謀 事 (最終回)
* * * 5 * * *
「私は誰のものでもない」
勁い瞳で見返す誇り高き女王。その身を抱くことができるのは、輝く翠の宝玉に呑まれぬ者のみ。そう、景王陽子が受け入れた者だけだ。
例え伴侶の尚隆であろうとも、本気で拒まれればその身に触れることすらできはしないだろう。当たり前のように伴侶の身体を抱き寄せながら、尚隆がそれを忘れることはなかった。
新米花娘に扮した伴侶に繊細な愛撫を施す。怯えて身を硬くする早乙女の心を解くように。声を殺し、息を呑む伴侶に耳朶に囁く。
「今のお前は翡翠なのだから、我慢する必要はないぞ。寧ろもっと俺を煽れ」
秘めた恋を憚ってか、伴侶が大きな声を出すことはない。それは自国を出ても同じことだった。少し身を震わせ、躊躇うように尚隆を見上げる伴侶に甘く呼びかける。
「──翡翠」
王であることを、今だけは忘れてほしい。風漢と翡翠、ただの男と女として抱きあう夜があってもよいだろう。
想いを籠めて見つめると、伴侶は深く甘く息をつく。潤んだ瞳に淡い笑みを浮かべ、微かに頷く伴侶をきつく抱きしめた。
温もりが消えない夜を堪能し、尚隆は眠りに就く。そして、目覚めて最初に見たものは、柔らかな翠の眼差しだった。尚隆は伴侶を引き寄せてその朱唇を啄ばむ。夜が明け切るまでこのままでいたい。そんな願いを籠めて。しかし。
「──門が開く。帰るよ」
伴侶は身を起こし、勁い瞳でそう断じる。これ以上の我儘は許さない。言外に潜む強い意志。ここが引き際と心得つつも尚隆は深い溜息をつく。が、揺るぎない女王の瞳を見返して素直に頷いた。
「──どんな顔をしていいか分からない」
伴侶は身支度を整えながら嘆息する。丁寧に顔を洗い、袍を着こんだ伴侶はすっかりいつもの姿だった。初々しかった昨夜の新米花娘はもういない。翡翠を惜しむと、意地悪をしたくなる。
「普通にしていればよかろう。お手の物だろう?」
「お気楽な人だ」
「お前が固過ぎるのだ」
低く笑ってそう言えば、伴侶は顔を蹙めて首を横に振る。そして昨日着せられていた花娘の衣装を几帳面に畳んだ。そんなところまで生真面目な伴侶を笑いながら、尚隆は房室を出た。
まだ夜が明けたばかりだった。辺りはしんと寝静まっている。薄暗い回廊を歩くと知らず溜息が出た。
「まったく……こんなに早くここを出たことはないぞ」
伴侶は聞こえない振りをしてそっぽを向く。そんなとき、女将の声がした。
「風漢さま」
代金はいつも前払だが、女将は律儀に見送りに立つ。此度も早朝にも拘らず現れたのは、早々に引き揚げたがっていた伴侶の行動を見越してのことだろう。
「世話になったな、女将」
「どうぞまたいらしてくださいね」
尚隆に頭を下げ、女将は伴侶に笑みを向ける。そして俯く伴侶に耳打ちした。
「風漢さまのお好みは翡翠のようですから、いらしていただけると助かります」
女将自らの種明かしに、さすがの伴侶も気づいたらしい。咄嗟に顔を上げて女将の顔を凝視する伴侶に、女将はしたり顔で頷いた。伴侶の顔が朱に染まっていく。尚隆は笑いを噛み殺しながら伴侶を覗きこんだ。
「どうした?」
「あなたの好みは変わってるんだと思うよ」
髪と同じ色になった顔で小さく叫ぶ伴侶。尚隆は堪らず吹き出した。可笑しさのあまり伴侶の細い肩を抱いて本音を告げる。
「お前といると、ほんとうに退屈することがない」
「風漢さまは、やはりお目が高いようですわね」
女将は楽しげに笑ってそう言った。尚隆は女将に頷きかけ、では、と片手を挙げる。深く頭を下げる女将に見送られ、尚隆は伴侶とともに妓楼を後にした。
伴侶の肩を抱いたまま歩く。広途に出たところで伴侶が大きく溜息をついた。あの妓楼の女将は、強かさを身につけたはずの女王をも緊張させる相手らしい。尚隆はにやりと笑って伴侶に問うた。
「疲れたか?」
「誰かのお蔭で、とても」
伴侶は不機嫌に応えを返す。女将ではなく尚隆を責めるその口調に、尚隆は大笑いした。しかし。
「市井の者は逞しいだろう?」
「──そうだね」
伴侶は否定しなかった。そうだろう。時を止めた雲海の上の住人と違い、時と共に生きる市井の民人は逞しい。有限の生を駆け抜けていく者のみが持つ輝きは強く、尚隆を魅了するのだ。悠久の時を共に生きる伴侶もまたそれを噛みしめるかのように微笑した。
「また来ような」
「こんな戯事に何度も付き合う気はないよ」
尚隆の軽口に、伴侶は思い切り顔を蹙めてそう言い切る。しかし、口ではそう言っていても、伴侶はこんな謀に付き合うのだ。
そのまま変わらずにいてほしい。
そう思いつつ、尚隆は伴侶に笑みを向けた。
* * * 6 * * *
玄英宮に戻った途端、尚隆は側近たちに捕まって執務室に閉じこめられた。早朝故に六太は勿論休んでいる。官吏たちに恭しく頭を下げられた隣国の女王は、苦笑しつつも己の堂室へと退っていった。
夜半に掌客殿を訪ねると、伴侶は鏡に向かって溜息をついていた。いつもは括られている緋色の髪を背に流し、夜着に着替えた伴侶は、やはり美しい。例え憂いに瞳を翳らせていたとしても。
「何を考えこんでいるのだ?」
尚隆は笑い含みに声をかけた。伴侶は驚いたように目を見開き、鏡越しに尚隆と目を合わせる。鏡に向かって笑みを返すと、伴侶はゆっくりと振り返った。澄んだ翠の瞳がじっと尚隆を見つめる。
「──あなたはどうして妓楼に行くの?」
不意に投げかけられた問いは、今まで訊かれたことのない類のものだ。虚を衝かれ、尚隆は大きく目を見開いた。
妓楼での女将と伴侶の遣り取りを思い出す。花娘の真似事をさせられて、尚隆が妓楼に行きながら花娘を抱かないこともある、と悟ったのだろう。男女の機微にとことん鈍い伴侶にそうと気づかせた女将の手腕は見事だった。
「珍しい質問だな」
「そうかな?」
笑みを浮かべてそう言うと、伴侶は小首を傾げて尚隆の顔を覗きこんだ。真っ直ぐに見つめる翠玉の瞳を見返して問うてみる。
「答えを知りたいか?」
「うん」
素直に頷く伴侶は可愛らしい。尚隆はにやりと笑っていつもは言わない本音を口にした。
「──お前の悋気を見たいからだ、と言ったどうする?」
「私が焼餅を焼いたら、もう行かないわけ?」
「そうだ、と言ったら?」
瞠目した伴侶は即座に訊き返す。尚隆は表情を変えることなく問いを重ねた。率直に真実を告げただけなのに、伴侶はますます目を見開く。落ちてきそうな大きな瞳を見ると、笑いが込み上げてきた。
「そんなに驚くことでもなかろう?」
物事に動じることがなくなった伴侶を困らせたくて策を弄した。妓楼通いは尚隆にとって謀の手段のひとつに過ぎないのに。尚隆は低く笑って伴侶の返しを待った。
「──無理しなくていいよ」
やがて、微かに囁いた伴侶は、透き通った美しい笑みを見せた。そのままゆっくりと腕を伸ばし、尚隆の首に絡める。
やはり、本音が伝わることはない。
苦笑を零し、尚隆は華奢な身体を抱きしめる。伴侶はそれ以上何も言わずに尚隆に身を委ねた。
陽子を伴侶と定めてからも、他の女をこの腕に抱くことは多々あった。それを悪いと思ったことはない。が、伴侶に告げる気はなかった。
悠久の時を生きる尚隆にとって、その身に時を刻む者は眩しく愛おしい。風漢と名乗り、有限の生を営む女を愛でる時間は、終わりなき道を歩む尚隆の心を癒した。しかしそれは、同じく悠久の時を共に渡っていく伴侶に抱く想いとは別物だった。
鮮烈な紅の女王。悩みながら、それでも常に前を向き、王の道を切り開く伴侶を、いつも見守ってきた。支えてきたつもりだった。その成長を嬉しくも思っていた。しかし──。
いつしか伴侶はその小さな手で尚隆を抱きしめるようになっていた。尚隆を赦し、受け入れる女は伴侶だけ。時を経るにつれてその想いは強くなり、今や他の女は手段に過ぎないのだ。伴侶の問いは、尚隆にそれを思い知らせるものだった。
「──難儀な女だな」
密やかに囁いた。目を閉じていた伴侶が静かに顔を上げる。開かれた瞳に映っているのは、苦笑を浮かべた己の顔。
お前はどんどん大きくなる。そうして俺を包み、甘やかす──。
尚隆は何か言おうとする伴侶の朱唇に口づけを落とす。
今は何も言わずともよい。このまま傍にいてくれればそれでよい。いつか、互いの道が分かたれるまで、ずっと。
唇に想いを託す。伴侶は微笑を浮かべ、目を閉じて尚隆を受け入れた。
2011.10.04.
中編「謀事」最終回をお届いたしました。
こんなふうに連作「包容」@夜話(本館)に続いていくように思います。
尚隆をかっこよく書いて上げられませんでした。
これでも尚隆至上主義なのですが……(苦笑)。どうぞお許しくださいませ。
Iさま、リクエストありがとうございました。
2011.10.04. 速世未生 記
- 御題其の百二十七「風の止まり木」
陽子に『なぜ妓楼に行くのか』と問われた後の尚隆の心の内をお願いします。