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所 顕ところあらわし (下)

* * *  5  * * *

 やがて女史祥瓊に導かれ、景王陽子の側近が次々に姿を見せ、隣国の王と宰輔の御前に叩頭した。冢宰浩瀚、太師遠甫、禁軍左将軍桓魋かんたい、大僕虎嘯、そして女御鈴である。
 代表として冢宰浩瀚が景王陽子に向き直り、丁寧に拱手する。
「主上、お召しにより参上仕りました」
「──忙しいところ、すまなかったな」
 緊張が頂点に達した陽子は、曖昧な微笑みを見せ、そう返すに留めた。言葉をどう続けていいか、分からない。
「いいえ、お加減がよろしくないと伺いましたが、いかがでございますか?」
 冢宰の労わりに、陽子はふわりと笑みをほころばせた。浩瀚はいつも冷静であるが、冷淡ではない。若い主に気遣いを忘れることは終ぞなかった。呼ばれた理由をすぐに問わないのは、陽子の逡巡を見抜いてのことだろう。
「心配かけたようだな。もう大丈夫だよ」
「それはようございました」
 浩瀚は微笑した。いつも輝かしい主の瞳が翳っている。力のない笑みは、この問題について自ら言及するのを避けたい、という主の気持ちを如実に表していた。浩瀚は、冢宰として主の意を汲み、突然の賓客に、殊更丁寧に拱手する。
「延王、先日はわが主上のためにご尽力をいただき、感謝の言葉もございません。此度は火急の御用とか伺いましたが、如何な御用でございましょうか?」
 矛先を向けられた延王尚隆は面白げに微笑する。きらりと光る冢宰の双眸から、そこはかとない敵意を感じる。禁門も通らずに現れた延王が何をしに来たのか、怜悧な冢宰は察しがついているようだった。

 ──面白い。いよいよこの冢宰と、直接対決するときが来たか。

 尚隆の顔に皮肉めいた笑いが浮かぶ。この件に関しては陽子は口を噤んでいる。自ら申し開きをする気はなさそうだ。が。

 ──耐えられるか、これから起こることに。

 延王尚隆はおもむろに口を開いた。
「──お前は、もう、分かっているのではないのか?」
「私如き者に延王の尊いお考えを拝察することはできかねます」
 頭を下げてそう返す冢宰浩瀚の態度に不遜なものは欠片もない。しかし、尚隆は己に向けられた冢宰の敵意をあからさまに感じた。すっと目を細める。
「──ほう、怜悧な冢宰と噂に高いそこもとが、そのように申すのか」
「私のようなものに過分なお言葉、恐れ入ります」
 延王尚隆の射抜くような視線に、冢宰浩瀚は慇懃に対応し、一歩も引かない。見えない火花が飛び散り、さっと場に緊張が走った。誰もが助けを求めるように景王陽子に視線を向ける。陽子は小さな溜息を漏らす。

 ──こんなことになるのではないかと、密かに予想はしていた。延王尚隆は、決して引かないだろうし、冢宰浩瀚は、自国の王を庇おうとするだろう。だからといって……。陽子は俯いた。

「──喧嘩をしてほしいわけではない……」
「主上──」
 浩瀚の気遣わしげな声に、陽子は顔を上げ、浩瀚を見つめた。
「延王は私を心配して来てくださったのだ。──私が悪かったんだ」
「──謀反が起こったのは、主上のせいではございません」
「──それでも、私は天命を受けた王なのだから、抵抗すべきだった」
 景王陽子はふっと自嘲の笑みを漏らす。そもそも、その天命を信じられなくなったからこそ、こんなことになったのだ。仮に天がなかったとしても、わが身が天命に縛られることに変わりはない。王の迷いは臣を惑わす。そう身を持って知った。

 ──逃げてはいけない。

 尚隆の視線を感じた。これ以上、逃げてはいけない。先達として、伴侶として心配してくれている延王尚隆に、これ以上頼るわけにはいかない。陽子は伴侶に目を向けた。尚隆はふっと柔らかに微笑し、頷いた。
 陽子は前を見据えてはっきりと言った。

「──私は王であることを放棄しようとしていた。申し訳ないと思っている。延王はそんな私の気持ちを見抜いて、雲海の上を駆けてきた。早まった私を戒めるために。同じ王として、そして──私の伴侶として」

* * *  6  * * *

 堂室の中は静まり返っていた。誰も口を開こうとしない。景王陽子はまたひとつ溜息をつく。
「──慶の民が女王を厭うのは、このためだと分かっている。だが、私は国を売り渡すつもりも、傾けるつもりもない。伴侶を持っても、私が景王として国を治めることには変わりない。そう、思っている……」

 下を向くまい。己に恥じることをしているわけではない。何も知らずに隣国の王に恋をした。それを後悔したことはない。

 何もかも知っていたとしても、このひとを選んだだろう。王が王を伴侶とするなど前例がない、と謗られても、この気持ちは譲れない。中嶋陽子の伴侶は、このひと以外、小松尚隆以外は考えられない。

 景王陽子の瞳に宿る勁い輝きは健在だった。延王尚隆は密かに感嘆した。この女王の翠玉の双眸に見つめられて否と言える者がどれほどいるだろうか。強固な意志を感じさせるこの勁い眼差しを、臆せず受けとめられる者がどれほどいよう──。

 微かな笑い声がした。少ししわがれたその声の持ち主は太師遠甫だった。
「──道理で、王は婚姻できるのか、と心配なさったわけじゃな。既に伴侶をお持ちじゃったのなら」
 遠甫は優しい眼で陽子を、そして尚隆を見つめた。
「──延帝、わが主上をお守りいただき、ありがたく存ずる。この方は真に景王に相応しい人物。しかし、延帝がおられなければわが国はこの方を喪っていた」
 太師の言葉に延王は不敵な笑みを浮かべた。
「天命ある限り、王は死なぬ。──それに、隣国の玉座が埋まらねば、荒民がいっそう増えるからな」
「そう仰ると思うていた」
 太師は笑みを見せた。延王は私情で景王を助けたわけではない。稀代の名君と誉れ高き隣国の王は、助力と引き換えに女王を脅したわけではない。そんなことをする人物に天啓が下りるわけがない。

 女史と女御が顔を見合わせて微笑んだ。それから、二人は晴れやかな笑顔で主を見つめ、頷いた。その様子を見て、左将軍桓魋かんたいも口許に笑みを浮かべる。難しい顔をしている景麒の肩を、延麒六太が笑顔で叩いた。
 陽子は、ようやく口許をほころばせた。そして、ふと、涼しい笑みを浮かべている冢宰を見た。この怜悧な臣の反応を、一番恐れていたというのに、浩瀚は平然としている。
「──浩瀚」
「はい」
「──なんだか……、ずいぶん……。──私は、お前に……叱られると思っていたのに……」

「──私は存じ上げておりましたから」

 恭しく拱手すると、浩瀚はさらりとそう言った。陽子は何を言われたか理解できなかった。
「こ、浩、瀚──?」
 目を見張る主に、冢宰浩瀚は優しい笑みを送る。
「な、な、何故──」
 陽子はやっと浩瀚の言葉を理解し、頬を真っ赤に染めた。誰も気づかないと思っていたのに。友人である鈴や祥瓊にさえ内緒にしていたのに──。動揺する陽子に話しかけたのは、浩瀚ではなく、虎嘯だった。
「よう──、いや主上。俺、なんだか、よく分からないんだが……。まさか、慶からいなくなるわけじゃあ」
「ちょ、ちょっと虎嘯──」
 鈴がびっくりして虎嘯の袖を引いた。虎嘯は顎を掻いて、困ったように言った。
「だって、陽子は延王の伴侶なんだろう?」
「──心配しなくても、俺はお前たちの女王を奪ったりはせぬよ」
 延王尚隆は楽しげに笑った。我に返った陽子も声を上げて笑う。
「相変わらずだな、虎嘯。私は雁に行ったりしないよ。景王は慶を治めるためにいるんだから」
 その場が温かな笑い声に包まれた。景麒がやっと弱々しげな笑みを見せた。この方は、予王とは違う。恋に呑まれたりはしない。いつもそう己に言い聞かせていた。が、不安は去らなかった。
「──景麒」
「主上……」
「今まで、心配かけて、悪かった。もう大丈夫。私は自信を持って延王を伴侶と言える。──己に呑まれたりしないよ」
 景王陽子は輝かしい瞳で己の半身を真っ直ぐ見つめた。景麒はその鮮やかな笑みにつられるように、口許を緩めた。
「はい」
 そう、己の半身は、勁い意思を持っている。この輝かしい方に寄り添って歩み続けよう──かつてそう誓ったはずだった。信じる気持ちは何時、揺らいでしまったのだろう。この方はいつも毅然と前を見つめていると言うのに。
「はい、私ももう、心配いたしません」
 景麒は、真っ直ぐ主の翠玉の瞳を見返し、ふわりと笑んだ。陽子は、己の半身に、晴れやかな笑みを返した。その様子を眺めていた延麒六太は、ほっとした顔を見せた。

* * *  7  * * *

 その後は和やかな茶会になった。肩の荷が下りた景王陽子は自らみなに茶を淹れ、感謝の気持ちを伝えた。
「やはり茶だけなのか」
「朝からお酒なんて出さないよ」
「やらやれ、お前は相変わらず頭が固い」
 差しだされた茶に不平を言う延王尚隆を一喝しながら陽子は笑う。その様子は普段と全く変わらない。桓魋かんたいが密かに溜息をつく。
「──まったく気づきませんでしたよ」
「──私もよ。いつも見てたのに」
 桓魋のぼやきに祥瓊が答えた。
「祥瓊も知らなかったのか」
「──気づかなかったわ。陽子ったら、こんなに隠し事が上手いなんて」
 祥瓊は悄然と俯く。友人だと思っていた。だからこそ、早く気づいて力になってあげたかった。きっと、ずっと悩んでいたに違いないのだから。
「祥瓊、私もよ。私も気づかなかったんだから。いつも陽子のお世話をしていたのに」
 鈴もそっと言った。しかも、今朝、陽子の様子が変だったのに、気づかなかったのだ。鈴と祥瓊は顔を見合わせて溜息をついた。
「祥瓊、鈴。主上は分かっているさ。これから力になってさしあげよう」
 桓魋は祥瓊と鈴の肩を優しく叩き、笑みを見せた。祥瓊は小さく頷いた。鈴も微笑んだ。
「遠甫は驚かないんだな」
「驚いたとも。何せ、王が王を伴侶に選ぶなど、恐らく前例がなかろう。じゃがな、お二人とも、覚悟がおありになる」
 大きな溜息をつく虎嘯に遠甫が笑みを見せた。ぽんぽんといつもの言い合いを続ける延王と景王は他の者の会話は耳に入っていないようだった。その様子を横目で見ながら桓魋は浩瀚に訊ねる。

「──浩瀚さまは、何故ご存じだったのですか?」

 静かに主の淹れてくれた茶を啜っている冢宰浩瀚に、その場の視線が注がれた。浩瀚は涼しげな微笑を見せるだけだった。期待の目を向けていた一同は、がっくりと肩を落とした。
 その後、雲海の上からやってきた延王尚隆をどうするかについて打ち合わせが行われた。話がまとまると、皆がそれぞれの仕事をしに散っていった。

「──浩瀚、俺も気づいていたぞ」

 すれ違い様に延王は冢宰に囁いた。浩瀚は、はっと振り返った。尚隆は口の端で笑った。

「お前は、ずいぶん前から気づいていたな」

 浩瀚は恭しく拱手を返した。延王と慶東国冢宰の密かな戦いはまだまだ続きそうだったが、景王陽子は知る由もなかった。

2005.10.12.
 終わりました! 最初の予定より、ずいぶん延びてしまいました。 こんなにたくさん人が出てくるお話を書いたのは初めてだったので、そのせいかも……。
 「月影」から始まったお話の本流とも言えるこのお話を、書き終えることができた 喜びでいっぱいです。 「黄昏の岸 暁の天」直後のお話で、私のお話で言えば「残月」の続きです。 というか、私の中では、ここまでが「残月」でした。 浩瀚が書けなくて放っておいたお話なんです。日の目を見てよかった!

2005.10.12. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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