謀 事 (2)
* * * 3 * * *
「それはご苦労だったな」
一人で迎えに来た挙句、花娘として尚隆をもてなす羽目に陥った気の毒な伴侶。尚隆は一言労って呵々大笑する。緊張して見守っていたらしい花娘たちも一斉に笑いさざめいた。尚隆はそのまま伴侶を隣に坐らせる。そして眉根を寄せる伴侶の前に酒杯を差し出した。
「何の真似ですか?」
「今宵のお前は俺をもてなす役目を担っているのだろう?」
「──私は迎えに来ただけですよ。勝手に決められては困ります」
硬い声で問う伴侶に、尚隆は悪びれることなく応えを返す。伴侶は横を向き、嫌そうに答えた。そんなときだ。
「賭けはわたくしの勝ちですわね」
間髪を容れず女将が口を挟む。周りの花娘たちも次々と肯定の声を上げた。伴侶は微かに顔を蹙め、女将の顔を見つめる。事情を知らない尚隆は、黙して成り行きを見守った。
「風漢さまには、大いにお楽しみのご様子。わたくしも嬉しゅうございます」
「なかなか気の利く余興だったな、女将」
女将に水を向けられて、尚隆は破顔する。女将がどうやって伴侶を花娘に仕立て上げたのか、賭けとはいったい何のことか、興味は尽きることがない。この女将は意表をついて人を楽しませることが巧いのだ。
「今宵は、風漢さま専属の翡翠としてお傍に侍っていただくことにいたしますわ」
尚隆の興を確かめて、女将は軽く頷く。そして、文句のつけようがない笑みを以て伴侶に宣した。
「え──」
伴侶は虚を衝かれて瞠目した。女将の声に呼応して、その場は拍手と歓声に包まれる。女将の合図を受けた花娘たちが、次々と立ち上がり、伴侶の前に酒瓶や膳を運んだ。伴侶の狼狽ぶりは見ているだけで楽しかった。
「というわけだ、翡翠」
尚隆は満面に笑みを浮かべ、伴侶に酒杯を差し出した。今宵の伴侶は尚隆専属の花娘、翡翠。ならば、精一杯もてなしてもらう。伴侶は恨めしげに尚隆を見つめ、深く長い溜息をついた。
「あなたというひとは……」
「あいにく俺は困らぬからな。困るのはお前だろう」
お終いまで言わせることなくそう言い放つ。伴侶はそれ以上何も言わず、酒瓶を手に取った。杯に酒が満たされると、歓声が沸き起こる。尚隆は杯を乾かし、にやりと笑って伴侶を見つめた。
「翡翠、お前も付き合え」
「私に拒否権はないようですね」
「飲み干せとは言わぬよ」
「せめてもの情けですか」
近くにいた花娘から酒杯を受け取った伴侶は、不機嫌な応えを返す。憎まれ口を叩きながらも拒む様子を見せない伴侶に笑いかけ、尚隆は酒杯に酒を満たした。伴侶は一口飲んで卓子に杯を置き、大きく嘆息する。
「あなたの酔狂にはいつも振り回されるけれど、今回は一段と酷い」
「酔狂とはお言葉だな」
軽く笑いながら次の一杯を所望する。伴侶は思い切り顔を蹙めた。それでも尚隆が差し出した杯を酒を注ぎ、素っ気なく問う。
「酔狂でなければ何ですか」
「謀だ」
素直に答えてやると、周囲の花娘たちがどっと沸いた。伴侶は目を見張る。それから黙して肩を竦めた。尚隆は破顔して種明かしをする。
「今宵の迎えは一人のはずだ、と女将に告げたのだ。だが、誰も来ていないと返されてな。そんなはずはない、と思っていたのだが。そうしたら、お前が花娘の姿で現れた」
「女将は、あなたが私に気づくだろうと言いましたよ」
溜息をつきつつ、伴侶も己の事情を明かす。成程、尚隆が己の伴侶に気づかないと思ったわけか。強かな女将との珍妙な遣り取りが目に浮かぶ。相変わらずの鈍さに、少し意地悪をしてみたくなる。尚隆は唇を歪めて続けた。
「それで、賭けは勝ちだと言ったのか。巧いな」
「どういうことです?」
「俺が気づかなければそのまま宴は続き、気づけば俺をお前に任せるつもりだったのだろう。そうだな、女将」
伴侶は柳眉を顰める。尚隆は女将の意図を解き明かし、同意を求めた。無論、女将は答えない。ただ妖艶な笑みを見せるのみ。それは肯定ととってよいだろう。伴侶には尤もらしいことを言っておきながら、女将の思惑は違うところにある。そしてそれは尚隆の意に適っていた。
「ひとつ教えてやろうか」
口を開きかけた伴侶を制して言葉を続ける。伴侶は眉根を寄せた。警戒も露わな目で尚隆を見つめる伴侶に、尚隆はにやりと笑いかけた。
「──俺は、存外に好みが煩いようだぞ。少なくとも、女将が頭を悩ますほどにはな」
花娘たちはどっと笑いさざめいた。目配せをする必要もない。この女将なら、充分過ぎるほどに尚隆の意向を理解することだろう。案に違わず、女将はすっと立ち上がった。それを合図に、侍っていた花娘たちがまるで潮が引くように下がっていく。伴侶はその様を呆然と見つめていた。
* * * 4 * * *
「風漢さま、どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ」
「そうさせてもらおう」
最後の一人となった女将が、扉の前で深々と頭を下げる。尚隆は片手を挙げてそれに応え、笑みを向けて女将を見送った。
「──もう、何が何やら分からない」
目を見張って絶句していた伴侶が、本日何度か目の深い溜息をつきながらぼやく。扉がきっちり閉められ、二人きりにされてもまだ気づかない鈍さに感心しつつ、尚隆は呆れた声を上げてみせる。
「教えてやったではないか。賭けは女将の口実だと」
「口実?」
伴侶は無邪気に小首を傾げた。その問いに答える気はない。にやりと笑いかけると、伴侶の頬が怒りに染まった。尚隆は怒声を上げるために開かれた伴侶の朱唇を指で塞ぐ。
「どの道、ここにしばらく居座ることになるだろう」
お前は俎上の魚だ、とばかりに伴侶を抱き寄せる。そこまでされて、漸く己の置かれた状況を理解したらしい伴侶が瞠目した。
「私は迎えに来ただけだって言っただろう!」
そう叫んで身を捩る伴侶を逃げられぬように抱きすくめた。そう、今宵の伴侶は尚隆専属の翡翠。もてなしの終いは身を以て、が定説だろう。そのために他の花娘を全て下がらせたのだ。
「お前は俺を任されたのだぞ。最後まで責任を持ってもてなせ」
「滅茶苦茶なことを……」
未だ抗う伴侶の朱唇を今度は口づけで封じる。羞じらうことはあっても拒むことのない伴侶の抵抗は新鮮だ。しかも、今その身に纏っているのは、扇情的な花娘の衣装。
「あまり俺を煽るなと言ったはずだが。この恰好は脱がしてみたくなる」
伴侶の耳朶にそう囁いて、露になった細い肩に後ろから唇をつける。伴侶は息を呑み、小さく喘いだ。身動ぐ度に開けてゆく衣服の中に手を差しこみ、素肌の感触を楽しむ。華奢な身体はその愛撫に敏感に反応した。しかし、身を震わせ、目を閉じた伴侶は静かに涙を零す。尚隆ははっとして手を止めた。
「──嫌か?」
伴侶は答えない。涙を恥じてのことか、それとも別な理由なのか。尚隆にはどちらとも判断できなかった。
泣かせるつもりなどなかったのに。
苦笑を浮かべ、わななく身体をそっと反転させる。零れた涙を唇で拭うと、伴侶は潤んだ眼で尚隆を睨めつけた。
「──二人で謀るなんて」
「共謀したわけではないぞ。俺は策を巡らせただけだし、女将は上客の要望を察してそれに応えただけだ」
「──嘘」
伴侶は小さく呟いた。翠の瞳にまた涙が滲む。尚隆は深く嘆息した。悪ふざけもここまでだ。嫌がられてしまっては元も子もない。尚隆は潤む様も美しい翠玉を見つめ返した。
「──俺は存外に好みが煩い、と言ったろう」
伴侶は大きく目を見張った。瞬く度に零れる久方ぶりの涙を丁寧に拭い、半開きの朱唇に口づけを落とす。伴侶は尚も目を見開いたままだった。尚隆は熱を籠めて伴侶を見つめ、甘く囁く。
「──好みの女でなくば、欲しくはない」
そう、他の女など目に入らない。求める女はお前だけ。そして、その翠玉の瞳に映る者は俺ひとりでよい。
甘い吐息を洩らし、伴侶は漸く目を閉じる。熱い口づけに応える伴侶を抱き上げて、尚隆はゆっくりと歩き出した。
次の間の臥牀に華奢な身体を横たえて、花娘に扮した伴侶をまじまじと眺める。艶めかしい衣装に包まれたしなやかな肢体。艶やかな黒い髪に滑らかな白い肌、紅に飾られた唇。そして、まだ少し潤む翠の瞳。
成程、女将が翡翠と名付けるわけも分かる。引き寄せて見つめたくなる美しい瞳を持つ、初々しくも可憐な新入り花娘だ。
「花娘姿のお前など、二度とお目にかかれぬだろうな」
「こんな戯事が何度もあっては困る。襦裙を着ることだってそうないんだよ!」
伴侶は即座にそう返す。唇を尖らせ、頬を膨らませて怒るその様は可愛らしくて、尚隆は笑わずにはいられなかった。
「笑い事じゃないんだからね!」
顔を真っ赤にした伴侶が尚も言い募る。尚隆は破顔した。悠久の時を女王として過ごしてきた伴侶が、外見に見合った少女に見える刹那を心から嬉しく思う。
そう、十六歳で時を止めた武断の女王を、ずっと見守ってきた。この輝ける翠の瞳が深みを増していく様を、感慨深く見つめてきた。そして、くるくると表情を変える素顔の伴侶を、愛おしんできたのだ。
常に傍にいられないからこそ、この距離でこの瞳を覗きこめる。変わりゆき、変わらないこの美しい翠の宝玉を──。
「それでは新入り花娘の味見をさせていただこうか」
そう言い様に、まだ何かを言おうとする伴侶の朱唇を強引に封じた。抗う隙などもう与えはしない。引き寄せて、閉じ込めて、熱く深く口づける。伴侶は力を抜いて細い腕を尚隆の背に回した。
2011.10.01.
中編「謀事」第2回をお送りいたしました。
頭が壊れているように思います。いきなり寒くなったせいだとお思いくださいね。
次でお終いでございます。もう少しお付き合いくださいませ。
2011.10.01. 速世未生 記