誘 惑 (6)
* * * 6 * * *
──愛してる。
熱く甘い、その想い。それだけでよかったはずなのに。何故、一番大切なことを、忘れてしまうのだろう。
伴侶の腕に抱かれながら、涙が止め処なく溢れた。伴侶は優しく微笑み、零れる涙を拭う。いつもの如く、何も問わずに。陽子は掠れた声で問いかけた。
「──どうして……」
何も訊かないの。何も言わないの。何故、私を、責めないの──。
しかし、言葉を続けることができなかった。そんな陽子に、伴侶はくすりと笑って口づけを落とす。
「俺もそう問いたいのだがな」
伴侶はおもむろに口を開く。その揶揄めいた、笑いを含む声は、責める口調ではない。しかし、陽子は返す言葉なく俯いた。伴侶は短く息をつき、陽子を見下ろす。
「──お前は、己に恥じることをしたのか?」
延王尚隆の双眸が、陽子を射抜く。陽子は目を見張る。己のどこかで何かが切れた音がした。何故、このひとから逃げ出したのか、今、その理由が分かった。
放浪することも、妓楼に行くことも、尚隆にとって必要なことなのだ。それは尚隆の意志で、陽子がどうこうできることではない。そして、陽子は耐えられなかった。
己の知らない伴侶がそこにいることに。そして、伴侶が、陽子以外の女を、その腕に抱く、という事実に。
なんて身勝手なのだろう。
かつて陽子は、利広の腕に身を委ねたというのに。無論、自ら進んでそうしたわけではない。が、そうなることを避ける手段はあった。陽子が望めば、班渠も冗祐も力を貸してくれたはずだった。
あのとき陽子は、己の意思で利広に身を許した。理由など、あってないも同然だった。
──心が、動いたから。
それを悪いとは思わなかった。利広にはそれだけの魅力があったし、それは伴侶への想いとは別のものだったのだから。ただ、伴侶に知られたくない、と思っただけだ。無論、伴侶に知らせる気もなかった。それなのに。
尚隆は、知っていた。
いつ、どうやって知ったのか。陽子には、それを訊ねる勇気がなかった。
陽子は真っ直ぐに伴侶を見つめ返す。あのとき、陽子は己に恥じることをしたつもりはなかった。そして、今、己を恥じることなく、訊きたくて訊けなかったことを、素直に問うてみようと思った。
「──あなたは、知っていて……私を許したんだね……?」
「あまり俺を買い被るな。──許したわけではない」
その応えに、陽子は身を硬くする。許す許さないの問題でもないが、と続け、伴侶は陽子を抱き寄せた。そしてまた、胸許に印を刻む。陽子は身を捩り、頬を染めた。
「──受け入れただけだ」
言って、伴侶は限りなく優しく微笑した。陽子は声もなく目を見張る。すると、伴侶は人の悪い笑みを見せた。
「お前は、誰のものでもないのだろう?」
「──あなたは、意地悪だ」
意外な意趣返しに、陽子は深い溜息をつく。そんな強がりを言わなければ、独りで立っていられなくなる。このひとを想う己に呑まれ、女王である己を見失ってしまう。それを誰よりも分かっている伴侶に、陽子は力が抜けた身体を委ねた。
意地悪か、と伴侶は楽しげに笑う。それから、陽子を引き寄せて、もうひとつ、胸許に鮮やかな紅の花を咲かせた。そして、陽子の耳許で甘く囁く。
「──この花が散るまで、慶には帰さぬからな」
「これ以上……増やさないでね……」
陽子は頬を火照らせて、やっとの思いで伴侶にそう告げる。伴侶はにやりと笑い、今度は陽子の唇に口づけた。
* * * 7 * * *
「陽子!」
伴侶と一緒に玄英宮に戻ると、六太が駆けてきた。泣きそうに歪められたその顔に、陽子は胸を衝かれた。あのとき、陽子は六太の返事も聞かずに走り去ったのだ。
「──ごめんね、六太くん……」
「無事でよかった」
胸に飛びこんできた六太を抱きとめながら、陽子は詫びる。六太は涙を滲ませながらも笑顔でそう答えた。
「大丈夫だ、と言ったろう」
延王尚隆は、呆れたように嘆息した。しかし、逃亡していた国主は、待ち構えていた側近たちに囲まれ、そのまま連れ去られた。六太は舌を出してそれを見送った。
「陽子にゃ悪いが、あいつにはしばらく仕事をさせるぞ」
「──私が、騒ぎを大きくしたせいだね……」
「懲りねえ莫迦が悪いんだ」
六太は尊大にそう言ってしゅんと俯く陽子を励ます。陽子は小さく頷き、六太と一緒に歩き出した。六太が陽子を見上げて問う。
「お前はいつまで雁にいられるんだ?」
「しばらくいるって、さっき約束したから……」
そう答えると頬が火照った。胸に刻まれた印が消えるのは、いったいいつになるだろう。お忍びで来たのだから、あまり長くはいられないのだが。陽子の応えに六太は楽しげに笑う。
「──あいつが大人しく仕事に戻るわけだな」
このまま王の執務室で茶でも飲んで休もう、と六太は陽子を促す。仕事の邪魔になるのでは、と躊躇う陽子に片目を瞑り、六太は悪戯っぽく言った。
「お前がいたほうが、あいつの仕事は進むだろ」
赤くなって俯く陽子に、六太はますます笑う。それから、改めて気づいたように眉根を寄せた。
「──それともお前、またあいつに脅迫されたのか?」
「──人聞きが悪いよ、六太くん」
本当の理由を言うわけにはいかない陽子は、六太の問いを笑い飛ばし、己のいなかったときのことを訊ねた。六太は嘆息しつつも事の顛末を語る。
六太は陽子の失踪に狼狽えた。そんな六太に、尚隆は、武断の女王をどうにかできる者などそういない、と一喝した。そして、手早く指示を出し、自身も迅速に行動を起こした。
結局、尚隆は班渠と合流し、陽子の居場所を突き止めた。その際、六太は玄英宮にて待つよう命じられたのだのだ、と。それから、六太は優しい笑みを見せて、こう結んだ。
「あの莫迦も、お前のこととなると、目の色変わるんだ。──少し自覚を持ったほうが身のためだぞ」
「──え?」
「お前は、あいつの『特別』なんだからな」
伴侶の半身がさらりと告げたその言葉は、陽子の胸に染みこんだ。 そう、延王尚隆が、景王陽子を伴侶に選んだのだ──。
俺に相応しい伴侶は俺が選ぶ、他人がどう思おうと関係ない。
かつて尚隆は躊躇う陽子をそう口説いた。それを思い出して、陽子はその場に立ち尽くす。
「で、あいつ、どうやってお前を引き止めたんだ?」
六太がにやりと笑って肩を叩く。陽子は再び頬を染めて俯いた。六太は、もう分かった、と言ってまた笑った。
「おう、尚隆」
延王の執務室の扉を開けて、六太は陽気に声をかける。側近に見張られつつ政務を執る延王尚隆は、恨みがましい目で半身を見やる。しかし、陽子に気づくと、口許を緩めた。
「お前にしては気が利くな」
「麗しい見張りに笑われないよう、仕事に励めよ」
六太は腕を組み、尊大に諌言する。尚隆は、やれやれ、と眉根を寄せながらも見る間に書簡を片付けていった。陽子は笑みを湛え、そんな雁国主従を見守る。その様子を見て、延王の側近は、景王陽子に恭しく拱手し、静かに下がっていった。
(──君は、どうしたいの?)
利広の声が、今も聞こえるような気がした。陽子は六太に軽口を返しつつも仕事を進める伴侶を見つめる。
このひととともに在りたい。このひとに相応しい伴侶になりたい。その想いは、このひとが何をしようと変わらない。
揺れる心を真っ直ぐに見つめて、ようやく見つけたその答え。己の想いを確かめて、陽子は晴れやかに笑う。
利広は、どうしただろう。陽子は風来坊の太子に思いを馳せる。会って謝りたい気がした。それと同時に、会ってはいけない気もした。けれど。
利広は、今回もまた、色々なことを教えてくれた。伴侶が決して言わないことも、利広は言ってくれる。それは、胸に響く言葉。
ありがとう、利広。そして──ごめんなさい。
陽子は瞑目し、心でそっと呟いた。風来坊の太子が、爽やかな笑みを見せたような気がした。いつかまた、忘れた頃に会えるような気もした。
「──陽子?」
ほぼ仕事を終えた延王尚隆が、不思議そうに問うた。陽子は目を開けて軽く首を振る。それから、伴侶ににっこりと笑んで見せた。
「──ううん、また、いろいろ勉強させてもらったな、と思って」
六太が肩を窄め、大きく嘆息した。そして、呆れたように声を上げる。
「お前、そんなにこいつを甘やかすな。もっと怒っていいんだぞ」
「──六太」
「だいたいな、お前が妓楼なんかに行くから悪いんだ」
「お前は黙っていろ」
口許を歪め、尚隆は六太を叱責する。黙るもんか、と六太が言い返し、雁国主従はまたもや舌戦を繰り広げる。そんな様を、陽子は笑顔で眺めた。
(許したわけではない。受け入れただけだ)
伴侶は事もなげにそう言った。大きいひとだ、とつくづく思う。それでも、いつか、このひとを受止められる存在になりたい。このひとの隣に立ち、同じものを見つめられるように。
いつか、きっと──。
2007.10.19.
大変お待たせいたしました。
「10万打御礼」中編「誘惑」最終回をお届けいたしました。
PC不調を長く引き摺って申し訳ございませんでした。
やっと完結いたしました。
結局連載6回、原稿用紙51枚分にもなってしまいました……。
お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、この後は短編「深謀」に続きます。
よろしければそちらもご覧くださいませ。
いつか、尚隆視点のお話も書ければいいなと思います。
そちらはどうぞ気長にお待ちくださいませ。
尚隆及び利広視点の中編「真意」を書き上げました。
「深謀」よりも「真意」を先にご覧いただいたほうがよろしいかもしれません。
(2009.01.03.追記)
2007.10.19. 速世未生 記