真 意 (9)
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国がほしい。
そう望んだのは、いつのことだったろう。その望みは叶えられた。そして、重い荷を背負う代わりに手に入れた、大きな力。
気儘に振舞う権を、ずっと行使してきた。風の漢を名乗り、諸国を旅することもそのひとつだった。誰に諌められようと、頓着することなかった。
縛られるのも、待たれるのも、性に合わない。欲を満たすだけなら、一夜限りの相手でいい。ずっとそう思っていた。だから、後宮に后を置くことなど考えたこともなかった。それなのに。
いつもの如く気紛れを起こし、助けを求めてきた慶東国の新王に自ら会いに出かけた。己と同じ胎果の王に興味を引かれたからだ。無論、その為人を確かめるためでもあったが。そして、延王尚隆は舞い踊る紅の炎のような娘に心を奪われたのだった。
初めて自ら欲した女は隣国の王。誰にも縛られず、己の傍には置けない至高の女を、天の理の網目を掻い潜り、策を弄し、首尾よく己の手に収めた。しかし。
気づいてみれば、捉われたのは尚隆のほう。きつく抱きしめても、抱かれているのは尚隆のほう。
そんなことに気づきもしない無邪気な女は、潤んだ瞳を切なく向ける。尚隆は微笑し、零れた涙を優しく拭った。
「──どうして……」
何も訊かないの。
掠れた声は途中で消えた。この胸に自ら戻ったお前に、わけなど訊く必要もなかろう。そう思いつつも、笑みを浮かべて口づける。言葉を呑みこむ伴侶に、逆に問うた。
「俺もそう問いたいのだがな」
どうして何も訊かないのか、と。
そう、胸に秘める問いを全て、聞かせてほしい。怒りも、悲しみも、憎しみも、恨み辛みをも余すところなく。
訊かれれば答えるつもりだった。寧ろ、想いをぶつけてほしかった。自ら妓楼に出向き、何を見、何を感じたか、も。しかし、伴侶は再び口を閉ざして俯く。尚隆は小さく嘆息した。
責めているわけではないのに。ただ、その瞳の奥に隠された暗闇を見てみたいだけだ。人の心は、綺麗なものだけでできてはいないのだから。尚隆は伴侶の眼を見据え、おもむろに問うた。
「──お前は、己に恥じることをしたのか?」
陽子は利広に惹かれている。無論、それを自覚しているわけではないし、自ら利広に近づこうとしているわけでもない。利広も、それを知っているからこそ、埒もない謀をするのだろう。
尚隆は、伴侶を愛することはできても、その心を縛ることはできない。人の心が動くのを止める術などないのだから。できることといえば、利広を牽制することぐらいのものだ。
苦い想いを飲み下しつつ、尚隆は己をも省みる。身を窶して街に下り、妓楼に足を向けるのを悪いと思ったことはない。
その身に時を刻み、限りある命を謳歌する者が放つ輝きは、時を止めた尚隆の目を惹きつける。己の現状を受け入れ、尚且つ生き抜こうとする逞しさを愛おしいと思う。それは、己と同じく悠久の時を生きる伴侶に寄せる想いとは別のものだ。
尚隆の問いに、伴侶は目を見張る。揺れる瞳がそっと伏せられた。が、再び目を上げたとき、伴侶は澄んだ瞳で真っ直ぐに尚隆を見返した。そして、静かに問いかけた。
「──あなたは、知っていて……私を許したんだね……?」
「あまり俺を買い被るな。──許したわけではない」
確信に満ちたその問いを、尚隆は微笑で受けとめる。そして、忌憚なく本音を告げた。が、聞いた伴侶は身を硬くする。誤解させてしまっただろうか。
「許す許さないの問題でもないがな」
そう返し、萎縮する伴侶を抱き寄せた。己の行動を悔いてはいない。が、それが伴侶を傷つけたことを、尚隆は知っている。動揺した伴侶を責めることなどできるはずもない。そして。
この腕に閉じこめても、心まで閉じこめることはできない。ただ、己の想いを伝えたい、と切に思う。そのために。
尚隆は伴侶の胸許にもうひとつ印を刻む。常ならぬことに、伴侶は身を捩って頬を朱に染める。そんな伴侶に笑みを向け、尚隆は断じた。
「──受け入れただけだ」
焦燥も、憂慮も、そして悋気すらも、相手を想う心から生まれる。愛とは美しいだけのものではない。
己に恥じることをしていない者を咎めるなど、できはしない。愛しているからこそ、失いたくないからこそ、苦い想いをも受け入れる。それは、諦観ではなく、覚悟だ。
伴侶は声もなく瞠目した。尚隆は、たちまち潤んだ瞳に人の悪い笑みを向ける。そして、伴侶が泣きながら叩きつけた言葉を返した。
「お前は、誰のものでもないのだろう?」
「──あなたは、意地悪だ」
己の口癖を尚隆に言われ、伴侶は深い溜息をつく。そしてその麗しい顔に苦笑を浮かべ、力の抜けた身体を尚隆に委ねた。
「意地悪か」
意地悪を言ったつもりはないのだが。尚隆は軽く笑い、伴侶を抱きしめる。そして、その柔肌にまたひとつ紅の花を咲かせた。
己の伴侶は、誰のものにもならぬ女王。自戒を籠め、その身に所有印を刻むことは滅多にしなかった。特に、女王の恋を疎む慶では。しかし、ここは雁。そして尚隆は雁の国主延王だ。
「──この花が散るまで、慶には帰さぬからな」
尚隆は伴侶の身体に刻んだ己の印を眺めつつ、にやりと笑って命じる。さすがにこれを見たら、女王の友たちも、さぞ驚くことだろう。想像するだけでも可笑しかった。
日頃の鬱憤を晴らし、上機嫌の尚隆に、隣国の女王である伴侶は、真っ赤な顔を俯けて蚊の鳴くような声で応えを返した。
「これ以上……増やさないでね……」
ささやかな願いを了承した証に、尚隆は伴侶の朱唇に甘く口づける。そして、遠慮することなくその滑らかな肌を味わった。
愛しい女を己の腕に取り戻した。その喜びを存分に表し、甘い時を過ごす。熱い想いに応える華奢な身体をしっかりと抱きしめると、ずっと胸を重くしていた己の悩みが小さく思えた。
そう、伴侶は尚隆を拒んだことがない。尚隆の情熱も暗闇も、その細い腕で抱き取ってくれる。戸惑い、時に涙を見せながらも、いつも尚隆の我儘を受け入れてくれる。
壊したくない。喪いたくない。許されたことに甘えてはいけない。己を律することを止めてはいけない。だが、常に尚隆を真っ直ぐに見つめるその澄んだ瞳から逃げてもいけないのだ。
想いを籠めて翠の宝玉を覗きこむ。潤んだ瞳に映る己は、安らいだ貌をしていた。
2008.12.04.
大変お待たせいたしました。
なんとか「3周年記念」中編「真意」第9回をお届けできました。
どうやら次で終われそうです。今年中に出せるよう頑張ります。
2008.12.04. 速世未生 記