所 顕 (上)
* * * 序 * * *
戴国宰輔泰麒を無事に捜しあて、慶東国国主の居城である金波宮は落ち着きを取り戻していた。その隙を突いて起きた景王弑逆未遂事件は思わぬところで波紋を呼んでいた。帰国したばかりの延王が、雲海の上から景王を訪れたのである。
延王尚隆は、謀反を起こした臣に抵抗しなかった己の伴侶である景王陽子に怒りを隠すことなかった。その怒気を、陽子はただ受けとめるしか術はなかった。そして──。
* * * 1 * * *
「──班渠」
やっと牀を下り、臥室を出た。身支度を整えながら、小さな声で使令を呼ぶ。
「ここに」
「延麒を呼んできてくれないか。──景麒には知られぬように」
「主上……」
使令は咎めるような声を上げる。しかし、景麒に知られるわけにはいかない。陽子は溜息混じりに言った。
「──班渠、延王のご機嫌を、また損ねる気か?」
痣のついた手首を見つめる。──これ以上は身が持たない。
「──畏まりまして」
班渠は消えた。そして、ほどなく延麒六太が陽子の堂室にそっと現れた。心配そうに訊ねる。
「陽子。──無事か?」
「無事なわけない……。知らせたのは、六太くんだろう」
陽子は深い溜息をついた。六太は肩を竦める。
「知らせなかったら、おれがまずいじゃねーか」
「私は贄か? まったく、どえらい目にあった」
陽子は恨めしげな眼を六太に向けた。六太は軽く笑う。
「今回は同情しないぜ。お前が悪い」
「それはよく分かった。私は、あのひとの逆鱗に触れてしまったんだ」
陽子はそう言って視線を床に落とした。尚隆の怒気を思い出すと、小さく肩が震えた。
「──で、奴は?」
「眠ってる、と思う。さっきは眠ってた。だから、そっと出てきたんだ。いないことに気づかれたら、まずい。でも、そろそろ仕事に行かないと……」
陽子の言葉に六太は頷く。
「確かにな。みんな心配してたぞ」
「うん。だから尚隆を説得しないと。──六太くん、一緒に来てくれないか。私一人で行ったら、また……」
そう言って陽子は目を伏せた。六太は陽子の手首を見た。指の痕がくっきりと残っている。憔悴した陽子の様子は、前言を撤回したくなるほど痛々しい。六太は溜息をついた。
「──だろうな」
臥室に戻った陽子は、牀の帳をそっと開けた。六太も一緒に覗きこむ。尚隆は目覚めていた。袍をしどけなく羽織って寝そべっていた尚隆は、にやりと笑い、陽子の手を引く。陽子はよろけて牀に倒れこんだ。
「──そろそろ顔を見せないと、誰かが呼びに来る……」
躊躇いがちに陽子はそう言った。が、尚隆は聞く耳をもたない。人の悪い笑みを浮かべ、陽子を抱き寄せる。六太がその場にいることにも頓着していなかった。
「尚隆……」
陽子は嘆息し、六太に視線で助けを求める。途方にくれたその様は、いつもの陽子らしくなくて、なんだか気の毒になるくらいだった。そして尚隆は、完璧に図に乗っている。放っておいたら、どこまでも陽子を困らせるだろう。六太は溜息をついた。
六太には、尚隆の怒りの烈しさが、その到着の早さからも察しがつく。六太の使令の報告を受け、雲海の上を駆けてきたのだろう。しかも、陽子の堂室を直接訪れている。昨夜、陽子を襲った災難は、六太の想像を絶するものだったに違いない。それならば確かに、今の陽子は、何をされても絶対に尚隆に逆らわないだろう。現に、髪をいじられ、耳を引っ張られても、真っ赤になって俯いているだけだ。
六太は苦笑した。困惑する陽子が、こんなに可愛らしいなんて。意地悪する尚隆の気持ちも分からないではなかった。こんな機会もそうないだろうから。普段はぶっきらぼうで、娘らしさがほとんどない女王のこんな姿を見たら、側近の奴らも目を回すだろう。そう思いつつ、六太は尚隆に諌言する。
「尚隆、いい加減にしろ。今回のことは、陽子も充分に反省してるんだから、もういいだろう。そろそろ、解放してやれ。陽子の側近連中が騒ぎだしてるぞ」
「──腹が減った」
「お前なぁ。まったく……」
馬耳東風とはこのことだ。六太は嘆息し、肩を竦めた。
「陽子、仕方ない。お前、覚悟決めろ。側近には話しておけ。この莫迦、手をつけられねえ」
「──班渠、景麒を呼んできてくれ」
陽子は尚隆に抱き寄せられたまま、深い溜息をついた。班渠が笑い含みに返す。
「畏まりまして」
「班渠にまで笑われてるぞ。尚隆、景麒が来る前にそのだらしない恰好、なんとかしろ。ただでさえよく思われてないのに、そのままじゃ叩き出されるぞ」
「──それは困る」
尚隆はやっと六太の説得に応じ、身支度を整えた。解放された陽子は、ほっと息をつく。堅物の景麒にあんな姿を見せたら話がこじれるばかりだ。陽子は六太を拝む。
「六太くん、頼むね」
「うーん、任せろ、とは言えねえなぁ……」
腕を組んで首を傾げる六太だった。
* * * 2 * * *
「主上」
景王陽子の堂室に駆け込んだ景麒は瞠目する。跪くのも忘れ、茫然と呟く。
「延王──お帰りになったのでは……」
「大事を聞いて、今朝早くまかりこした」
涼しい顔でそう答える尚隆に、六太が顔を蹙めた。よくもまあ、いけしゃあしゃあとそんなことが言える。
「──そんなわけで、景麒、お前に相談だ。今回のことで尚隆は頭に血が昇って雲海の上から来ちまった。陽子も自分が悪いと反省している。で、おれの迎えってことで禁門から一緒に帰ることにする。──誰も来てないのにいきなり中に迎えがいるのはヘンだろ?」
一気にまくしたてた六太は一度言葉を切り、景麒の様子を窺った。陽子は息を詰めて事の次第を見守っている。ただ、尚隆だけが悠々としていた。人の苦労も知らないで……と六太は尚隆を睨めつける。景麒は眉を寄せる。
「──確かに、それはおかしいですね」
「だろ? でさ、そろそろ、陽子の側近には話しておかねえか? でないと、収集がつかなくなる」
「──延王、そういうことですか。またもや、事後承諾なのですね。いい加減になさってください!」
珍しく怒声を上げる景麒に、尚隆は低く言った。
「──景麒。此度のこと、延麒がいなければ、景王はどうなっていた?」
「──」
景麒がぐっと詰まる。口許に酷薄な笑みを浮かべ、延王尚隆は畳みかける。
「景王は、弑逆の憂き目にあっていた、やもしれぬな」
蒼白な顔で景麒は黙する。
「そして、景王、そなたもだ」
景麒を黙らせた延王は、景王陽子に向き直る。陽子はその鋭い視線に、はっと居住まいを正した。
「王がしてはならぬことを、教えたはずだが。覚えているか?」
「……はい、天命に逆らって道に悖ること、他国に侵入すること、それから──」
「天命を容れずに自ら死を選ぶこと、だ」
延王尚隆の眼は厳しい光を浮かべていた。
「──泰麒捜索の件では、そなたの提案により、十二国中七カ国が共同で事にあたった。これは画期的なことだ。だが──その後すぐこの有様では、次はないぞ」
陽子は項垂れた。確かに、簡単に民の造反を許すような王に、他国が協力してくれるとは思えない。
「──申し訳、ありません」
「天命ある限り、王は斃れぬ。だが、抵抗一つしないというのは、自害に等しい」
延王は厳しい声で叱責した。景王陽子は神妙に頷いた。
「──はい」
「このままでは、お前を頼るわけにはいかぬな」
「は?」
「俺が斃れるまでには慶を立て直すから安心して頼れと言っていたろう」
延王尚隆はにやりと笑い、そう揶揄した。陽子は真っ赤になった。
「あれは……言葉の綾です」
「俺はお前のやる気に期待したのだがな」
呵呵と笑うその姿は、もういつもの尚隆だった。しかし、景麒も延王の怒りを充分に感じた。深い溜息をついて同意した。
「黄昏の岸 暁の天」直後のお話で、私のお話で言えば「残月」の続きです。
壁紙を替えて編集し直してみました。やはり編集しにくい作品でございます。
2006.06.28. 速世未生