真 意 (2)
* * * 2 * * *
いつものように気儘に旅をしていた。軋みかけた国や荒れ果てた国の首都を見続けていると、かなり気が滅入る。そんな憂さを晴らすために、ほんの気紛れに訪れた雁州国首都関弓。隆盛を極める大国の都で見つけたものは──。
串風路から走り出る華奢な姿に、利広は思わず息を呑む。粗末な袍子、無造作に括った束髪。鮮やかな緋色の髪を靡かせて、線の細い少年が広途を駆けていく。
活気に満ちた関弓の街、ひっきりなしに往来する雑多な人々は、誰もそんな少年に目を向けない。しかし、利広は紅の髪を揺らして走り去るその人影を、気づかれぬように追いかけた。
やがて彼女は立ち止まり、大きく息をついた。そう、「彼女」だ。男装していても、利広にはすぐに分かった。彼女が慶東国国主景王陽子である、と。こんなところで出会うとは。利広は思わぬ再会に天の配剤を思う。
そんな利広の視線にも気づかずに、身を窶した女王はそのまま力なく歩き出す。彼女が出てきた串風路を振り返ると、そこには緑の柱の高楼が林立していた。
利広はそれだけで大凡のことを察し、苦笑する。景王陽子の伴侶は、雁の国主にあるまじき素行の悪さを彼女に見せつけたのだろう。純粋無垢な女王の衝撃を思い、利広は小さく息をつく。そして、千載一遇のこの好機をどう生かそうかと頭を巡らせた。
華奢な後姿を見つめると、最初の出会いを思い出す。今でも利広の胸を揺さぶるあの僥倖は、もう何年も前のこと──。
登極後間もない景王が自ら内乱を平定したと耳にして、利広は慶東国の首都堯天を訪れた。お忍びで街を歩く女王だったら面白い、と思ったからだ。無論、ほんとうに会えると期待してはいなかった。しかし、利広は彼女に出会ってしまったのだ。ひと目でそれと分かる、紅の光を纏う鮮烈な女王に。それは、素晴らしい僥倖であった。
利広は笑みを湛え、俯き加減に歩く女王の背を眺める。紅い髪が珍しい他に特徴のない少年を振り返って見る者はいない。気配を抑えることは覚えたらしい。以前は行き交う人々が釘付けになるような光輝を放ち、利広を苦笑させたものだが。
そう、堯天の街で、流行の店に陣取っていた利広の前に、輝かしい女王は現れた。利広は女王に飲み物を贈り、話す切っ掛けを得た。あのときのように、利広は女王に話しかける機会を窺った。
俯いていた女王は不意に顔を上げ、小さな溜息をついた。それでも行く宛てのない歩みを止めようとはしない。利広は微笑を浮かべ、女王の名を呼んだ。
びくりと肩を震わせて、女王は振り返る。輝かしい翠の宝玉が見開かれていた。少し距離を保って歩いていた利広は、その様をじっくりと観察した。
女王は鮮やかな緋色の髪を揺らして辺りを窺う。大きく見張った翠玉の瞳に油断はない。しかし女王は、戸惑いの色が滲み出るのを隠すことはできずにいた。隣国の首都で己の名を呼ぶ者は、いったい誰なのか──。
女王のそんな困惑に、利広は笑みをほころばせる。陽子は、利広を憶えているだろうか。
忘れるはずはない。
利広は確信に満ちた明るい声でもう一度女王の名を呼んだ。
「ああ、やっぱり陽子だ。久しぶりだね。私を、憶えてる?」
「利広!」
女王は間髪を容れず利広の名を呼び返す。利広は大きく頷き、満面に笑みを湛えて女王に歩み寄った。
「憶えていてくれたんだね」
「あなたは変わらないね」
女王はそう言って懐かしげな笑みを見せる。時が流れても、時を止めた神なる王の鮮烈な美しさに変わりはない。しかし、宝玉のような瞳は、あの頃よりも深みを増していた。
「人はそう変わるものじゃないよ」
利広はにっこりと笑って軽口を返した。女王は上目遣いに利広を睨めつける。
「──人じゃないくせに」
拗ねたようなその答えを聞いて、利広は嬉しくなった。そう、あのとき、別れ際に名のみを告げた。知りたければ調べられるような手がかりを残して。今や女王は、利広の正体を知っているのだ。
「おや。私が誰か分かったのかい」
女王は答える代わりに艶麗な笑みを返した。男装していても、いや、男装しているからこそ、匂やかな花のような笑みが際立つ。利広はその笑顔に惹かれて己も笑顔になる。そして女王に誘いの言葉をかけた。
「ここで会ったのも何かの縁だよ、陽子。少し話さないか」
女王はにっこりと笑んで頷く。きっと護衛のために使令が憑いているだろう。最初から事を荒立てるのは得策ではない。利広は女王を屋台の店に誘った。女王は利広の提案を受け入れ、素直についてきた。
歩きながら他愛のない話をした。女王は先ほどとは打って変わって明るい顔を見せる。話の合間にさりげなく本題を問うてみた。
「──かの御仁に会いに来たの?」
女王はつと目を逸らす。隣国から会いに来てみれば、伴侶は妓楼で遊行に耽っていた。そんなことを言えるはずもない。利広はくすりと笑い、旅の話を続けた。
屋台の店に腰を落ち着けて、利広は女王に雁の名産をあれこれと勧めた。女王は下々の食べるものを厭う人柄ではない。目を細め、美味しそうに食べるその様を、利広は満足げに眺めた。
食事と会話が女王の緊張を解いていく。それでも、女王は己のことはほとんど話さなかった。時折見せる淋しげな顔が、女王の受けた衝撃の大きさを物語る。そして、待ってみても女王の供の者は現れなかった。
さりげなく探りを入れてみても、女王は捗々しい答えを返さない。利広は肩を竦め、小さく息をついた。単刀直入に訊いたほうが早いかもしれない。利広はおもむろに訊ねた。
「悩み事は、解消してから帰ったほうがいいんじゃないかい?」
「──大丈夫だよ」
女王は風に耐える花の如く淡く笑む。利広は胸を衝かれ、しばし黙した。武断の女王は、こんな儚げな貌を、他の誰に見せるのだろう。利広は笑みを湛え、本音を告げた。
「──君をそんなに悩ませるなんて、かの御仁も困った奴だね」
女王の目が大きく見開かれた。そのまま息を呑み、翠の宝玉は、物問いたげに利広を見つめる。何故、そんなに驚くのだろう。憂いは全て顔に出ているというのに──。
「だって、君が出てきた串風路は、妓楼街じゃないか」
そんなところから見ていたの──。
女王の心の声が聞こえるような気がした。利広は良心が咎め、少なからず言い訳をした。
「前にも言ったと思うけど、君は、目立つんだよ。どこにいても、ね」
女王は目を伏せた。長い睫毛が溜息をつくように揺れる。そして、その麗しい顔が、雲間に隠れる陽の如く翳っていく。
いったい、君は、どれだけ傷ついているの?
そう問いたい気持ちが募る。愛しい女の思い悩む様は、利広を切なくさせた。そして、胸に女王を傷つけたであろう男の顔が浮かぶ。利広は低く呟いた。
「──私だったら、君にそんな想いをさせたりしないのに」
思わず漏れた本音とともに、ゆっくりと手を伸ばす。その華奢な身体を抱きしめて慰めたい。けれど──。
利広は女王の細い肩を軽く叩くに留めた。心のままに動くのは、時期尚早だ。怖がらせては意味がない。
純情な女王が利広の葛藤に気づくはずもない。目を上げて不思議そうに利広を見つめている。利広は、その憂いに沈みながらも澄み切った瞳を、微笑して見つめ返した。胸に秘める想いを籠めて。
2008.09.05.
「3周年記念」中編「真意」第2回をお届けいたしました。
うう、そうです、実は「尚利対決」でございます。
7月のアンケートの結果を踏まえてプロットを練り直してみたのでした。
相変わらず邪で申し訳もございません。
けれど、最後まで、どうぞよろしくお願いいたします。
2008.09.05. 速世未生 記