花 守 (上)
咲き初めし紅の花、健やかに伸びよ。
剪定されることなく、思うままに伸びよ。
雨に濡れ、風に吹かれ、嵐に揉まれても、それを糧に。
匂やかに、誇らかに、花ほころびよ、己の力で。
花愛でし者に手折られて尚、美しく咲き誇れ。
鮮やかな、艶やかな、勁き花よ。
* * * 1 * * *
いつもの如く、軽く玄英宮を抜け出そうとして、延王尚隆は延麒六太に捕まった。ではお前も行くか、と持ちかけると、存外簡単に乗ってきた。雁国主従はそうやって揃って隣国に向かったのだった。
当然のように金波宮禁門前に騎獣を下ろし、恭しく叩頭する門卒たちに騎獣を預け、二人は気儘に宮を進んでいった。宮の主の執務室に辿りつき、伴侶である尚隆を差し置いて駆け寄った六太は、そのまま勢いよく扉を開ける。
「おう、陽子。遊びに来たぞ!」
「──六太くん、いらっしゃい。今日はひとり?」
景王陽子の苦笑交じりの声が聞こえた。尚隆はくすりと笑い、歩を進める。素直に伴侶の訪れを問わない女王を、逆に可愛らしく思ったのだ。
「不本意ながら、あの莫迦も一緒だ。ほら」
卓子の上に腰を下ろした六太が、忌々しげに尚隆を指差す。六太の頭を小突いて榻に腰掛け、尚隆は己の伴侶に声をかける。
「煩いこぶ付きですまんな」
伴侶は軽やかな笑い声を立てる。雑務を引き受ける下官もいない執務室で、女王は遠慮のない笑みを見せた。そう、己の伴侶の訪れを歓迎する、匂やかな笑顔を。それでも、天邪鬼の女王は軽口を叩いた。
「あなたのほうが、よっぽど煩いと思いますよ」
「俺のどこが煩いと言うのだ?」
六太より煩いとは不本意だとばかりに、尚隆は片眉を上げて問い返す。伴侶は悪戯っぽく笑って答えた。
「酒を出せだの、暇だから相手をしろだの、いつも賑やかじゃないですか」
「お前、隣国でそんなこと言い散らすの、止めろよな。おれが恥ずかしいじゃねえか」
「卓子に腰掛けるお前のほうがよっぽど恥ずかしいぞ」
「まあまあ、お二人とも、落ち着いてくださいよ。可笑しくて手が震えてしまう」
話しながらも手を休めることなかった女王が笑いながら宥める。お前のせいで叱られたじゃないか、と六太はまだぶつくさ言っていた。お前が口を挟むからだろう、と返すと、伴侶は肩を震わせて笑った。そんなとき。
「──主上、入ってもよろしいですか?」
衝立の陰から涼やかな声がした。景王陽子はすっと顔を引き締めて応えを返す。
「浩瀚か。どうぞ」
姿を現した冢宰浩瀚は、主の伴侶でもある隣国の王と宰輔に恭しく頭を垂れる。その様子がいつもと違うように見えて、延王尚隆はふと目を留める。
怜悧な冢宰と賞賛される景王陽子の股肱は、道理を弁えた男だった。その態度は常に沈着、判断は冷静である。勅使に扮して現れた尚隆こそが延王であると看破し、主の恋をも密かに見抜いた。が、浩瀚はそれを誰にも告げることなく注意深く見守っていた。
景王陽子は己を律することに長けている。公の場で尚隆を伴侶としてみることは皆無だ。己の登極に助力してくれた隣国の王として敬意を払いつつ、その気儘な所作にも苦笑はしても動じることない。
故に、女王の友である女史祥瓊や女御鈴でさえも、女王の恋に気づくことはなかった。それなのに、冢宰浩瀚だけがそれに気づいた。その理由を、尚隆は知っている。
延王尚隆は頭を下げる冢宰浩瀚から目を離し、景王陽子を見やった。女王は己の臣の微妙な態度に気づいてはいない。
尚隆は浩瀚に視線を戻す。今日の浩瀚は、主の仕事の邪魔をする輩に対する微かな苛立ちを隠し切れずにいる。珍しいそれに興を覚え、尚隆は席を立った。見ると、不穏な空気を感じてか、六太もまた、既に卓子を飛び降りていた。
「じゃあな、陽子。おれ、適当に遊んでくる」
「ああ、済まない、延麒。延王、いつもの堂室が用意できていますから、そちらへどうぞ」
女王は席を外す来客に笑みを湛えてそう告げる。尚隆と六太は軽く頷き、手を振って女王の執務室を後にした。
「なあ、尚隆、今日の浩瀚、なんか怖くねえ?」
回廊を歩きながら、六太が声を潜めて訊ねる、尚隆はくつくつと笑って答えた。
「虫の居所が悪いのだろう」
「虫が来たせいで、か?」
「お邪魔虫が来たせいだ」
六太は楽しげに揶揄する。尚隆も即行で応えを返した。六太は肩を竦めて嘆息する。
「──まーったく、話が進みやしない」
「お互いさまだろう」
付き合いきれねえな、とぼやき、六太はひとりで庭院へ降りていった。口は悪いが察しのよい半身に笑みを送り、尚隆は回廊をぶらりと歩く。伴侶に勧められたが、尚隆は掌客殿に行く気はなかった。それよりも、確かめたいことがあるのだ。
ほどなく女王が笑みを浮かべて執務室を出て行った。庭院から手を振る六太に手を振り返し、陽子は駆けていく。尚隆はその無邪気な後ろ姿を微笑ましく見つめる。
やがて、仕事を終えた冢宰が退出した。浩瀚は回廊でふと足を止め、庭院を見やった。その視線の先にあるものは、麗しき紅の花の鮮やかな笑み。
切羽詰った目とは裏腹に、隙だらけの背は何としたことか。怜悧な冢宰と呼ばれる男の意外な一面に、尚隆は皮肉な笑みを浮かべる。
冢宰浩瀚の物思いを、尚隆は以前から知っていた。しかし、この男は主を邪な目で見ることはなかった。花守のように、咲き初めし花のような女王に仕えていた。
無論、陽子は己が股肱の恋慕に気づくはずもなく、無防備な顔を曝す。が、尚隆はそれを危険に思うこともなかった。真っ直ぐに見つめてくる翠の宝玉を、臆せず受け止められる男など、そういない。邪な想いを抱く者は、あの純真な瞳に見つめられると、目を逸らさずにいられない。目を逸らさずにいるためには──。
お前にそれができるか。
そして、それができたとして。
鮮やかな紅の女王を、独り占めしたいと思わずにいられるか。その名の如き陽光の輝きに、灼き尽くされずにいることはできるか。
延王尚隆は薄く笑み、悩める冢宰の背を見やる。そして、男の目をして景王陽子を見つめる冢宰浩瀚の後ろ姿に気配を殺して近づいた。
2007.11.12.
短編「花守」(上)をお送りいたしました。如何でしたでしょうか。
いつものことながら、尚隆視点は長くなってしまいます。
今回、六太が出張っているので、余計にそうなのかもしれません。
「挑発」を書いているときには時代を特定できなかったのですが、
「花守」を書いてみて、連作「花見」より後で、
「雪明」や「誘惑」より前かなと思いました。
慶も少し落ち着きを見せているけれど、
陽子主上がお忍びで関弓を訪れるには至っていない頃でございます。
お含みおきくださいませ。
(下)も近いうちに出せると思います。
はい、「尚浩対決」でございます。どうぞよろしく。
2007.11.13. 速世未生 記