真 意 (10)
* * * 10 * * *
延王尚隆は久方ぶりに玄英宮に帰城した。迎えに来た景王陽子とともに禁門に辿りつくと、すぐに延麒六太が駆けてきた。
「陽子!」
泣きそうに顔を歪めた六太は、真っ直ぐに陽子の胸に飛びこむ。陽子は神妙な顔をして、そんな六太を抱きとめた。
「──班渠」
陽子が六太と話している隙に、尚隆は密かに使令に声をかけた。女王の足許に消えようとしていた使令が尚隆を見る。尚隆は低い声で囁いた。
「利広を、あのままにはしておけぬ」
班渠は黙して頷く。たとえ他国の太子といえども、自国の女王を手玉に取った男を、班渠が快く思うはずはない。尚隆は更に声を低めて続けた。
「利広を捜してはくれまいか。無論、玄英宮にいる間の陽子の安全は保障する。恐らく、六太が傍から離さぬだろうが」
陽子にしがみつく六太ををちらりと見やり、班渠は小さく笑う。続けて女王に視線を移し、おもむろに尚隆に向き直った。班渠は景麒の使令。よって隣国の王である尚隆の命を聞く謂れはない。それを知る尚隆は、真摯に班渠を見つめた。
「頼む」
「──御意」
微かな声で応えを返し、班渠は姿を消した。そのやりとりを、少し涙ぐむ六太と語らう陽子が気づくことはなかった。
ごめんね、と陽子が謝り、無事でよかった、と六太は返す。それを聞いて尚隆は少し呆れ、六太の頭を小突いた。
「大丈夫だ、と言ったろう」
「──お前には謝らないからな」
六太は聞き取れないくらいに低い声でそう答え、合図した。すると、待ちかねたように大勢の下官が現れる。そしてそのままわらわらと尚隆を取り囲み、あっという間に執務室へと連れ去ったのだった。
尚隆は、六太の意趣返しをある程度覚悟していた。陽子が見つかったとき、六太に有無を言わせず帰城を命じた。そして、六太も何も訊かずに玄英宮に戻った。
景王陽子は武断の王。市井の者に遅れをとることは、まずない。が、女王の居所を報せた班渠は、風来坊の太子とともにいる、とはっきり告げた。
利広と陽子の間に何があったか、六太が知っているとは思えない。が、班渠と尚隆の会話から、何か察するものがあったに違いない。でなければ、あれほど素直に尚隆の命を聞くはずはないのだ、
それにしても、泣くほど陽子を心配していたとは。尚隆はひとり苦笑する。お前には、と六太は言った。ということは、陽子には謝る気なのだろう。確かに、六太の失言が事を大きくしたのだから、それは当然だ。
含み笑いをしていると、笑っている暇はない、と側近に一喝される。尚隆は片手を挙げて了承の意を告げ、溜まりに溜まった政務の整理に取りかかった。
「おう、尚隆」
やがて、威勢のよい声とともに執務室の扉が開いた。側近が小さく舌打ちするのが聞こえ、尚隆は吹き出す。そんなことに頓着することない宰輔が、意気揚々と姿を現した。わざとらしく蹙め面で六太を迎えた尚隆は、その後ろにいる人物を見つけ、にやりと笑う。
「お前にしては気が利くな」
「麗しい見張りに笑われないよう、仕事に励めよ」
賓客を伴ってやってきた雁国宰輔は、主である延王に尊大な応えを返す。それを聞いて、延王尚隆はやれやれと肩を竦め、景王陽子は控えめな笑い声を零した。
隣国の女王に恭しく拱手し、尚隆を見張っていた側近は静かに執務室を出て行く。そのまま、国主の見張りをもこなす有能な隣国の女王をもてなす手配をすることだろう。
程なく茶器と菓子を持った女官が現れ、賓客と宰輔のために茶を淹れた。無論、長らく出奔していた国主への奉仕はない。分かってはいるが、徹底した意趣返しに、思わず溜息が漏れた。
六太は色とりどりの茶菓を手に陽子と談笑する。尚隆はそれにときどき口を挟みつつ、次々と書簡を捌いていった。
ふと会話が途切れたとき、女王は淡い笑みを浮かべて遠くを見やっていた。その視線の先にいるであろう者が胸を過り、尚隆は小さく嘆息する。その思いを隠し、おもむろに名を呼んだ。
「──陽子?」
「──ううん、また、いろいろ勉強させてもらったな、と思って」
伴侶は尚隆に笑みを返し、感慨深げにそう言った。
いったいどんな勉強だ。
尚隆は顔を蹙める。あの性悪な太子は、この純真な女王に、此度はどんな余計なことを吹きこんだのか。想像すると頭痛がしてくる。
顔を蹙めたのは尚隆だけではなかった。陽子の鷹揚な言葉に、六太もまた肩を窄め、大きく嘆息する。そして、呆れたように声を上げた。
「お前、そんなにこいつを甘やかすな。もっと怒っていいんだぞ」
六太、と尚隆は片眉を上げて半身の名を呼ぶ。六太はじろりと尚隆を睨めつけて、話を振り出しに戻した。
「だいたいな、お前が妓楼なんかに行くから悪いんだ」
「お前は黙っていろ」
「黙るもんか」
以前、六太の諫言を、今言っても詮無い、と切り捨てた。が、伴侶の前での口論は、圧倒的に尚隆が不利だった。それが分かっている六太は、これ見よがしにあることないことを言いたい放題に言い立てる。尚隆は舌打ちしながらも応戦する。伴侶はにっこりと楽しげに笑い、尚隆と六太の口論を眺めていた。
気高く美しい、その笑み。
思わず見とれて言葉が止まる。
「ふふん、おれの勝ちだな!」
六太の勝手な勝利宣言を、尚隆は肩を竦めて聞き流す。敵は取ったぞ、と得意げな六太に、伴侶はふわりと笑みを返していた。出会った頃よりも深みを増した瞳と、大人びたその貌。
(──あなたは、知っていて……私を許したんだね……?)
真っ直ぐな瞳を向けて、ただそれだけを訊ねた伴侶。己自身の王であり、その細い背に一国を担う王である女を、尚隆もまた真っ直ぐに見つめ、忌憚なく本音を返した。
そう、許す許さないの問題ではない。受け入れただけだ。
あなたは意地悪だ、と言いつつも身を委ねる伴侶を、笑みを湛えて抱きしめた。誰のものでもない女王と、これまでも、これからも、ともに在るために。誰が、如何に、謀を巡らそうとも──。
これも天意なのだ。
散々奸計を弄した性悪な太子は、爽やかに笑んでそう嘯くのだろう。あの男には、天を疑う理由がないのだから。現に、奏での密かな酒席のときにもそんなことを匂わせていた。だが。
天の真意がどうであろうとも、己が伴侶と定めた女を手放しはしない。
深い笑みを刷く麗しい女王を見つめ、尚隆は胸にそう誓った。
延王尚隆が班渠の報告を受け、卓郎君利広と対峙するのは、その翌日のことであった。
2008.12.26.
大変長らくお待たせいたしました。
なんとか「3周年記念」中編「真意」最終回を年内にお届けできました。
この後は短編「深謀」に続きます。よろしければご覧くださいませ。
予定通り、10回連載81枚で終われました。
けれど……中編に4ヶ月もかかってしまってごめんなさい。
黒かったり遅かったりで、はらはらさせてしまいましたね。
それでも、お気に召していただけると嬉しいです。
2008.12.26. 速世未生 記