残 月 (上)
* * * 1 * * *
かたり、と音がした。
その微かな物音で、陽子は目を覚ました。露台に面した大きな窓が静かに開く。陽子はそっと上体を起こし、水禺刀の柄に手をかけた。
月光を背にし、忍びやかに堂室の中に滑りこんでくる大きな影。その慣れ親しんだ気配に、陽子は安堵の溜息をつき、剣を下した。
足音も立てず、密やかに、影は牀に近づいてくる。陽子は少し緊張した。まだ、一日すら経っていない。それなのに、このひとは、もう、ここにいる。
──何をどう説明したらいいのだろう。
何を言っても、所詮ただの言い訳に過ぎない。
──何も言うまい。
小さく息をつく。陽子は覚悟を決め、居住まいを正した。
牀の帳が開かれた。月光に照らされ、その顔が露になる。はたしてそのひとは、先日雁に帰ったばかりの延王尚隆だった。
尚隆は薄く笑って牀に腰を下した。厳しい光を浮かべていた瞳が少し和らいだ。腕が伸ばされる。そっと抱き寄せられた。口づけを交わす。その腕の力が徐々に増していく。そして突然強い力で押し倒された。覆い被さってくる尚隆の全身から、怒気が立ち昇っている。
やはり──。
尚隆は黙し、いつもの軽口すらない。押さえつけられた陽子の腕には、指が食いこまんばかりだった。
陽子はその怒りを鎮める術を知らない。昏い光を宿す瞳を神妙に見つめ返す。陽子にできること、それは、逃げずに受けとめること。ただそれだけ。陽子の覚悟を見取って、尚隆は微かに頷き、残忍な笑みを見せた。
ああ、また、このひとにこんな貌をさせてしまった。
陽子は後悔に打ち震えた。このひとは身の内に昏い深淵を抱えている。五百年に渡って少しずつ降り積もった、王ゆえの狂気を。王は道を選べない。王であることを辞めるには、死するしかない。その重荷をこのひとは、もう五百年も背負い続けているのだ。
(お前を得て、俺がどんなに嬉しいか、お前には決して分かるまい……)
かつて尚隆はそう言った。玉座に就いて理解した。王だけが感じる重圧、王ゆえの孤独。陽子が尚隆を求める以上に、尚隆は陽子を求めていた。五百年待ち続けた、胎果の女王。それなのに。
泰麒捜索に絡んだ内紛──。陽子は投げやりになり、玉座を捨てかけた。蓬山での出来事が陽子の心に昏い影を落としていた。斃れなかったのは、六太のお陰だ。延麒六太の残した使令が急を知らせた。景麒の使令が間に合った。
(抵抗くらい、なさってください!)
景麒が蒼白な顔でそう叫んだ。丸腰だったからな、と苦笑して答えた。確かに剣は帯びてなかった。しかし、それは言い訳だった。
天に対する疑問を抱いた。己の力不足を思い知った。その上に、臣に叩きつけられた言葉。
(所詮は女王だ。私情で国を荒らす。今のうちに正さねば、予王のようになる)
力が抜けた。努力が報われない。民のために頑張っているつもりだった。その民にいらないと言われるのならば。どうでもいいと思った。
それで、楽になれる。この重圧から解き放たれる──。
陽子は今になってぞっとした。もし、あのとき斃れていたら、このひとはどうしたろう? 知らせを受けて、雲海の上を駆けてきた、このひとは。
関弓から堯天まで、最も早い騎獣で一日かかる。それなのに、このひとは半日ほどで陽子の許に辿りついた。禁門を通らずに直接雲海の上からやってきたからだ。王が王を訪ねるには礼儀に反している。奔放なこのひとも、さすがにここまでしたことはなかった。
それほどまでに、怒りは烈しい。掴まれた腕より、心が痛かった。このひとを置いて逝こうとしたのだ。それは、絶対にしてはいけないことだった。罪悪感に身体が震える。そして。
何もかもを灼き尽くすような怒気が、陽子に襲いかかった。いつも優しい手が、温かい唇が、身体を嬲り、苛む。怒りの中に潜む哀しみ。声に出せない叫び。そんなものが全身に刻印されていく。
涙が溢れて止まらない。それは、自責の涙。ここまでこのひとを傷つけた。このひとの身の内にある暗闇をより深く抉った。そして──こんなふうにしか表現できないこのひとへの哀れみ。
このひとは五百年を、どうやって耐えてきたのだろう。これほどまでの暗闇を抱えながら。
ああ、そうか。誰にも言えないからこそ、昏いものが降り積もるのだ。
陽子は、このひとの腕の中にいるとき、泣かない日はなかった。そう、初めて出会ったあの日から。
(──無理をするな。泣けるときに泣いておけ)
このひとは、そう言って、陽子を抱きしめた。王は泣いてはならぬ、泣くなら俺の胸で泣け、そう言われたような気がした。それから、いつも陽子の涙を受けとめてくれた。陽子の心に昏いものが巣くわぬように。
そして思い出す。私があなたに相応しいとは思えない、と躊躇う陽子に、俺の伴侶は俺が決める、他人がどう思おうと関係ない、と、このひとは笑った。
──このひとを愛してる。このひとが陽子の選んだ、ただひとりのひと。
そして陽子こそが、このひとの選んだ伴侶。その昏い闇さえも見せうる存在なのだ。
このひとを受けとめたい。その怒りも哀しみも、昏い深淵を広げる全てものを。
心からそう思い、陽子はいつ果てるとも分からぬ加虐に耐えた。
* * * 2 * * *
扉が開く音がした。はっと目を覚ました。女御が陽子を起こしにきたのだ。──もう、そんな時間。
隣に眠るひとを見つけられるわけにいかない。
陽子は身を起こそうとした。しかし、いつ目覚めたのか、身体に絡められた腕がそれを拒む。
「陽子? 眠ってるの? ──珍しいわね」
鈴の声がした。
このまま牀の帳を開けられたら──。
陽子はわが身を搦めとる腕の主に視線を落とした。お願い、離して、と眼で乞う。その懇願にも、尚隆は人の悪い笑みを浮かべるだけ。それどころか、腕の力をいっそう強めてくる。陽子は溜息をついた。
「──起きてるよ。でも、悪い、昨日の今日で、少し身体が辛いんだ。もう少し休ませて。着替えはそこに置いといていいから。自分で着るよ」
「本当に大丈夫なの? 瘍医を呼ぼうか?」
鈴が牀に駆け寄らんばかりに心配そうな声を上げる。見られるわけにはいかない、このひとを。一晩中ずっと嬲られ、苛まれたこの身を。それなのに、身体をなぞる指。背中を這う唇。──瞳に涙が滲む。このひとの意地悪に反応するわが身が恨めしかった。喘ぎ声を堪えると、答えが掠れた。
「──大丈夫。もう少し休めれば、それでいい……」
「──分かった。じゃあ、お大事に」
鈴が衣服を置いて出て行くと、尚隆の愛撫が大胆になった。困惑する陽子を楽しむように。
お願い、止めて。
その言葉を呑みこむ。どうしてだろう、陽子はそう言えたためしがない。いくら嬲られても、意地悪をされても。潤んだ瞳はその想いを隠せないと分かっている。それでも、口に出せない。言わないのは、意地を張っているから、だろうか。それとも──。
瞼を閉じると涙が零れた。くすりと笑う気配。そして唇がその涙を拭う。優しい口づけを受けた。乱れた髪を撫でる大きな手。──仕置きは終いだ、と微かな囁きを聞いたような気がする。そして、凪いだ海のように穏やかな熱に抱かれた。
再び目覚めたとき、尚隆は眠っていた。その顔は安らかで、纏っていた怒気は微塵も感じられない。しかし、その腕はしっかりと陽子の身体を抱き、離してくれそうもなかった。陽子は苦笑を浮かべる。そういえば、明るいところで、このひとの顔をこんなに見つめたことはない。いつも、有明の月を見ながら、見送るから。
「──しののめの ほがらほがらと明けゆけば おのがきぬぎぬなるぞ悲しき……」
古今和歌集の歌みたいだ、とふと思い、呟いた。古文の時間に習ったときは、後朝の別れと言われても実感が湧かなかった。しかし今は──。
秘めた恋だった。
金波宮では、景麒しか知るものがいない。蓬莱にいたときは、こんな切ない恋をするようになるとは思ってもみなかった。
蓬莱──少し胸が痛んだ。
そうだ、このひとは蓬莱に行ったのだ。どうだった、とは訊けなかった。陽子にとっても呟くだけで胸の痛くなるところ。尚隆にとっては、実に五百年ぶりの故国だった。何を見、何を思っただろう。
いつか、話してくれるだろうか。
無防備な寝顔を眺めると、また涙が滲んだ。玉座を捨てて逃げ出そうとしたくせに、もう先のことを考えている。
「──ごめんなさい……」
尚隆の穏やかな寝顔に、微かな声で呟く。陽子はその頬にそっと手を伸ばし、息を潜めて口づけた。
「黄昏の岸 暁の天」直後のお話です。
私の作品でいえば長編「黄昏」後のお話でございます。
サイト改装に伴い、上下に分けてみました。
すっきりしたように思いますが、如何でしょうか?
2006.06.19. 速世未生 記