誘 惑 (5)
* * * 5 * * *
何故、尚隆がこんなところに──。
串風路を走る陽子の頭の中を、そんな疑問がぐるぐると回る。伴侶は妓楼で遊戯に興じていたはずなのに。そこまで考えて、陽子ははっとする。
そうだ、六太を置き去りにして、妓楼から逃げ出した。六太が知らせたのかもしれない。それとも、班渠が六太の使令に追いついたのだろうか。──そんなことよりも。
尚隆に、見られた──。
そう思うと、もうその場にいたたまれなかった。言い訳もしようがない。分かっている。陽子は、一人で勝手に傷ついて、たまたま居合わせた利広に甘えたのだ。
(──君は、どうしたいの?)
優しくも厳しい利広の声が、胸に谺する。利広は陽子の甘えを受けとめてくれた。なのに──陽子はそれがどういう意味なのか、考えようともしなかった。
だから、豹変した利広の眼が怖かった。しかし、それ以上に、怒気を孕んだ声を上げた尚隆が怖かった。
後ろから駆け寄る足音がする。迫りくる際立つ気配を背中に感じ、陽子は身を震わせた。そして。
逃げる陽子の腕を、追いかける尚隆が掴んだ。よろけて倒れそうになった陽子を逞しい腕が抱きとめる。陽子は激しく抗った。その抵抗をものともせずに、尚隆は陽子を抱きすくめる。強い力で前を向かされた。
嫌、触らないで。私を、見ないで──。
陽子はその言葉を呑みこむ。合わせる顔がない。だから、逃げ出したのに。そう思うと、瞳に涙が滲んだ。
荒々しく重ねられた唇が、腰に絡められた強引な腕が、抵抗する気力を奪う。しかし、有無を言わせぬその力に屈するのは嫌だった。そんなことは、このひとにも伝わっているはずなのに。唇をもぎ離し、身を捩り、陽子は叫ぶ。
「私は誰のものでもない!」
そして──あなたは私のものではない。
だから、離して──。
涙に濡れた瞳が尚隆を射抜く。その勁い視線を、尚隆は真っ向から受けとめた。押し殺した声が、低く問いかける。
「──それを、俺が分からぬと言うのか?」
深い色を湛えた双眸が、昏く光る。陽子は瞠目した。視線が絡みあう。そして──。陽子は耐えきれずに目を逸らした。
身体の力が抜けた陽子に落とされる熱い口づけ。身が折れんばかりの激しい抱擁。いつも強引なこのひとは、それでも、お前は俺のもの、とは決して言わない。裏を返せば、このひとも決して陽子のものにはならない、そう言われているようで、切なかった。
伴侶の腕の中で、陽子は孤独を感じていた。こんなに傍にいるのに、どうして淋しいのだろう。愛しいひとに抱かれていながら、何故、こんなにも、哀しいのだろう。それなのに、このひとに求められると、戸惑いながらも受け入れてしまう。どうして、このひとを、拒めないのだろう。
胸で呟くと、頬を涙が伝う。抱きしめる腕の力が緩んだ。そして、いつものように、涙を拭う唇。陽子は瞼を閉じた。再び重ねられた唇を感じながら、陽子は身を硬くする。
閉じた瞳から、涙は止め処なく溢れた。呼吸が辛くなるほど長かった口づけが、不意に終わる。目を閉じていても、尚隆の物問いたげな視線を感じた。やがて。
尚隆は何も言わずに陽子の腕を掴んだまま歩き出す。陽子は引き摺られるようにそれに従った。手近な舎館に足を踏み入れ、さっさと手続きを済ませ、尚隆は房室に陽子を押し込んだ。ぴたりと扉を閉め切って。
尚隆はそのまま黙して陽子を見つめる。息苦しいほどの沈黙が陽子を苛んだ。陽子は俯き、頑なに目を逸らす。そんな陽子を臥牀に押し倒し、尚隆は己の服を脱ぎ捨てた。
帯を解かれ、袍の胸許を開けられる。それでも、陽子は人形のように身体を投げ出したままでいた。もう、抗う気力は残っていない。何をされても、逆らうつもりはなかった。
尚隆は陽子の手首を掴み、黙して見下ろす。陽子はその視線を避けようと、横を向いた。
「──何故、逃げぬ?」
やがて尚隆は、おもむろに口を開いた。陽子は目を合わさずに応えを返す。
「あなたが捕まえたんじゃないか──」
「大人しく捕まる女ではあるまいに」
掴んだ手首を離すことなく、尚隆はそう言って低く笑った。陽子は潤んだ目を上げ、尚隆を睨めつける。
「──ずるい言い方だな。逃がすつもりなど、始めからないくせに」
尚隆は人の悪い笑みを見せて頷いた。陽子の涙を唇で拭い、ゆっくりと首筋に唇を這わせてくる。陽子は微かに喘いだ。それを楽しむかのように尚隆は囁いた。
「ひとつ教えてやろう」
陽子ははっと目を上げた。愛おしむような優しい眼差しを向けて、尚隆はこう言った。
「お前が俺を拒めないのは、お前の躊躇いより、俺の求めのほうが強いからだ」
思いがけない言葉に、陽子は目を見張る。
──見透かされている。
また涙が滲んだ。あなたはずるい。私の想いを知りながら、そんなことを言うなんて。
それでも、このひとに惹かれる気持ちは止められない。このひとには、敵わない。堪らずに目を閉じた。涙が、また、零れた。
どんなに強がっても、逃げ出しても、私はあなたのもの。そして、あなたは、私のものではない──。
動揺する陽子に揺るぎない笑みを見せ、尚隆は熱い口づけを落とす。唇はそのまま首筋を伝い、鎖骨をなぞって降りていく。そして──胸許に辿りつき、陽子の肌を強く吸い上げた。
「──あっ」
小さな痛みに、陽子は思わず声を上げた。身体を捩り、小さく抗う陽子に構わずに、尚隆は陽子の肌に唇を滑らせる。行く先々に赤い花を散らしながら。
「尚隆っ!」
陽子は狼狽えて叫ぶ。伴侶が陽子に所有印を刻むことはほとんどなかった。あったとしても、目立たぬ場所に小さく印すだけ。だから、着替えを手伝う女史や女御にも気づかれることはなかった。それは、秘密の恋を側近に打ち明けてからも変わらなかったというのに。
「──こんなところを、俺以外の誰が見ると言うのだ?」
揶揄めいたことを言い、尚隆は楽しげに笑う。それは、陽子を責める口調ではなかった。
そう、あなただけ。他の誰にも見せたりしない。
そう思うだけで頬が熱くなる。羞恥に耐え切れず、陽子は身を捩る。尚隆は陽子の髪を掻き分け、背中にも口づけを落とす。肌をくすぐるその唇と髪。覆い被さる胸の温もり。
──身体の力が抜けていく。
「陽子」
伴侶が何度も呼ばう。愛おしいげに紡がれる名前。繰り返される愛撫。陽子の目に涙が滲む。それはもう、哀しい涙ではなかった。
あなたが、好き──。
ずっと胸に蟠っていた想いが解けていく。難しい理屈など、どうでもいい。ただ、その気持ちだけで、いい。陽子は厚い胸に縋りつき、自ら伴侶に口づけた。
2007.09.27.
お待たせいたしました。
「10万打御礼」中編「誘惑」連載第5回をお届けいたしました。
恐らく、次で終わると思います。
去年、拍手連載しておりました「揺れる想い」がやっと日の目を見ました。
ご、ごめんなさい! やっぱりコメント不能でございます……(恥)。
けれど、一言だけ。
くぉら〜、オヤジぃぃぃ〜〜〜!
──お粗末でございました。
2007.09.27. 速世未生 記