黄 昏 (42)
* * * 83 * * *
「今度は是非、範に遊びに来てくりゃれ。景女王にお似合いの襦裙を用意して待っているぞえ」
「範の装飾品はどれも素敵なものばかりよ、陽子」
範国主従は帰国の間際までそんなことばかり言っていた。景王陽子は二人の誘いに苦笑を隠せない。是とも否とも言えずにいると、延王尚隆が代わりに物騒な応えを返していた。
「陽子、そんなにぞろぞろ着飾らなければならないところになど、行く必要はないぞ」
「猿山の猿王を着飾らせようとは思ってないぞえ」
「──お二人とも、最後までそんなことを言い合わなくても」
陽子は慌てて仲裁に入ろうとした。が、廉麟が小さく溜息をつき、淋しげに笑って言った。
「お二人の楽しい会話も、もうお聞きできなくなるのですね」
ほんとうに残念そうな廉麟を前に、二人の王は顔を見合わせてにやりと笑みを交わす。そして、それ以上口論をすることはなかった。
泰王の足跡を示す品を齎した範国主従を、戴国将軍李斎は深く頭を下げて見送る。その思いは陽子も同じであった。しかし、感慨に耽る陽子は、背後から聞こえる声に笑いを零した。
「あんな奴らと、何ヶ月もともに仕事をしたとは、俺も我慢強い」
天敵氾王を見送った延王尚隆は、大きな溜息とともにひとりごちる。確かに、二人の王の舌戦は、いつも凄まじかった。そう思い返した陽子は、延麒六太と顔を見合わせて苦笑した。そして、そのまま六太と取りとめのない会話を楽しんだ。
話しながらも、陽子は過ぎしこの数ヶ月に思いを馳せる。李斎が満身創痍で金波宮にやってきたのは、まだ夏が始まったばかりの頃だった。泰麒が帰還を果たした今、金波宮のそこここに秋の気配が立っている。
暑い夏の間、ずっと焦燥感に苛まれていたというのに、いつの間にか季節が移ろっていた。しかし、己の手は、未だ小さいままだ──。
陽子と六太の会話が、ふと途切れた。二人の話をにこやかに聞いていた廉麟が口を開く。
「──景女王、私もそろそろお暇させていただきます」
「廉台輔……」
「なんだか、主上が恋しくなってしまいました」
そう言って廉麟は美しく微笑む。廉麟だけがこれほど長く主と分かたれていたのだ。そう気づき、陽子は感謝を込めて廉麟に深く頭を下げた。
こちらとあちらを行き来し続けた廉麟を、延王尚隆が労う。まだ目を覚まさない泰麒を案じる李斎は複雑な顔を見せていた。
小さかった泰麒を蓬莱から連れ戻すとき、廉麟が呉剛環蛇を使ったのだ、と景麒は言っていた。泰麒はきっと誼のある廉離に会いたいだろう。李斎はそう考えているのかもしれない。が、泰麒は一命を取りとめたのだ。これ以上一国の宰輔を引き止めることはできない、と李斎もよく分かっているようだった。
「早く戻って差し上げないと、主上も困っていらっしゃるでしょう。……ちっとも目を離せない方なんですよ」
そう言って笑う廉麟に、李斎は微笑を返した。そして、深く頭を下げて廉麟を見送った。
範国主従が帰国し、廉麟もまた国へ戻って行った。陽子はそっと尚隆を見つめる。七カ国が協力し合う大事業の采配を揮った延王も、目的を果たしたからには、もう慶にいる必要もない。
「──俺もそろそろ帰国しなくてはな」
「延王……」
そんなに淋しいか、と尚隆は軽く問う。是、と素直に言えるはずもなく、陽子は小さく笑った。そう、蘭雪堂はいつも賑やかだった。尚隆と氾王の舌戦も、今となってはいい思い出だ。
一気に人が減って淋しい、と返した陽子に、六太が笑いかけた。おれはまだいるから、と。それを肯定し、尚隆もまた、煩いと思うがよろしく頼む、と笑った。
「──景麒ひとりに泰麒を任せるわけにはいかないからな」
六太が陽子にそっと耳打ちした。ぶっきらぼうで言葉の足りない景麒だけでは、今後のことも相談しにくいだろう、と六太は続ける。確かに、泰麒が体力を回復して帰国するまでには、まだ幾つかの問題があるだろう。そう思い、陽子は笑って頷いた。
* * * 84 * * *
泰麒が淹久閣に落ち着いたことを確認し、範国主従は帰国の途に着いた。李斎はその背が見えなくなるまで深々と頭を垂れていた。
しかし、最後まで減らず口を叩く賑やかな二人を蹙め面で見送り、延王尚隆は嘆息する。あんな奴らと、何ヶ月もともに仕事をしたとは己も我慢強い、と。それを横で聞いていた半身と伴侶は、顔を見合わせて苦笑していた。
尚隆は、そのままひそひそと話を続ける延麒六太と景王陽子の会話を聞くともなしに聞いていた。六太は伸びをしながら陽子を見上げた。
「やーっとつまんねえ小競り合いを聞かなくても済むなぁ。ほっとするぜ」
「延麒は氾麟が帰って淋しがると思ってましたよ」
「あんな喧しい小姐、いなくなってせいせいする」
「ほんとですか?」
六太は顔を蹙めて言い切る。そんな六太を見下ろして、陽子はくすくすと笑う。廉麟も笑みを見せた。
「お二人の楽しい会話が聞けなくて残念です」
六太はますます嫌そうに顔を蹙める。陽子は可笑しそうに駄目押しをした。
「──氾麟の中身は延麒、と言った者もいましたよ」
「──冗談じゃねえ」
おれはあんなに煩くねえぞ、と六太は抗議の声を上げていたが、陽子はただ笑うばかりであった。和やかな雰囲気ではあったが、秋風が吹き始めた城内の庭院のように、別れの気配が忍び寄っていた。努めて明るく振舞う陽子の顔にも、翳りが見えている。
「──景女王、私もそろそろお暇させていただきます」
「廉台輔……」
「なんだか、主上が恋しくなってしまいました」
そう言って微笑む廉麟に、景王陽子は深く頭を下げる。廉麟だけが、これほど長い間、主と分かたれていたのだ。そう気づかされ、誰もが押し黙った。
(王のものなんだもの……)
そう言って項垂れた廉麟を思い出し、尚隆は短く息をつく。麒麟は王の側にいなければ生きていられない。そう言いつつ、廉麟は主から離れて独りで頑張っていた。それは、六年も主と分かたれたままの泰麒を救いたいがためだったろう。
そして、泰麒は命を取り留め、今、安らかに眠っている。緊張の解けた廉麟が主を恋うても無理はない。廉麟の肩を軽く叩き、尚隆は笑みを送る。
「廉台輔、長い間、ほんとうにご苦労だった。ご協力に感謝する、と廉王にもよろしくお伝え願う」
「はい」
頷いた廉麟は花のような笑みを見せた。未だ意識を取り戻さない泰麒を案じる李斎が、愁いを帯びた顔で廉麟に訊ねる。泰麒に会っていかないのか、と。廉麟は首を振り、なすべきことは終わったと笑う。ですが、と言いかけた李斎も、黙して俯いた。
泰麒は命を取りとめた。後は、体力の回復を待って帰国するのみ。覿面の罪がある限り、他国がこれ以上の助力をすることはできないのだ。蓬山に直接嘆願しに行った李斎には、分かりすぎるくらい分かっている事実だろう。
国で待つ主も困っていることだろう、と笑う廉麟に、李斎は微笑を返す。そして、深く頭を下げて廉麟を見送ったのだった。
「──俺もそろそろ帰国しなくてはな」
誰にともなく、延王尚隆もまたそう告げる。国を離れて、もうそろそろ三月が経とうとしている。国主の留守に慣れている官吏たちも、さすがに痺れを切らしていることだろう。
「延王……」
「そんなに淋しいか?」
顔を曇らせる景王陽子に軽口を返す。陽子は小さく笑い声を立てた。
「またそんなことばかり仰る。あれだけ賑やかだったのに、一気に人が減ったら、淋しいに決まっているじゃないですか」
「大丈夫だ、陽子。おれはまだいるから」
「こう言っているから、六太を置いていく。煩いとは思うが、よろしく頼むな」
景麒ひとりに泰麒を任せるわけにはいかないからな、と六太は陽子に耳打ちした。ぶっきらぼうで言葉の足りない景麒だけでは、今後のことも相談しにくいだろう、と六太が続けると、陽子は笑って頷いた。
2007.11.22.
大変お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第42回をお届けいたしました。
次回で終われるような気がしてまいりました。まだ予断を許しませんが……。
いつもの如く気長にお待ちくださいませ。
2007.11.23. 速世未生 記