花 守 (下)
* * * 2 * * *
男は、熱く切ない目を向ける。その視線の先にいる者は、眩しい光を放つ紅の花。男物の官服を纏っていてさえ麗しい慶東国国主景王陽子は、鮮やかな笑みを見せ、延麒六太と語らっていた。
幾多の苦難を乗り越え、更に美しくほころびようとする勁き花。その宝玉のような瞳の奥に昏い闇を隠すからこそ、景王陽子は眩しく美しいのだ。
己の伴侶と男の背を見比べて、延王尚隆は薄く笑む。そして、おもむろに声をかけた。
「──慶の至高の花は、いつもの如く美しいな」
無防備な背が僅かに跳ねた。そして微かに漂う苛立つ気配。それも束の間、怜悧な冢宰はすぐに振り返り、慇懃に拱手した。
それで隠しおおせたとは、本人も思っているまい。延王尚隆は片眉を上げ、人の悪い笑みを見せる。
「どうした、艶やかな紅の花を愛でていたのだろう? 俺に気遣う必要はない」
「我が国の花をお褒めいただき、恐縮にございます」
尚隆の揶揄には答えず、浩瀚は再び厭味なくらい丁寧に頭を下げた。尚隆は込みあげる笑いを抑えきれず、挑発を籠めて返す。
「まるで己のもののような物言いだな」
「──我が国のものは、花も人も、全て我が主上のものにございます」
「ほう」
この男──花守たる己の身をも至高の花のもの、と言い切った。
それは主の伴侶に対する挑戦なのか、それとも、己を主に捧げる覚悟を示したものなのか。いずれにしても面白い。そう思いつつ、尚隆はくつくつと低い笑い声を漏らす。
「花を愛でし守り人は、美しいうちに手折るが花、とは思わぬものか?」
「──」
尚隆の問いに、浩瀚は頭を下げたまま黙していた。この男、応えを拒否するつもりか。先程の熱の籠もった視線には、あの花を手折ってみたい、という想いが満ち溢れていたというのに。
「──面を上げよ」
有無を言わせず命ずる尚隆の声に、浩瀚はゆっくりと顔を上げる。もとより黙秘など許す気はない。尚隆は、おもむろに口を開いた。
「──陽子は俺のもの、というわけではない」
尚隆は厳然たる事実を告げ、口許を歪めて笑う。主の伴侶が吐く意外な言葉に、浩瀚の目が僅かに見開かれた。そして、その反応は、尚隆の予想通りであった。
──好きなように取るがいい。
陽子は尚隆の伴侶ではあるが、同時に誰のものにもならぬ、王と呼ばれる身だ。尚隆は更に挑発を続けた。
「欲しいと思うなら、手折ってみよ」
「──お戯れを仰る」
「陽子が拒まぬなら、俺は構わんよ」
飄々と続けると、いつも冷静な冢宰の双眸が微かに泳ぐ。単なる挑発なのか、それとも──。尚隆の思惑を図りかねるような、探るような、その目の動き。浩瀚は、警戒する心を隠せずにいる。そんな様子を面白く眺め、尚隆はゆったりと続けた。
「──そういう目をする男、俺は嫌いではない」
己が望む呼び名ではないが、稀代の名君と呼ばれて久しい。あからさまに敵意の目を向ける者など、今更いない。だからこそ、慇懃でいながら内に熱さと烈しさを秘めるこの男に興を覚えるのだ。
「ただし──」
ふっと息をついて、尚隆はいきなり浩瀚を壁に押し付けた。そして、息を呑みながらも動揺を見せまいとする男の目を覗きこんで嗤う。
「陽子を傷つけたら、ただではおかない」
「──私にそんなことができるとでも?」
怒りを抑え、低く問い返す男に、尚隆は畳みかける。
──笑止なことを言う男だ。
「──それを、お前が俺に訊くのか?」
「──」
「──己が胸に訊いてみるがよい」
尚隆は言い放ち様、毅然と踵を返す。黙して見つめる浩瀚の燃える視線を感じながら。
己が立場を弁えよ。主の嘆きを思え。今の景王陽子が何よりも傷つくこと。それは、怜悧な冢宰を失うこと。己の右腕に恋情を打ち明けられることではない。
もしも浩瀚が、想い叶わなければ冢宰を辞す、と迫れば、女王はあっさりと己が身を許すだろう。その決断に伴侶である尚隆への想いが入ることはないし、罪悪感を持つこともない。己の伴侶はそういう女だ。尚隆は瞑目する。
しかし、陽子はきっと泣くだろう。無理を強いる男を責めず、己の身を恥じて、そっと涙を零すだろう。あのときのように──。
「──延王!」
やがて、尚隆に気づいた伴侶が、破顔して手を振る。その名を呼び、尚隆は大股に庭院に降りた。
「陽子、もう仕事は終わったのか?」
「とっくに終わりましたよ」
女王は胸を反らして威張ってみせる。尚隆は吹き出しつつも、そうか、と答えた。そして、何事もなかったように、鮮やかな笑顔を見せる伴侶と語らう。
輝かしい翠玉の瞳を向ける麗しき女王。その瞳を臆せず見つめ返せる者だけが、この艶やかな花を手折れる。そう、無意識の防御を超えて近づく男を、陽子は拒まない。そして、それができる男ならば、尚隆は敢えて咎めはしない。ひとの心を縛ることなど、誰にもできないのだから。
向けた背に、まだ視線を感じた。延王尚隆は背中で応える。
この美しき花が、存分に咲けるよう、見守ることができるか。この鮮烈な輝きを、この光に潜む昏い闇を、受けとめることができるか。王が抱く果てしのない暗い深淵に、身を沈める勇気はあるか。──誰のものにもならず、数多のものを遍く受けとめるこの女王に、添い遂げる覚悟があるか。
花を傷つける花守など、要らぬ。そして、花を庇いすぎる花守も要らぬ。花は、己の力で伸びていくのだ。光も闇も糧として、鮮やかに花開くだろう。
「延王……どうかなさいましたか?」
景王陽子は不思議そうに小首を傾げる。尚隆は口許を緩めた。
お前は、何も知らずともよい。そのまま、思うとおりに前へと進め。遠くで、近くで、いつも見守っているから。
「徒弟が健やかに成長していて、俺は嬉しいぞ」
「──何を言ってるんですか。まるで老師のようだ」
呆れて肩を竦める女王を見て、尚隆は呵呵大笑した。すかさず六太が半畳を入れる。
「惚けた爺の戯言なんか、聞く必要ないぞ」
「大差ない爺に言われたくないな」
「はっ、おれのが断然若いもんねー」
「そんなことばかり言っていると、口が曲がるぞ」
「も、もう、勘弁してください……!」
女王は目尻に涙が滲むほど笑い転げる。それでも六太と下らない言い合いを続けた。そのうちに、背に感じていた熱く烈しい視線は、いつの間にか消えていた。
2007.11.15.
短編「花守」(下)をお送りいたしました。如何でしたでしょうか。
うう、書いていて、物凄く疲れました。烈しすぎる……。
というわけで、精力を吸い尽くされ、語る気力が湧きませんので、この辺で。
お粗末でございました。
2007.11.16. 速世未生 記