戯 事 (2)
* * * 2 * * *
玄英宮の禁門を抜け、班渠に騎乗し、陽子は陽の傾いた関弓の街に降りる。行く先は、以前六太と数度訪れた、尚隆の最近の常宿であった。
鮮やかな緑の柱の高楼が立ち並ぶ広途に立つと、我知らず溜息が漏れる。足許から心配そうな声がした。
「──主上」
「大丈夫だ、私ももう子供じゃないよ」
班渠が案じるのも無理はない。昔、伴侶が妓楼通いしている様を目の当たりにし、走ってその場から逃げだしたことがあったのだから。あのときは、妖艶な花娘と貧弱な自分を比べて落ちこんだものだ。けれど。
尚隆は、花娘と陽子を比べて見ることはない。
その身に時を刻む者と、悠久の時を生きる者を同列に置くことはできないだろう。時を止めたまま幾年も過ごしてきた陽子は、もうそれを理解していた。
そして、延王尚隆には、風漢として市井に降りることが必要なのだ。陽子はそれを咎めるつもりはなかった。ただ。
「あのひとはね、私が狼狽えると、余計に面白がるんだ」
腹は立つけれど、それが厳然たる事実。顔を蹙めてそう言うと、班渠は低く笑って賛同を示した。陽子は肩を竦めて歩き出す。そして見覚えのある門の前に立ち、背筋を伸ばした。
深呼吸をしてから中に足を踏み入れる。すぐに女将の愛想のよい声が聞こえた。
「いらっしゃいませ。まあ、今日はおひとりですか?」
女将は少し目を見張った。そう、前に来たときは、少年の姿ながら物慣れた六太が一緒だった。女将が驚くのも無理はない。陽子は曖昧に頷き、硬い声で応えを返した。
「ええ。風漢がここにいると聞いて」
「奥にいらっしゃいますよ。さあどうぞ」
女将はにっこりと笑い、陽子を先導しようとした。陽子はお腹に力を入れて身構えた。
子供に見える六太が一緒にいてさえ、女将は陽子を尚隆の隣に坐らせてもてなそうとするのだ。そして、陽子が困るほど、尚隆は楽しげに花娘をけしかける。六太が呆れて止めるまで騒ぎは続く。
今日は、火消し役の六太がいない。一人でこの場を乗り切らなければならないのだ。陽子は警戒心も露に言葉を返した。
「いや……ここで待たせてもらいたいのだが」
中に入るから、出られなくなるのだ。ならば、最初から入らないに越したことはない。陽子にはそれが一番よい考えのように思えた。しかし、女将は全く頓着しなかった。
「そう仰らずに」
友好的な笑みを浮かべ、女将はゆったりと陽子の腕を取る。そして、少し小首を傾げた。
「あら……」
「──何か?」
陽子は思わず女将に問うた。が、女将はかぶりを振り、いっそう楽しげに笑う。それならそれで、と呟くと、あの、と言いかけた陽子に構わず、ずんずん奥へと進んでいった。
女将は尚隆がいるはずの一番良い房室に着く前に角を曲がり、陽子を小さな房間へと連れこんだ。そして、陽子の頭から爪先までをじっくりと眺め、満足したように大きく頷く。陽子はささやかな抵抗を試みた。
「あ、あの、私は風漢が来るまで待たせてもらいたいだけなのだが……」
「お客さまをお待ちの妓たちががっがりいたしますわ。何故、男装などされているのやら」
陽子の言を遮って、女将は口に手を当てて笑った。そして、婀娜めいた流し目をくれる。そういうことだったのか、と陽子はまたも目を見張った。
確かに、お忍び用の気楽な袍に水禺刀を下げた陽子の姿は、女には見えないだろう。もてなす客が増えたのだと思われても不思議はない。そう納得すると、苦笑が漏れた。
「真相が分かりましたので、本日は趣向を変えてみますわね」
女将はそう言うと、軽く手を叩く。すると、衣擦れの音がして、何人かの花娘が姿を現した。目を輝かせ、ご用は何か、と訊ねる花娘たちに、女将はきびきびと指示を出す。
「さあ、この方を素敵に飾りつけて差し上げて」
「ちょっと待って。いったい何を……」
「少々変装していただくだけですわ。ご心配なさらずに」
「変装って……!」
女将は澄まして答えた。陽子は瞠目し、迫る花娘たちから後退る。花娘は、陽子が掴まれた腕を振り払っただけで、きゃ、と悲鳴を上げた。力が強過ぎただろうか。女性相手の乱闘などしたことがない。力の加減が分かるはずもなかった。
思わず怯む陽子に、娘たちはわっと群がる。たおやかでいて強かな花娘たちに、それ以上抵抗することはできなかった。陽子は、あっという間に取り囲まれ、降伏させられてしまったのだった。
笑いさざめく花娘たちは、楽しげに、しかし速やかに陽子の髪を解き、袍を脱がせた。そして、女将の指導の下に、陽子を飾り立てた。
「さあ、出来上がりましたわ」
「如何でございましょうか」
口々にそう言って、花娘たちは鏡の前に陽子を誘う。己の姿を見せられて、陽子は苦笑を隠せない。
小麦色の肌を化粧で白く見せ、鬘で髪を黒くし、艶かしい衣装を着せられた。けれど、本業の花娘のような色気は全く感じられない。
これでは、変装ではなく、仮装だ。
時折、祥瓊や雁の女官に襦裙を着付けられることがある。が、ここまで姿を変えられたことはなかった。尚隆が気づくはずはない。自嘲気味に小さく溜息をつくと、女将が楽しげに笑った。
「きっと、風漢さまは、お気づきになると思いますわ」
「──何故そう思う?」
確信をもった女将の言に、陽子は眉を顰めて問うた。女将は自信ありげに応えを返す。
「勘、ですわ」
聞いて陽子は肩を竦める。勘など、眉唾もいいところだ。どこにいても目立つと言われる髪の色を変えれば、かなり印象が違う。鏡に映る己の姿は、陽子本人が見ても別人のように見えるのだ。
「信じられないな」
「まあ。それでは、わたくしと賭けをいたしませんか?」
女将は大仰に驚く真似をし、ひとつ提案をした。陽子は振り返って女将を見た。
「賭け?」
「ええ。風漢さまがお気づきにならなかったら、すぐにお客さまと風漢さまを解放して差し上げますわ。けれど、お気づきになったら……」
そう言って、女将は妖艶な笑みを見せた。いったい何を言うつもりだろう。身構える陽子に、女将は楽しげに続ける。
「わたくしにお付き合いくださいませね」
「──きっと気づかないよ」
陽子は首を横に振る。そしてまた、鏡に花娘の仮装をした己を映し、小さく呟いた。同じく鏡に映った女将はにっこりと笑っている。しかし、それ以上何も言わなかった。
「さあ、そろそろ夕餉の膳を運ぶ刻限ですよ」
女将は花娘たちに向き直って手を叩く。娘たちは、はあい、と声を揃えて房間を出ていった。それを見送って、女将は陽子に目を向ける。
「お客さまもあの妓たちと宴に膳を運んでくださいませ。そうお時間は取らせませんわ」
きっとすぐにお気づきになると思いますから、と続け、女将は笑う。陽子は憮然と切り返した。
「気づかなかったら?」
「そのときは鬘を取って差し上げます」
笑みを湛えて即答する女将に、陽子は深い溜息をついて頷くのみだった。
2009.08.04.
中編「戯事」第2回をお送りいたしました。
書いている内に、どんどん陽子主上が可哀想な目に……。
相変わらず中身の薄いお話ではございますが、もうしばらくお付き合いくださいませ。
2009.08.04. 速世未生 記