真 意 (1)
* * * 1 * * *
「──どこへ行くんだ?」
不機嫌な声が禁門へと続く回廊に響く。延王尚隆は声がした方へゆったりと首を巡らせる。そこには腕を組んで主を睨めつける延麒六太が立っていた。
尚隆は唇を少し歪める。何故ここに、と訊ねるまでもない。麒麟には王気が分かるのだから。尚隆は足を止めることなく応えを返す。
「どこでもよかろう」
「よくない。──妓楼通いはいい加減に止めろ」
「──これは異なことを言う。俺は王ではなかったか?」
臣であるはずの宰輔が、命令口調で主に諫言するとは。延王尚隆は失笑し、片眉を上げて問うた。六太は深々と溜息をつく。
「あのな……。確かに、王は国を傾けない限り何をやってもいいんだろうが──」
「では、それでよかろう」
「──あいつが悲しむぞ」
眉間に皺を寄せ、六太は言い立てる。相も変わらず主よりも主の伴侶を案じる半身に、尚隆は皮肉な笑みを返した。
「お前が言わねば分からぬぞ」
「そういう問題じゃねえだろ!」
「そういう問題だ」
喚く六太にそう言い捨て、尚隆はそのまま禁門を抜ける。背には未だ六太の視線が突き刺さっていた。
関弓に降り立ち、尚隆はそぞろ歩く。街はいつものように活気に満ち溢れていた。国主が何を思おうと、如何に素行が悪かろうと、国が潤っていれば民草には関係ない。そして、繁栄を謳歌する関弓の人々は、ここに王が紛れこんでいることになど気づかず、みな忙しげに歩いている。
王など、文字通り、雲の上の住人。民はそう思っているだろう。実際、雲海により分けられ、時の流れすら違うのだ。時を止めた神仙は雲上に住み、限られた時を生きる民人は地上に住む。
王は神だという。神なる王は仙を従え、地を治める。民は己の日常生活に王が係わることなど考えもしないのだろう。
それでよい。王など、所詮は国の下男のようなものなのだから。
街に下りるとほっとする。雑踏に紛れると、己の立場をいっとき忘れることができる。尚隆は笑みを浮かべ、最近の常宿へと向かった。
「風漢さま、ようこそいらせられました」
妓楼の女将が満面の笑みで尚隆を迎える。金離れのよい上客と見做されているのだろう。確かに金は持っている。それも、使い切れぬほどの大金だ。尚隆は薄く笑い、女将に続いて中へ入った。
いつものように芸妓を十人ばかり侍らせて下らない賭事に興じた。華やかに着飾った女も、賑やかしい場も、常ならば気を昂揚させる。しかし、それも今は沈む気分を晴らすことができない。尚隆は内心で溜息をついた。
賭けが一巡し、その場はお開きとなった。珍しく負けなかったため、尚隆はそのまま花娘をひとり召して夜を迎えた。
男の扱いを知る花娘と奔放な一夜を過ごす。が、欲を満たしても心は満たされなかった。無論、分かっている。遊行に耽っても、己の悩みが根本的に解決するわけではない。そんなことは、とうに承知している。しかし──。
炎に染め上げられ、薄闇に赤く浮かぶ柔肌が忘れられない。
雪に閉ざされた山小屋の中、共に暮らすことができぬ愛しい女とふたりきりで過ごしたあの夜を、幾度思い返しただろう。
あのとき、尚隆は伴侶を押し倒し、箍が外れたように華奢な身体を貪った。身を震わせ、瞳に涙を滲ませながらも、伴侶は尚隆の狂気のような情熱を受け入れた。慈愛に満ちた笑みさえ浮かべて。
己の欲を満たしながら、尚隆は疲れ果てた伴侶のあどけない寝顔を見つめ続けることなどできなかった。あのまま傍にいれば、何度でも伴侶を求め、襲ってしまっただろう。尚隆は眠れる伴侶を臥牀に寝かせ、己は騶虞に身を任せて夜を過ごした。
しかし、伴侶は尚隆の許にやってきた。尚隆と同様に褞袍を己に掛け、尚隆に寄り添って再び眠りに就いたのだ。尚隆は思わず息を呑んだ。そして、まんじりともできずに朝を迎えた。
朝の陽射しで目覚めた伴侶は、眩しい陽光のような笑みを向ける。そして、おはよう、と屈託なく尚隆に声をかけた。ただ一言で尚隆の蟠りを解いてしまった伴侶──。尚隆は感嘆を隠せなかった。
自ら女にし、守り、育み、愛しんできた、唯一の伴侶。この愛しい女を、己の手で、壊してしまうかもしれない。尚隆は、そんな恐怖に戦いた。
許されたことに甘えてはいけない。己を律することを止めてはいけない。それでも。
夢を見るたびに、あのときの妖艶な伴侶を思い出す。遠く離れているからこそ、その肌が、温もりが、匂いが、甘やかな喘ぎさえ生々しく蘇る。それは、何度他の女を抱いても消えることはなかった。
尚隆は深い溜息をつく。もう眠れないだろう。隣で休む花娘を起こさぬよう、静かに臥牀を降りる。そして尚隆は、飲みさしの酒を呷った。
(──あいつが悲しむぞ)
六太が放った胸を貫くその言葉。そうだ、知れば伴侶は悲しむだろう。瞳を翳らせ、唇を噛みしめて俯くのだろう。陽子は、悋気や怒気をぶつける女ではない。
分かってるなら、なんで。
胸でそう問う六太を振り払う。そして尚隆はまた苦い想いを呑みこんだ。
虚しい気持ちを抱きつつ、妓楼にて幾日かを過ごした。まだ宮城に帰りたくはなかった。こんな物思いは久しぶりだ。
かつて、何もかもを壊してみたくなった時があった。無から興したものを、豊かに整った国を、滅ぼしてしまいたくなる。その度に街に下りた。限りある命を謳歌する人々は、暗い深淵に光を灯した。それなのに。
臥牀にて眠る花娘に伴侶の面影が重なった。抱きたい女はただひとり。果てのない生を共に過ごしたい女は陽子だけ。
壊したくない。喪いたくない。
その強い想いが、却って伴侶を傷つける。そんな矛盾を、尚隆は皮肉に笑うことしかできずにいた。
その日も、尚隆はどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。城を空けて幾日が経っただろう。もう数えてもいなかった。何かあれば六太が迎えに来るだろう。尚隆は捨て鉢な気分を遊戯で紛らわしていた。
「──おい!」
六太の怒声が賑やかな房室に響いた。とうとう来たか、と首を巡らすと、半身の蒼褪めた顔が目に入った。いつもならば怒りに頬を朱に染めて現れる六太なのに。それでも尚隆はのんびりと六太に問うた。
「何かあったか?」
「おおありだ!」
「──それではこれでお開きだな」
場所を弁えずに叫ぶ六太を手で制し、尚隆は静まり返る芸妓たちに笑みを返す。そして、ゆったりと立ち上がり、急かす六太の後について房室を出た。六太は回廊に出るなり急きこむように驚愕の言葉を吐いた。
「──陽子が姿を晦ました」
2008.08.29.
「3周年記念」中編「真意」第1回をお届けいたしました。
相変わらず記念にしては不穏なものでごめんなさい!
久しぶりの連載で、実は少し緊張しております。
なんとか、短期集中で書ききりたいと思いますので、
皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。
2008.09.01. 速世未生 記