戯 事 (1)
* * * 1 * * *
予定通りに禁門に辿り着いた時から、玄英宮は不穏な空気を醸していた。門卒はいつも以上に畏まり、閽人は叩頭して国主ではなく宰輔の執務室へ進むよう告げる。景王陽子は眉根を寄せて官吏たちに頷き返し、宮城に足を踏み入れた。
「何やら物々しい雰囲気ですね」
「──予想はつくけれど」
足許から聞こえる使令の声に端的に答え、陽子はいつものようにひとりで回廊を歩く。宰輔の執務室に近づくにつれて、回廊に佇む侍官の数が増えている。次々に頭を下げるその官吏たちが、陽子の予想の正しさを裏付けていた。
見慣れた延麒六太の執務室の前には、常にはいない小臣が立っている。それは護衛のためなのか、はたまた牽制のためなのか。この様子ではきっと後者に違いない。そう思い、陽子は小さく息をつく。賓客である景王を認めると、小臣は恭しく扉を開けた。
「──尚隆ならいないぜ」
中に入った途端、堂室の主の不機嫌な声が響いた。予想通りの答えながら、改めて聞かされるとどっと疲れが出る。陽子は肩を落とし、深い溜息をついた。
「またですか?」
「申し訳もございません」
国主と宰輔の側近が、拱手して陽子を迎え、陳謝した。そして、苦笑を湛えて説明する。
国主延王は、出奔していた宰輔が帰城すると同時に城を出たのだ、と。
陽子は腕を組み、堆く積まれた書簡に埋もれている六太を睨めつける。
「──まったく。あなたたちは私の仕事をとことん邪魔するおつもりですね」
「そんなこと、あるわけねえだろ。おれは、お前が来る前に、ちゃんと戻ってきたんだからな!」
六太は唾を飛ばして言い立てる。それは、賓客到来時に不在の国主に対するあからさまな非難だった。そんな弁解を聞き、陽子は再び深い溜息をつく。それから、眉根を寄せて問いかけた。
「で、延王はどちらに?」
「案内してやる」
陽子の一言に、六太は嬉しげに筆を置く。喜び勇んで立ち上がる六太を、目付役の側近がにっこりと笑って止めた。
「それには及びません、台輔。居場所だけを教えてくだされば結構ですよ。後は私どもでなんとかいたしますから」
「お前らが行ったって、あの莫迦は戻らねえぞ!」
だからおれが陽子と行く、と六太は言い張る。そして、それを阻止する気が漲る官吏との睨み合いが始まった。陽子は大きく嘆息する。そして、二人の間に割って入った。
「分かりました。場所を教えてください。私が行ってきます」
賓客に使いをさせるわけには、と言い立てる官吏に片手を挙げて、陽子は六太に尚隆の居場所を聞く。六太は大真面目にそれに答えた。思った通りの場所を告げられて、陽子はまたも大きな溜息をつく。官吏は肩身が狭そうに頭を下げた。
「ほんとに一人で行くのか?」
「──延麒。今、この状態では、私が一人で行くしかないでしょう?」
未練がましい六太の問いに、陽子は大きく肩を竦める。延麒六太の側近は恐縮気味に拱手したが、宰輔を貸し出すとは言わない。書卓に積まれた書簡を見つめ、陽子は深く嘆息した。
「あいつなあ、絶対調子に乗ってるぜ」
そんな陽子の気も知らず、書卓に頬杖をついた六太は楽しげに笑う。台輔、と言を阻む側近の声などどこ吹く風で。
「お前に迎えに来てほしいんだ」
「──まったく」
陽子は憎々しげに舌打ちした。気楽に己の考えを述べる六太に思い切り蹙め面を返す。これでは訪問する日時を決める意味がない。というか、教えてほしくば雁まで来い、と日時を指定して呼びつけたのは、尚隆ではなかったか。
陽子が助言を求めると、最近の尚隆はいつもこんな調子なのだ。故に、六太にそう言われても仕方ないと分かっている。だが、やはり気分はあまりよろしくない。時間を作るために、景麒の厭味を乗り越え、浩瀚が差し出す案件の山を片付けてきた。やっとの思いで辿りついてみれば、呼びつけた本人は不在なのだから。
「やっぱり私の仕事を邪魔したいわけなんだ」
「それは、あの莫迦だけだぞ。おれは違うからな」
念のため言っておく、と続け、六太はいかにも楽しげに笑う。台輔、とまた側近が諫める声を上げた。陽子はそっぽを向き、踵を返した。延麒六太はにやりと笑い、片手を挙げる。
「健闘を祈る」
「それ、私が戻るまでに片付けておいてくださいね」
積まれた書簡に指を突きつけてそう言い放ち、景王陽子はお気楽な宰輔に殊更慇懃に頭を下げる。肩を聳やかして執務室を出る陽子を、無論そうさせます、という側近の力強い声が送ったのだった。
陽子は玄英宮の回廊を歩きながら思案する。ここ数回、六太とともに尚隆を迎えに行く度に、状況が悪くなっているような気がする。しかも、今日は、初めて一人で赴くのだ。
そこはかとなく謀の臭いがする。対策を練ってから出向かなければ拙いかもしれない。
「──まったく」
我が伴侶はいったい何を考えているのか。退屈凌ぎの悪戯事なら幾つでも思いつく、ほんとうに質の悪い御仁だ。そして、下手に出るとつけ上がる。
尚隆は、陽子を怒らせたり困らせたりしては楽しむ。そんな尚隆のほくそ笑む顔が、まざまざと胸を過って消えた。
次第に頭に血が昇るのを感じ、陽子はゆっくりと首を振る。冷静にならなければならない。でなければ、またいいように遊ばれてしまう。
「いつもながら困った人だな」
陽子は深く嘆息し、苦笑した。
2009.07.31.
中編「戯事」第1回をお届けいたしました。
拍手連載していた「国主は不在」「国主の捜索」「国主の思惑」「慶主の溜息」を
纏めたものでございます。
書いている内に、例の如くどんどん延びていくので、拍手連載は諦めました。
中身の薄いお話ではございますが、しばらくお付き合いくださいませ。
2009.07.31. 速世未生 記