えぐれさま「9万打記念リクエスト」
甘 夜 (上)
* * * 1 * * *
海を渡る風は、すっかり涼しくなっていた。いや、それは、このひと夏を過ごした隣国の気候と比べて、だ。延王尚隆は、玄英宮の露台から雲海を見下ろしながら、ひとり苦笑した。
雁を治めるようになって五百余年が経つ。それなのに、ただ数ヶ月滞在しただけの慶の気候が、こうも身に染みついてしまったとは。そう、それくらい、公にできぬ愛しい伴侶と共に過ごした隣国での日々は濃密だったのだ。尚隆は波乱に富んだこの夏の出来事を反芻した。
発端は、隣国の冢宰からの書簡だった。秋官府と夏官府に送られたその書面を検めた延王と延麒は、覿面の罪を知らず、他国を救おうと心を砕く若き王を諭すために隣国を訪れたのだった。
放っておけば、己の思うままにどこまでも疾走していく純粋且つ無謀な隣国の王は、延王尚隆が己の伴侶と定めし唯一の女。尚隆はやっと得た伴侶を喪いたくはなかった。しかし。
景王陽子は先達の訓戒を耳に入れようとはしなかった。それどころか、甘んじて仕置きを受け入れた上で、延王尚隆を見事に論破してみせたのだ。
若き鵬雛を見縊っていた、と思い知らされた、あのとき。未熟ながら、女王は玉座に就きし者の矜持を示した。その成長振りに、尚隆は感嘆を隠せなかった。それだけに。
その後に起きた事件を思い起こすと、今なお苦い思いが蘇る。何もかもをねじ伏せる勁さを見せたかと思うと、限りなく脆い一面を露呈する、度し難き女王──。
片時も目を離せない。
尚隆は己の心を占めるその想いにしばし驚いた。これほどまでに何かに執着したことなど、今まであっただろうか。尚隆は自嘲の笑みを浮かべる。
舞い踊る紅蓮の炎に魅せられたあの出会いのときから、分かっていた。これが己の運命だ、と。紅の光を纏う娘は、尚隆が抱く昏い深淵に灯りを点す。小さくとも温かな光を──。
「尚隆、いつまでも休んでんじゃねえぞ!」
室内から怒声を浴びせられ、尚隆は軽く肩を竦める。振り返るまでもない。延麒六太の声だ。尚隆は聞こえよがしに大きく嘆息した。
「やれやれ、どちらが主か分かったものではないな」
「御託はいいから、早く仕事を終わらせろ! おれは好きで見張りをしているわけじゃねえんだからな!」
「それは俺のせいではないだろう? お前の素行が悪いからだ」
「お前にだけは言われたくねえ!」
そこで、いつもの舌戦は唐突に終結した。王と宰輔の会話とは思えない、と側近からの諫言が二人の間に割って入ったのだ。
尚隆はもう一度、やれやれ、と呟いてゆったりと執務室に戻る。そして書卓に向かい、堆く積まれた書簡を捌き始めた。
延王尚隆は、数ヶ月もの長きに渡り己が城を空けていた。それだけならよくある話だったのだが、帰城後まもなく景王弑逆未遂事件を報され、慶へ舞い戻った。側近は開いた口が塞がらない有様だった。
故に、再び玄英宮に戻ってからは、いつも監視役がいる。溜めた仕事を全て片付けるまでは、側近が国主から目を離すことはないだろう。無理もない、と肩を竦めつつも、尚隆の心はすぐに隣国の女王の許へと彷徨うのであった。
そうだ、次に金波宮を訪うときには、景王の気難しい側近連中に、麗しき女王の伴侶として迎えてもらえる。女王の半身である景麒しか知らぬ秘密の恋は、終わりを告げたのだ。そう思うと心が弾み、退屈な仕事をこなす速度が上がる。
「──お前さ、またよからぬこと考えてない?」
「気が散る。黙っておれ」
卓子に腰かけ、足をぶらぶらさせながら訊ねる六太を一蹴し、尚隆は一心不乱に書面に向かう。今度は六太が肩を竦めて溜息をついた。
「まあなー、お前の仕事が終わらねえと、おれの自由もねえからなー」
その呟きを敢えて無視し、尚隆はひたすら仕事に励んだ。そんなふうに月日は過ぎていった。そして。
ある晴れた晩秋の日、延王尚隆は山と積み上げられた御璽押印済の書簡を残して玄英宮を飛び立った。嬉々として旅立つ国主を、側近も宰輔も苦笑を浮かべつつ見送ったのだった。
* * * 2 * * *
季節は既に移ろっていた。気候温暖な隣国も、すっかり秋が深まっている。久しぶりに自由を得た延王尚隆は、目を細めて眼下に広がる景色を眺めた。稲穂が頭を垂れていた。
王が玉座にいるだけで天災が減る。他国に逃げ出していた荒民が戻る。無論、王朝が改まって二年や三年で目に見えて変化が現れるものではない。それでも、今ある秋の実りは、王が国に在る証拠。
偽王を討ち、己が手で内乱を治めた王に対する民の期待は大きい。心ない臣のために玉座を捨てかけた女王も、今それを身に染みて理解しているだろう。
やがて、堯天山が見えてきた。尚隆は荘厳な禁門前に騎獣を降ろす。駆けつけた門卒は隣国の王を認め、恭しく平伏した。そのひとりに手綱を預け、尚隆は金波宮に足を踏み入れた。
いつもの如く気儘に回廊を歩き、目指す堂室へと向かう。扉を開けると、いつも仏頂面の伴侶の半身が、ますます顔を蹙めて尚隆を迎えた。主の伴侶を厭う宰輔に、尚隆は笑みを湛えて声をかけた。
「景麒、ひとつ頼みがある」
眉を顰める景麒は、主の伴侶の申し出に難色を示す。しかし、恩義ある隣国の王の再度の要請に、渋々ながら首肯した。尚隆は景麒に軽く礼を示し、宮の主の許へと足を向けた。
景王陽子はいつもの如く内殿の執務室に座しているようだった。堆く積まれた書簡が女王を隠し、その麗しい姿はよく見えない。そして、書卓の側には冢宰が控えていた。
己の状況とそう変わらないと思うと、尚隆は笑いを抑えられなかった。隣国の王に気づいた冢宰の恭しい拱手に頷き、尚隆はゆっくりと書卓に歩み寄りながら女王に声をかけた。
「真面目に仕事をこなしているようだな、陽子。感心なことだ」
「──延王。厭味を仰るためにわざわざいらしたのですか?」
「相変わらず達者な口だな」
顔を蹙めて応えを返す女王に、尚隆は大きく笑った。女王はそれには答えず、深い溜息をつく。そして、上目遣いに訊いてきた。
「それより……あんなに城を空けておいででしたのに、大丈夫なのですか?」
「なに、俺などいなくても国は回る」
「──私もそうなんですが、意味が全く違いますね」
景王陽子はまた深々と溜息をついた。情けなさそうに肩を落とす若き女王のその様に、尚隆は呵呵大笑した。すると、黙して控えていた冢宰浩瀚が笑みを湛えて口を挟む。
「恐れながら申し上げますが、我が国は主上がいらっしゃらないと政が回りませんよ」
「だそうだぞ、景女王。臣を嘆かせぬよう仕事に励め」
「では、政務に勤しむ私の邪魔をしないでいただけますか、延王」
筆を止めることなく、女王はつけつけとそう言い放つ。尚隆が苦笑を零すと、怜悧な冢宰は涼しげに笑んで補足した。
「女御を召しましたので、少々お待ちくださいませ」
如才ない冢宰の言うとおり、ほどなく女御鈴が現れ、忙しい女王の代わりに茶の支度をした。茶杯を差し出す鈴がにっこりと笑みを見せる。
「ようこそいらせられました、延王。御酒は夜にお出しいたしますので、今は名産のお茶をお召し上がりくださいませ」
「やれやれ、やはりお預けを喰らうのだな」
尚隆は肩を竦め、鈴の淹れた茶を啜った。鈴はくすりと笑いを零す。そして女王は相変わらず手を止めずに澄ました応えを返した。
「そろそろ我慢を覚えたほうがよろしいですよ」
「俺に我慢を強いるのはお前くらいのものだ」
「それは重畳」
女王の態度は小憎らしいほど前と変わらない。しかし、側近の対応は明らかに違う。景麒は相変わらずだが、冢宰からは隣国の王に対する以上の気遣いが感じられる。そして、女王の友でもある女御は、尚隆を主の伴侶として歓迎しているように見えた。
我が伴侶の煩悶も、少しは減っているのだろう。
生真面目に仕事を進める女王を盗み見て、尚隆は小さく笑った。
2009.01.13.
えぐれさまによる「9万打記念リクエスト」でございます。
まずはお詫びを。1年半近くもお待たせしてしまい、申し訳ございませんでした。
書けば書くほど長くなり、とうとう上下に分けることにいたしました。
まずは前半をお楽しみくださいませ。
2009.01.15. 速世未生 記