残 月 (下)
* * * 3 * * *
景王弑逆未遂──六太の使令より急を告げられた延王尚隆は瞑目した。
「──それで、陽子は無事なのか?」
「はい、景王はご無事です。景台輔の使令が間に合いましたから。ただ──」
「──ただ?」
「台輔が心配しておられました。景王は、無抵抗だった、と」
「──なんだと」
尚隆は目眩がするのを感じた。目の前が一気に暗くなる。襲われて、抵抗しないとは。それは──。心で叫ぶ。
(六太、どういうことだ!)
(落ち着け、尚隆。そんなこと、本人に訊かなきゃ分かんねえだろ)
六太の諌める声が聞こえたような気がする。しかし、六太はここにはいない。六太を金波宮に残してきたからこそ、こんなに早く知ることができたというのに。
「──金波宮に行ってくる」
「主上、先日慶から戻られたばかりでは……」
「火急の用だ」
短く言い捨て、尚隆は騎獣に飛び乗った。急を知らせた使令は再び遁甲してついてきていた。使令に分かる限りの説明をさせる。雲海の上を飛んで、金波宮までは半日。分かっていたことだが、その距離がこんなにもどかしいものだとは。
(陽子、何があった。何故、抵抗しなかった。──それがどういうことか、お前は分かっているのか)
思考がぐるぐると回り、結局そこに戻っていく。早く自分で確認しなくては、おかしくなりそうだった。
雲海から突き出る凌雲山。堯天が見えてきた。金波宮に到着した尚隆は、迷わず陽子の臥室の露台に騎獣を降ろす。月が照らしていた。
露台に面した大きな窓に手をかけ、静かに開く。忍びやかに堂室に滑りこみ、牀に向かう。そして帳を開けた。陽子は居住まいを正し、黙して尚隆を見上げていた。
生きていた。
安堵に唇が緩む。牀に腰掛け、そっと抱き寄せた。確かな温もりがそこにあった。
──無事でよかった。
その朱唇に唇を重ねる。壊れ物に触れるように抱いた腕に力が籠もる。そして、目に入るもの。牀の上には水禺刀があった。
尚隆は目を細めた。止めようのない怒りが、ふつふつと沸きあがる。
──眠るときも手放さない剣を、何故、そのときに帯びていなかったのか。
強い力で押し倒し、細い身体を組み伏せる。華奢な腕を握りつぶさんばかりの力で掴んだ。陽子の顔が苦痛に歪む。が、陽子は声ひとつ上げずに耐えた。しかしそれは、尚隆の怒りを掻き立てるだけだった。
──何か言ってみろ。申し開きをしないか。それとも、お前は何もかも分かってそうしたというのか。それが、己に恥じない行動だったというのか。
怒りの焔を噴き上げる尚隆の双眸を陽子は神妙に見つめ返してきた。──何も語ることはない、覚悟はできている、その眼はそう告げていた。
声に出せぬ嗤いが込みあげてきた。そうまでして口を噤むのか。それならば、望みどおり、仕置きをしてやろう。
お前は、俺を置いて、独りで逝こうとしたのだから。
そう思うだけで胸が塞がれる。それは尚隆にとって、最大の、最悪の裏切りだった。互いに王だ。天命を失えば、斃れて死ぬ。陽子を伴侶と決めたときから、その覚悟はできていた。しかし、王を弑そうという輩に抵抗ひとつしないとは──。
自殺に等しい。
そのとき、己は伴侶の心にいられなかったのだ。伴侶をこの世に引き止める縁となりえなかったのだ。
そんな苦い思いが尚隆を加虐に駆りたてた。愛しみ、守ってきた伴侶を、踏みしだきたい気持ちを抑えられない。それは、何かも整った国を壊したくなる誘惑と似ていた。自身の心の奥深くに潜む昏い深淵が、鎌首を持ち上げて己を呑みこもうとしている。
なんという昏い衝動。
伴侶は声を殺して泣いていた。あのときと、同じに。嵐に嬲られる花の如く、なす術もなく尚隆の怒りに身を曝していた。いや、その眼には自責の念があった。声に出せない想いがあった。そんなつもりはなかった、などと言い訳はできない──零れる涙がそう告げていた。
王は神。天により永遠の命を与えられている。そう信じられている。しかし、その元は人に過ぎない。人であるからこそ、過ち、道を踏み外すのだ。そうでなければ、王朝がかくも脆いはずがない。
景王陽子は、昏い闇に呑まれかけたのだ。王ならば、一度や二度は必ず通る道。昏い罠に、足をすくわれかけた。
まさか、こんなに早くこの日が来ようとは。そうならぬように、今まで守ってきたというのに。いったい、何故──。
己は王の器ではない、と玉座を拒んだ。私が延王に相応しいとは思えない、と尚隆の求愛に躊躇った。陽子には自分を卑下する癖があった。それは己を過信しないという美点であったが、同時に自身の器量を認めないという欠点でもあった。そんな陽子だからこそ、尚隆は、文句があれば麒麟に言えと思え、と諭し、天啓が下りた、と口説いたのだ。
その天意を、信じられなくなったとしたら。
蓬山。碧霞玄君玉葉は、妾の手には負えぬ、と言った。西王母に会った。尚隆でさえ、神と呼ばれる者に会ったのは初めてだった。尚隆が考えないようにしていたことに、陽子は違和感をもったようだった。
何故、王には寿命がないのか。何をもって麒麟は王を選ぶのか。
天に対する疑問を抱いてしまっては、もはや天意を鵜呑みにすることはできない。
何も考えるな、せめて国が落ち着くまで。
国が安定する前に天意を疑うならば、この先を凌いでいけない。お前は五百年待ってやっと得た俺の伴侶。
こんなに早く、俺を置いて逝こうとするな──。
尚隆は己の激情の全てを伴侶の細い身体にぶつけた。
怒りも哀しみも、己の弱さをも、全て出し尽くした。伴侶はそれに黙して耐えた。全身に刻みこんだ蹂躙の印。我に返ってみると、かなり痛々しいものだった。何もかも受けとめ、疲れはてて眠る伴侶を、しばし見つめた。
──よく耐えた。よくぞ、逃げ出さなかった。
愛おしさが込みあげた。このまま、離れずにいてほしい、そう思い、華奢な身体をしっかりと抱きしめて眠りについた。
* * * 4 * * *
扉が開く音で目が覚めた。女官が景王陽子を起こしにきたらしい。陽子は、飛び起きようとした。尚隆はその細腰に絡めた腕に力を籠めた。
行かせたくなかった。
女官が、陽子、と伴侶の名を呼ぶ。女王の名を呼び捨てにする女官──それは伴侶の友のはず。困惑し、離して、と目で乞う伴侶に、人の悪い笑みを返した。腕の力をさらに強める。
お前は困るだろうが、あいにく俺は困らない。
伴侶は溜息をつき、女官にしどろもどろの言い訳をする。主の調子の悪そうな声に、女官は牀の帳を開けんばかりの心配そうな声を上げる。伴侶はますます困った顔を見せた。その様子が愛らしく、意地悪をしたくなった。
その曲線を指でなぞり、背筋に唇を這わせる。己の意思とは裏腹に、尚隆の愛撫に反応する身体。喘ぎ声を堪える朱唇。その瞳にうっすらと涙が滲む。それでも伴侶はなんとか女官に答えを返した。女官は心配そうにしながらも、主の命を受け、着替えを置いて出ていった。
潤んだ瞳が訴える。お願い、止めて、と。ぞくぞくするほど悩ましい。官能を刺激され、愛撫が大胆になる。小さな喘ぎ声。そして、諦めたように閉じられる瞼。
零れた一筋の涙を、唇でそっと拭った。くすり、と笑い、震えている朱唇に口づけを落とす。背中に流れた緋色の髪を撫でながら、耳許で囁く。
──仕置きは終いだ、と。
あれほど己を昂ぶらせていた怒気は、すっかり姿を消していた。伴侶はその細い腕で全てを受けとめてくれた。怒りも哀しみも我儘も、そして意地悪も。感謝を込めて、その華奢な身体を優しく抱いた。
やがて、伴侶の身動ぎで目が覚めた。が、目を開けるのは止めておいた。伴侶の視線を感じた。くすりと笑う気配と優しい眼差しを受け、心が安らいだ。柔らかな時間が流れる。陽子は尚隆の顔を見つめて何を思っているのだろう。微かな呟きが聞こえた。
「──しののめの ほがらほがらと明けゆけば おのがきぬぎぬなるぞ悲しき……」
懐かしい響き。記憶を辿る。遥か昔、蓬莱で聞いた古今集の一句。
──後朝の別れを惜しむ歌。
麒麟以外は誰も知らぬ、秘密の逢瀬だ。いつも夜が明けきらぬうちに、身支度を整え、伴侶の許を去る。残月とともに。
──別れを、惜しんでくれていたのか、と思うと、愛しさが増した。
ごめんなさい、と密やかな囁き。頬に手が触れた。伴侶は息を潜めた小さな口づけをくれた。そろそろ、解放してあげよう、そう思い、腕を緩めた。伴侶はそっと牀を降りて出て行った。
さて、そろそろ、秘密の恋も終わりにしようか。
今回はそのいい機会かもしれない。尚隆は唇に笑みを浮かべた。
2005.07.01.
「黄昏の岸 暁の天」直後のお話です。
思ったより、色っぽくなってしまって、ただただ赤面……。
「僥倖」で陽子がしたことを「独白」で尚隆は 怒らなかったんです。
書いた本人も意外でした!
それで、どんなことをしたら尚隆は怒るのかな……と思って 書いたお話です。
実に激しく怒ってくれました。
「黄昏〜」を読んだ時に、大切な人に置いて逝かれたら辛いだろうなと思いました。
もう、陽子にはあんなことしてほしくないな……。
2005.09.08. 速世未生 記