襦裙を着せた氾王の手並みを褒め称えては陽子を苦笑させた。
 泰麒はまだ目を覚まさないようだ、と鈴が告げる。李斎が付き切りで看病していると聞かされ、陽子は小さく息をついた。李斎も、まだ病癒えぬ身であるというのに。桂桂が付いているから大丈夫よ、と鈴は陽子を笑って励ました。

 範国主従と廉麟が帰国し、賑やかだった金波宮も閑散としてしまったように感じる。蘭雪堂に集った捜索隊も、残るは雁国主従のみ。おれはまだいるぞ、と延麒六太は笑ったが、延王尚隆も明日には帰国してしまう。
 公にできぬ伴侶とこんなに長く一緒にいられたのは初めてだった。そして、もう、こんなことはないだろう。そう思うと、胸が痛かった。

 登極する前、陽子は景王を迎えにやってきた延王尚隆に保護され、玄英宮に滞在した。皆の説得を受けて玉座に就く決心をし、雁の王師の助力を得て景麒を奪還した。
 偽王を討ち取った後、これで慶に戻れますね、と景麒に言われるまで、陽子は気づかなかった。当たり前のように一緒にいた伴侶と、離れなければならない、ということに──。
 陽子は慶の国主景王で、尚隆は雁の国主延王。常にともに暮らせるはずもない。少し考えれば分かることだというのに、陽子はそんなことを思ってもみなかったのだ。
 玄英宮で過ごす最後の日、何もかもを承知して穏やかに微笑む尚隆を見つめ、陽子はただただ涙を零した。そんな陽子を、伴侶は優しく抱きしめてくれた。あれからまだ二年しか経っていない。そして陽子はあのときと同じように切ない想いを抱いていた。

 いつものように、夜半に堂室の扉がそっと開く。陽子は静かに立ち上がり、万感の想いを籠めて伴侶を迎えた。薄く笑う伴侶は黙して陽子を抱きしめる。陽子もまた、何も言えぬまま、伴侶の胸に身を預けた。
 目を閉じて伴侶の鼓動を聞いていた。規則正しいその音は、陽子を安心させる。まるで赤子になったようだ──己の字のように。そう思うと、苦笑が漏れた。

「──なんだ?」
「こうしていると、心が安らぐ……赤ちゃんみたいに」
 伴侶はくすりと笑って陽子に口づけを落とす。この数ヶ月、ずっとしてくれたように。それも、今宵で終わる。そう思うだけで、瞳に涙が滲んだ。

「おやおや、お前の仕事はまだ終わっていないのだぞ」
 楽しげに揶揄する声を聞きながら、陽子は小さく頷いた。泰麒はまだ目を覚まさない。体力を回復するまで、もうしばらくかかるだろう。そして、隻腕の李斎と麒麟の力を喪失した泰麒を、どうやって戴へ帰すかも検討しなければならないのだ。

「分かっているよ……」
「無茶だけはするなよ」

 伴侶は軽く笑って声をかける。しかし、陽子を見つめる双眸は、心配そうな光を湛えていた。事の発端を思い出し、陽子は苦笑する。

「もう、あんな無茶なことはしないよ」
「──お前はそう言って無茶をするのだぞ」

 己の大言壮語を思い起こせば、低く断じる伴侶に反論することはできなかった。それでも、未熟で小さな王を頼ってくる者がいれば、恐らく手を貸そうとしてしまう。陽子は女王の顔で真っ直ぐに尚隆を見上げる。

「──そうだね。私は、きっと、また同じことをしてしまうだろう。この手が如何に小さくても、見捨てることはできないと……」
「いつも俺が助力すると思うなよ」

 決然とした女王の言葉に、延王尚隆は笑い含みの応えを返す。景王陽子は伴侶を見つめ、挑戦的に告げた。

「無論、あなたがそんな甘いひとではないと、もう知ってるよ」
「勿論、俺もお前が聞かぬ奴だと知っておるぞ」

 仕置きにも限度があると笑いを漏らし、伴侶は陽子に口づける。その一言に、陽子は頬を染めて伴侶に身体を委ねた。この数ヶ月の出来事が走馬灯のように頭を巡る。
 覿面の罪を知らぬ未熟な王を諭しに来た隣国の偉大な王と真っ向から対峙し、その仕置きに耐えた。稀代の名君を説得し、七カ国が協力する泰麒捜索を展開した。が、己が提唱しながら、何もできなかった。そして──蓬山にて、天の理の不条理を見せつけられた。
 網のように張り巡らされた天の摂理。誰が決めたかも分からぬそんなものに、王は縛られる。王のみならず、天もまた理に縛られるのだ、と碧霞玄君は厳かに告げた。王でありながら、陽子にできることは僅かしかない。己の手の小ささを、思い知らされた。

 このひとの目には、何が映っているのだろう。

 陽子は顔を上げて伴侶の双眸に見入る。いつもいつも、尚隆は全てを知っていた。尚隆の言うとおりに物事が進んでいく。まるで、未来が見えているかのように。そんなふうに思うことも少なくなかった。

「──どうした?」
「あなたが見ているものを……知りたい」

 己の瞳が映りこむほど近い距離で、伴侶の深い色を湛えた目を見つめる。溜息のように落とした願いを聞いて、伴侶は楽しげに笑った。

「答える必要があるのか?」
 意地悪、と陽子が拗ねる前に、お前しか目に入らぬぞ、と囁いて、伴侶は陽子の唇を封じた。

* * *  86  * * *

 金波宮にて過ごす、最後の夜。

 通い慣れた回廊を歩きながら、延王尚隆は万感の溜息をつく。愛する伴侶は隣国の王。己の腕に留められる女ではない、と、初めから分かり切っていることだというのに。
 堂室の扉を開けると、伴侶が静かに迎え出た。愁いを秘めながらも笑みを浮かべる女王は美しい。尚隆は二年前の玄英宮での別離を思い出し、薄く笑んだ。あのとき、伴侶は、翠玉の瞳に涙を滲ませて微笑んだのだ。

 何も言えずにその華奢な身体を抱きしめた。伴侶もまた、黙して尚隆に身を預ける。その胸に去来するものを見てみたい、と思いつつ、やはり口にすることはできなかった。
 やがて、腕の中で伴侶がくすりと笑いを零した。なんだ、と訊ねると、意外な応えを返す。
「こうしていると、心が安らぐ……赤ちゃんみたいに」
 微笑む伴侶に笑みを返し、口づけを落とす。この数ヶ月、毎夜味わった朱唇は、殊更に甘かった。このまま、伴侶の全てを貪りたい。そんな欲情を隠して見つめると、伴侶は宝玉のような翠を潤ませていた。
 別れを惜しむ素直さが愛おしい。細い身体を抱き寄せながらも、口に出す言葉は揶揄ばかりであった。

 そう、泰麒はまだ目を覚まさない。此度の大事業の発起人である景王には、まだ仕事が残っているのだ。病んだ泰麒が回復するまで保護し、戴への帰国に助力するという役目が。
 景麒ひとりに泰麒を任せるのは心配だ、という六太を置いていくことにした。しかし、慶のことは景王が中心に行わなければならない。伴侶は小さく頷いた。
 分かった、と言いつつ、いつも無茶をする伴侶に本音を伝える。苦笑しながらも伴侶は首肯した。

「もう、あんな無茶なことはしないよ」
「──お前はそう言って無茶をするのだぞ」

 そう、発端は、覿面の罪を知らぬ若き女王が、無邪気に他国に救いの手を差し伸べようとしたことだった。景王陽子は先達である雁国主従の苦言を振り切った。あまつさえ、仕置きを逆手に取って延王尚隆を脅迫したのだ。
 しばし黙した伴侶は、すっと面を上げた。そして、女王の顔をして告げた。

「──そうだね。私は、きっと、また同じことをしてしまうだろう。この手が如何に小さくても、見捨てることはできないと……」

 若き女王の決然とした応えに、尚隆は内心の溜息を隠す。真っ直ぐに見つめてくる輝かしき双眸。己の未熟さを知って尚、そのときできることをする、と決意を見せる、その勁い瞳。
「いつも俺が助力すると思うなよ」

 きっとまた、言い負かされるときが来るのだろう。

 そんな本音を気づかれぬよう、尚隆は笑い含みに答えた。伴侶は挑戦的な眼をして言い返す。

「無論、あなたがそんな甘いひとではないと、もう知ってるよ」
「勿論、俺もお前が聞かぬ奴だと知っておるぞ。──仕置きにも限度がある」

 笑いを漏らし、尚隆は伴侶に口づけた。最後の夜だ。無粋な問答は、もう終わりにしたかった。女王は頬を染めて尚隆に身を委ねた。
 長い口づけを交わす。また、いつ会えるか分からぬ日々が始まる。その前に、しなやかな身体を存分に味わいたい。官能を、分かち合いたい。その想いは伝わっただろうか。
 唇を離し、熱を帯びた目で伴侶を見つめた。すると、伴侶は物問いたげに尚隆を見上げる。どうした、訊ねると、溜息のような応えを返した。

「あなたが見ているものを……知りたい」

 一瞬瞠目し、尚隆は軽く吹き出した。本当に、陽子といると、退屈するということがない。まだ少し潤んだ翠玉の瞳に、楽しげな己が映っていた。
 答える必要があるのか、と笑いながら問う。そして、伴侶が拗ねる前に、耳許で囁いた。

「お前しか目に入らぬぞ」

 まだ何か言いたげな半開きの朱唇を甘く熱く塞ぐ。そのまま軽い身体を有無も言わせず抱き上げた。そして尚隆は、さっさと臥室に向かった。

 牀に伴侶を横たえて、輝かしい瞳を見つめた。勁い意志を秘めた双眸は、深みを増していた。この数ヶ月に起きた様々出来事が、若き胎果の女王を成長させた。これからも、この澄んだ瞳は、暗い深淵を隠しながらも、しっかと前を見つめ続けるのだろう。

 お前が見つめるものを、ともに見つめたい。きっと、その瞳は、俺が見ないものを見るのだろう。

 そして尚隆も、この翠玉に己の暗闇を見出す。映し出された深い闇には、輝かしき紅の光が灯る。唇に笑みが浮かんだ。

 如何に天が謀をしようとも、翠と紅の輝きが延王尚隆の昏い深淵を照らすのだろう。まるで、暁の太陽のように。

「──陽子」
 華奢な身体を抱きしめて、何度も名を呼ばう。その名が、闇を払う呪文でもあるかの如く。そう、伴侶は、黄昏の暗闇から尚隆を引き戻した。愛するがゆえに壊したい──そんな昏い闇を、お帰りなさいの一言で祓ってしまった伴侶。

 何があろうとも、お前だけが俺の伴侶──。

 そんな強い想いを籠めて愛しい女を抱きしめる。腕の中の女は、微笑んでそれに応えた。

* * *  終 章  * * *

 翌日、延王尚隆は淹久閣に李斎を訪ねた。李斎は恐縮し、深々と頭を垂れた。
「延王……ありがとうございました……」
「──天は戴を見捨てぬ、と言った。諦めるなよ」
 尚隆は太い笑みを見せてそう励ました。李斎は毅然と微笑し、首肯した。尚隆はそのまま眠れる泰麒を見やる。
 麒麟の力を喪失し、身を守る使令さえも失くした泰麒。西王母は、それ以上は今はならぬ、と言った。理に縛られるのは、天もまた同じなのだから。そう、天にも戴を見捨てる気などない。ただ、個々人それぞれを救う気がないだけだ。

 足掻いてみよ、命ある限り、持てる力の全てで。

 それは、人のみならず、王にも、もしかしたら神にも課せられた業なのかもしれない。病み衰えながらも安らかに眠る泰麒を見て、尚隆はそんなことを思った。

 そして延王尚隆は金波宮を発つ。真面目に仕事をしろよ、と送り出す延麒六太に、そっと耳打ちする。
「──陽子の無茶を見逃すなよ」
「分かってるって」
 六太は吹き出しつつも大きく頷く。当の無鉄砲な女王は苦笑して言った。
「──延王、聞こえてますよ」
「では、くれぐれも無茶は慎めよ」
「はい、努力します」
 景王陽子は鮮やかに笑い、優雅に拱手した。そしてその場は楽しげな笑い声に包まれる。和やかな見送りを受け、尚隆は蒼穹に舞い上がった。

 その念押しが無駄ではなかったことを、延王尚隆は後に苦い思いで振り返るのだった。

2007.12.15.
 大変お待たせいたしました。長編「黄昏」最終回をお届けいたしました。
 ──終わってしまいました! 案の定、放心しております。 連載開始から、なんと1年5ヶ月が経ってしまいました。 そして、結局、詰まりながらも、原稿用紙476枚(約15万字)を費やした長い長いお話が やっと完結いたしました。 ここで終わる!? とお思いかもしれません。 ごめんなさい、ここから連作「残月」に続いてしまいます……。
 心が戻ってまいりましたら、「黄昏」と「残月」の隙間に入るお話を書きたいと 目論んでおります。 けれど、いつもの如く気長にお待ちくださいませ。
 長い間お付き合いくださいまして、本当にありがとうございました!
 
2007.12.15. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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