所 顕 (中)
* * * 3 * * *
密かに二人分の食事を用意せよ、と命令を受けた女御は首を傾げた。彼女の主は具合が悪く伏せっていたはず。二人分もの食事を平らげるとは思えない。訝しみながらも食事を運ぶ鈴に、女史が近づいてきた。
「鈴、陽子は大丈夫なの?」
「祥瓊。それが……台輔に、内密に食事を二人分用意するよう言われたのだけど、具合の悪い陽子がこんなに食べられると思う?」
「私のほうはね、朝議が終ったら、内密に冢宰と太師と左将軍と大僕を連れてくるようにって」
祥瓊は鈴と並んで歩き出した。
「なんだか、きな臭いと思わない? 昨日の今日で陽子の具合が悪いのは分かるけど……側近がみんな呼ばれてるのよ」
声を潜める祥瓊を、鈴はじっと見つめる。
「陽子、朝はほんとに具合悪そうな声だったのよ。いつもなら、起こさなくても起きてるのに」
「そうよね。扉を開ける音で目が覚めるって聞いたことがある」
「そうよ。──何があったのかしら」
やがて二人は主の堂室に着いた。鈴がその壮麗な扉を叩く。
「朝食をお持ちいたしました」
「ありがとう。用意を頼む」
中から応えが聞こえた。鈴が陽子の堂室に入っていく。祥瓊は扉の前で待機した。中から陽子の声がする。
「──祥瓊、そこにいる?」
「はい」
「入ってくれ」
主の声に促されて堂室に入った祥瓊は、意外な人物を見つけ、瞠目する。そして、慌てて叩頭する。先日帰国したばかりの延王がそこにいたのだ。
「祥瓊、鈴を手伝ってくれないか」
「はい」
給仕を始めている鈴の手伝いをしながら、祥瓊は素早く状況の確認をした。その場にいるのは、雁州国国主延王、雁州国宰輔延麒、そして自国の宰輔景麒。本来であれば、祥瓊の身分では面を上げることすら許されぬ貴人が揃っている。
何があったのか、いつもの調子で陽子に訊ねるわけにはいかなかった。祥瓊は黙々と給仕する鈴と目を見交わした。
食事を取ったのは主に延王尚隆で、陽子はほとんど口にしなかった。なんだか傍目にも緊張した様子で、こちらも緊張してくる。
ちらと見ただけなのに、延王と目が合った。くすりと笑われ、祥瓊は慌てて目を逸らした。
いったい、何が起こるのだろう。
祥瓊は、改めて一同を丹念に観察した。泰然と食事を取る延王。憔悴し、緊張した様子の景王陽子。少し顔色が悪いが、相変わらず表情が読めない景麒。いつものおちゃらけた様子がない延麒。この面子がどうして、景王陽子の居室で朝食を取っているのか。
陽子の居室で、朝食? しかも、延王と、陽子が?
祥瓊は理由が閃いたような気がした。一瞬手が止まり、祥瓊は鈴を見た。鈴は訝しげに祥瓊を見返す。この場で、言葉なしに伝えられることではなかった。
視線を陽子に移す。しかし、陽子は祥瓊を見る余裕がないようだった。落ち着かない様子で、延麒を見、景麒を見、延王を見ている。
悠然と座す延王は、祥瓊と目が合うと、なんとも魅力的な人の悪い笑みを見せた。周囲の緊張を面白がっているようだった。その様子を見て、失礼とは思いつつ、祥瓊は延王に目で問うた。
──もしかして?
延王は片目を瞑り、口の端で笑った。祥瓊は、顔に広がる笑みを止められなかった。
そういうことだったのか。道理で、この方が頻繁に現れるわけだ。
やっと腑に落ちた祥瓊は、笑顔で陽子を見つめる。陽子は祥瓊の視線に、やっと気づいた。にやりと笑う祥瓊に、陽子は困惑したようだった。相変わらず鈍い。
祥瓊はそっと延王に視線を移し、もう一度、意味ありげに陽子を見た。陽子の顔が紅潮した。見る間に真っ赤になって俯く陽子を、延麒が訝しげに見る。
祥瓊は延麒に、にっこりと微笑みかけた。合点したらしい延麒六太はにっと笑い、いつもの調子で祥瓊に話しかけた。
「そろそろ朝議が終わるか?」
「もうそろそろ終わる頃合でございます」
「陽子、ここじゃまずいだろ?」
その問いには景麒が答えた。
「内殿に場を設けるよう申しつけました」
「それじゃあ、そっちに移動しよう」
六太に促され、陽子は頷いた。
「鈴、片付け終わったら、鈴も来てくれ」
「はい」
「祥瓊、浩瀚たちを呼んできてくれ」
「畏まりまして」
女御と女史は恭しく拱手して主たちを見送った。
* * * 4 * * *
内殿に向かいながら、陽子は胃がしくしく痛むのを感じた。こんなに緊張したのは久しぶりだ。
景麒はいつも以上に取りつく島がない。延麒六太は景麒を憚ってか黙ったままだ。ただ、延王尚隆だけが超然としていた。このひとは、いつも変わらない。
溜息をひとつつくと、くすりと笑う気配がした。見上げると尚隆が微笑していた。そんなに心配するな、とその目は可笑しそうに語る。誰のせいですか、と思わず怒鳴りそうになった。そんな様子に気づいた六太が、やれやれと肩を竦める。
内殿の一室に着いた。下官を全て下がらせ、席についた陽子は再び溜息をついた。
「お前はさっきから溜息ばかりだな」
面白そうに声をかける尚隆に、陽子は憮然とした顔を向けた。
「他にどうすればいいか、知っていたら教えてほしい」
「教えてやってもよいが──」
「いや、教えてくれなくていい。多分、ろくなことじゃない」
口を開きかけた尚隆を、陽子は慌てて止めた。尚隆は口許を歪め、おもむろに言った。
「陽子。お前は、そういうことを、今、俺に言ってもよいと、本気で思っているか?」
尚隆の双眸がきらりと光った。陽子は背筋がぞくりとするのを感じた。ごくり、と唾を呑みこみ、首を横に振る。
「──よろしい」
尚隆は陽子を黙らせると、重々しく頷いた。六太が情けなさそうに呟く。
「尚隆……お前、あんま調子に乗るなよ……。おれ、恥ずかしい」
「お前が恥を知っているというのか、六太」
「少なくとも、お前よりは知ってると思うぜ、絶対に」
「お前は恥の意味を誤解しているに違いない」
「その言葉そっくりお返しするね。お前こそ厚顔無恥ってんだ」
雁国主従の中身のない口論は、どんどんと白熱していく。放っておけばいつまでも続くと見た景麒は、額を押さえながら諌めた。
「──お二方とも、不毛な会話をお止めください。私は、ただでさえ頭が痛むのです」
陽子は特大の溜息をついた。──冢宰浩瀚に、なんと説明したらよいのだろう。それは景麒も同じ気持ちだろう。
桓魋や虎嘯はいい。遠甫も笑って受け入れてくれるだろう。祥瓊はもう分かっているようだったし、鈴も理解を示すだろう。でも、浩瀚がどう反応するか。陽子は全く読めなかった。
慶では前国主予王が景麒に恋着して道を失ったため、王の恋愛に対する風当たりが強い。陽子の半身である景麒は、今でもいい顔をしない。
国が安定しきっていない中、王に不審を抱かせる行いは少ないに越したことはない──景麒と延麒の意見を入れて、陽子と尚隆の仲は未だに互いの麒麟しか知らない秘密なのだ。
浩瀚の怜悧な顔が頭に浮かぶ。切れ者の冢宰はいつも一分の隙もない。理路整然としたその論理に、陽子はいつも感心する。その浩瀚が、どういった反応を示すのか──。諸手を挙げて歓迎するとは思えない。
浩瀚に、いつものように理路整然と諌言されたら、いったい何と答えればいいのだろう。そう考えるだけで、また胃が痛くなってくるのだった。
「陽子、そんなに心配するな。なるようになるさ」
陽子が眉間に皺を寄せて考えこんでいる様を、尚隆は軽く笑い飛ばした。陽子は嘆息した。
「──延王、そんな無責任な」
「情けない顔するな。まあ、見てろ」
尚隆は太い笑みを見せた。そんな尚隆を陽子は上目遣いに睨めつける。
「──なんだか、面白がっているだけのように見えますけど」
「ほう、よく分かったな」
口許に人の悪い笑みを浮かべる尚隆に、脱力を隠せない陽子であった。
黒背景が多い私のお話。たまには白もどうかと……。
皆さま、如何でしょうか?
2006.06.28. 速世未生 記