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誘 惑 (1)

* * *  1  * * *

「班渠、付き合ってくれ」
「──主上、また堯天ですか?」
「そんなに嫌そうに言うな」
 少し大きめの荷物を肩に掛け、陽子はにやりと笑った。班渠は大きな溜息をつく。
「──もしかして、関弓ですか。また台輔に叱られますよ」
「景麒は私を叱るのが仕事だろう。そして、私は見聞を広げるのが仕事だ」
「主上には敵いませんね」
 暗に女王のお忍びを肯定する班渠に礼を述べ、景王陽子はこっそりと金波宮を抜け出した。
 班渠が溜息をつきつつも遠出のお忍びを認めてくれるようになった。陽子は唇に笑みを浮かべる。それは、班渠の主である景麒が、それだけ国が落ち着いたと判断しているからに他ならない。無論、冢宰浩瀚もだ。
 初めてお忍びで伴侶に会いに行ったときには、美しい紅葉が陽子を迎えてくれた。陽子はかつて花見に連れ出してくれた伴侶を、観楓に誘った。いつも強引な伴侶を玄英宮から攫うことは、思ったよりもずっと楽しい出来事だった。
 それからしばらくして、伴侶が雁の冬を体験させてくれた。北国の冬は、陽子に今まで知りようもなかったことを沢山教えてくれた。そして。
 慶と雁を往復するたびに、陽子は己の国が少しずつ栄えていく様を実際に見ることができた。もちろん、高岫に近い辺境の街までも整備されている豊かな雁に、慶が敵うことはないのだが。それさえも、己の目で確かめることが陽子の奮起を促す。
 見聞を広げる、という言葉は、始め、伴侶に会いに行くための口実だった。しかし、いつしかそれだけではなくなっていた。陽子の土産話を渋い顔で聞く景麒も、涼しい笑みを浮かべて聞く浩瀚も、楽しげに聞く遠甫も、それを感じているのだろう。

 行くからには、ただでは帰らない。

 それも気儘で強かな隣国の王に学んだことのひとつだった。破天荒なところまで延王の真似をなさらないでください、と諫言する景麒を思い浮かべ、陽子は肩を震わせた。
「──どうかなさいましたか?」
「いや、景麒の小言を思い出しただけだ」
 訝しげに問う班渠に、くすりと笑って応えを返す。聞いた班渠も楽しげに笑った。それでも、諫言だけは忘れない。
「台輔は、いつも主上を案じておられるのですよ」
「分かってるよ。けれど、私にだって息抜きは必要だと思わないか?」
 陽子は口を尖らせて不平を言う。ですからこうしてお付き合いしているのですよ、と班渠は澄まして返した。違いない、と陽子は大笑いした。
「班渠は景麒よりもずっと物分かりがいいから、私は助かるよ」
「主上、そういうことを、台輔の前では仰らないでくださいね」
 班渠は間髪を容れず念を押す。お前も苦労するな、と陽子は大きく笑って頷いた。

 そして玄英宮禁門に辿りついた。禁門前の広い岩棚に陽子を降ろすと、班渠が足許に姿を消す。駆けつけた門卒が一斉に平伏した。そして供も連れずに現れた隣国の女王を、恭しく迎え入れた。
 改めて案内を申し出る下官に首を振り、陽子は慣れた足取りで回廊を進む。雁国主従が自国と同様に金波宮を歩くように、景王陽子もまた玄英宮の内部を熟知していた。
「陽子、よく来たな」
 程なく延麒六太が満面に笑みを湛えて駆けてきた。この国の宰輔は、突然訪れた隣国の女王に驚く様子も見せない。陽子も久しぶりに会う六太を見て破顔した。
「六太くん、お久しぶり。元気だった?」
「おお。おれは変わりない。仕事を押付けられて頭にきてたけど、お蔭で陽子に会えたし」
 ざまぁみろ、と呟いて、六太はあさっての方向に舌を出した。陽子はくすくすと笑って訊ねた。
「──ということは、仕事を押付けてとんずらした人がいるわけだ」
「おう。巧いこと抜け出したと思ってるんだろうよ、あの莫迦」
 まだまだ続く六太の悪口雑言を聞きながら、景麒の蹙め面を思い浮かべ、陽子は少し肩を竦めた。どうした、と訊ねる六太に、陽子は苦笑を返す。
「──今頃、景麒もそんなことを言っているのかな、と思って」
「いや、景麒はきっと、尚隆の悪口を言ってるぞ」
 だって尚隆は王のくせに素行が悪すぎるからな、と六太は顔を蹙めた。そんなこと、と俯く陽子を、六太はじっと見つめる。陽子は訝しげに訊ねた。
「どうしたの?」
「──お前、ほんとに考え直したほうがいいかも」
「なんのこと?」
 その問いには答えずに、六太は深い溜息をついて黙りこむ。陽子は不思議そうに小首を傾げた。そんな陽子を気遣わしげに見つめ、六太は再び深い溜息をつく。それから、おもむろに問うた。
「あいつ、今、どこにいると思う?」
「──どこ?」
 素直に聞き返した陽子から、六太は目を逸らした。焦れた陽子は六太に先を促す。

「──妓楼」

 六太は嫌そうに呟く。陽子は耳を疑った。目を見開いたまま、二の句が継げなかった。固まって何も言えずにいる陽子を見つめ、六太は大きく肩を竦めた。そして上目遣いに問う。
「お前、どう思う?」
「──」
 突然そんなことを言われても、咄嗟に答えが浮かばない。絶句したままの陽子を気の毒そうに見つめ、六太は呟く。
「そうだよなぁ……。何も言いようがないよな、まったく」
 伴侶がいるのに妓楼だなんて、と続け、六太はそのまま卓子に頬杖をつき、大きく息をつく。やがて、固まっていた陽子は、小さな声ながら、決然と六太に告げた。
「──私が、迎えに行こう」
「お前、本気か?」
 六太は意外そうに目を見張った。陽子は真剣な顔をして、大きく頷いた。
「無論本気だよ。だって、妓楼にいることは確かなんだろう?」
「ああ、王気を感じるからな」
「じゃあ、案内してくれるよね、六太くん」
 陽子は敢えてにっこりと笑う。六太は気まずそうに目を逸らしながら、曖昧に頷いた。

2007.08.31.
 「10万打記念」中編「誘惑」第1回をお届けいたしました。 達成当日にアップできなくてごめんなさい! 
 拍手連載をしてしまうほど詰まっていた代物でございます。 実は去年も拍手連載をしていたような気がいたします。
 なんとか、短期集中で書ききりたいと思いますので、 皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。

2007.09.03. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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