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誘 惑 (2)

* * *  2  * * *

 六太の堂室を借りて、陽子はお忍び用の簡素な袍子に着替えた。髪も質素な組紐でひとつに括り、鏡の前に立つ。そこには、少し線の細い少年が映っていた。己の姿を見やり、どうやっても女には見えないな、と陽子は小さな溜息をつく。
 今頃、伴侶は、華やかに着飾った花娘とともにいるのだろうか。そんな艶やかな女たちと比べられたら、陽子など、ますます貧相に見えるだろう。ざわめく心を宥めつつ、陽子は鏡の中の己に自嘲の笑みを向けた。
 妓楼にはよい思い出がない。こちらに来たばかりの頃、流れ着いた巧で、陽子は荒んだ暮らしをしていた。盗みに入った家で、思いがけず親切にしてくれた達姐に気を許した。
 その達姐に、よい働き口がある、と連れて行かれたところが妓楼だった。怒鳴りこんでくる親族がいない海客は後腐れがない、と言い切り、達姐は妓楼の女将である母親に、陽子を売ろうとしたのだ。

(緑の柱は女郎宿だと決まってる。それを知らないほうが悪い)

 達姐の嘲るような声が、今も忘れられない。それを聞いて、陽子の目の前は真っ暗になった。その後、怒りが沸々と湧いてきて、陽子は妓楼を逃げ出した。水禺刀がなければ、冗祐がいなければ、陽子はあのまま花娘にされていたかもしれない。そして。
 しどけない恰好で物憂げに窓の外を眺めていた女を思い起こした。あのとき陽子は、妓楼のことも男女のことも何も知らずに花娘を嫌悪した。けれど、今は違う。「男の扱い」をよく知る花娘は、少年のような陽子より、ずっと男を惹きつけるのだろう。陽子は溜息をついた。
「陽子、支度はできたか」
 衝立の向こうから六太が声をかけてきた。己の物思いに沈んでいた陽子は、慌てて応えを返す。己もお忍び用の軽装に着替え、目立つ金色の髪を隠した六太は、袍子姿の陽子に笑みを向けた。
「──そんなもんまで持ってきて、ずいぶん用意がいいな」
「だって、雁の官吏は私に袍なんか貸してくれないだろう?」
「確かに。女王に袍を着せるなどとんでもない、なんて目の色を変えるだろな」
 顔を蹙める陽子に、六太は可笑しそうに同意した。それから二人は逃走した国主延王を捕まえに王都関弓へと降りたのだった。

 久しぶりに訪れた関弓の街は、相変わらず賑っていた。その賑う関弓の街を、六太は迷いのない足取りで歩く。陽子は黙ってその後についていった。
 やがて、緑の柱が立ち並ぶ界隈に差し掛かる。いささか品に欠ける中流の妓楼の前で、六太は立ち止まった。簡素な袍を纏って男装した陽子を見上げ、六太は気まずそうに訊ねる。
「──ほんとにいいのか?」
「くどいよ。私は大丈夫」
 陽子は気丈に言い切った。六太は軽く肩を竦め、小さく息をつく。それから、おもむろに言った。
「じゃあ、入るぞ」
 陽子は黙して頷く。緊張を隠せない陽子の背を軽く叩き、六太はゆっくりと妓楼の門を潜った。陽子は六太の後に続く。妓楼の入り口にいる女が六太を認めてにこやかに頭を下げた。
「まあ、ようこそいらっしゃいませ」
 その様子からして、六太がこの店に出入りするのは初めてではないと察せられた。六太は慣れた調子で女に問う。
「女将、風漢はいるか?」
「はい、奥に……。あら?」
「ああ、気にするな。一緒にあいつを迎えに来ただけだから」
 妓楼の女将が訝しげに陽子を見る。六太はひらひらと手を振る。陽子は少し頭を下げた。六太の言葉に納得したのか、女将は二人を先導して歩き始めた。
 店の中ではひと際立派な入り口で女将は足を止め、恭しく頭を下げた。軽く頷いて、六太は扉を開ける。陽子は六太の後ろから、そっと中を窺った。
 賑やかな房室の中で、尚隆は着飾った花娘を両脇に侍らせ、遊戯に興じていた。初めて見る、その姿。風漢と名乗り、市井の者に扮し、尚隆は楽しげだった。流し目をくれる花娘を軽くいなし、明るく笑う尚隆は、陽子といるときとは別人に見えた。
 遊戯に熱中している人々は、静かに開けられた扉には気づかない。嬌声を上げる花娘に、なにやら応えを返す尚隆を見て、陽子は胸に迫るものを感じた。

 大丈夫、と告げたはずなのに──。

 ちっと舌打ちをし、六太は中に足を踏み入れようとした。陽子はそんな六太に小さく声をかける。
「──六太くん、悪い。先に帰る」
 六太の返事を待たずに陽子は駆け出した。入り口に戻っていた女将に会釈し、陽子はそのまま足早に外に出た。
 あの場にいたたまれなかった。別に、妓楼にいたからとて、尚隆と花娘との色めいたことを見たわけでもない。寧ろ、そういう場面を見ることを覚悟して、ここまで来たはずなのに──。いったい何が辛いのかも、陽子には分からなかった。
 緑の柱が並ぶその一角を、陽子は闇雲に駆け抜けた。ただ、早くその場を離れたい、それだけを強く思いながら。

 陽子が「風漢」に扮した尚隆と街を歩いたことは数えるほどだった。まず、陽子が関弓に来ること自体、稀だったのだから。落ち着かぬ国を残して女王が他国を訪問することなどできない。陽子が雁を訪ねるよりも、尚隆が慶を訪れるほうが断然多かった。
 だから、気づかずにいた。──風漢でいることが、尚隆には必要なのだと。そう、尚隆には陽子が知らぬ五百年もの年月がある。それを、思い知らされた気がしていた。
 陽子を見つめる伴侶の目はいつも優しい。けれど、その目が優しいだけではないことを、陽子はよく知っている。王として、無鉄砲な陽子を厳しく諭す尚隆。そして、伴侶として、未熟な陽子を温かく導く尚隆。
 大きな身体と心で包んでくれる伴侶に相応しい女になりたい。そして、その瞳が見つめるものを、一緒に見つめていたい。いつか、その背に追いつきたい。
 そう思っていた。今も尚、変わらずそう思う。愛するひとに、もっと近づきたい。もっと知りたい。それなのに──。
 ここに、陽子の知らない伴侶がいる。見つめあっても、口づけを交わしても、肌を重ねても、知ることのできない伴侶が。
 所詮、全てを知ることなど、無理なのだ。そんなことは分かっていた。いや、分かっているつもりだった。けれど。
 頭で分かることと、心で感じることは、別物だった。そんなことも知らずに、大きな口を叩いた己が可笑しかった。
 広途に出て、陽子は大きく息をつく。それから、当てもなく賑やかな街を歩き続けた。

2007.09.05.
 「10万打記念」中編「誘惑」第2回をお届けいたしました。 尚隆の「よくない素行」にぶち当たった陽子主上でございます。 みんな悩んで大きくなった! 陽子主上の健闘を心から祈っております。

2007.09.05.
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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