戯 事 (最終回)
* * * 4 * * *
衆目が集まる中、陽子は溜息とともに酒瓶を手に取る。差し出された尚隆の酒杯に酒を注ぐと、喝采が沸き起こった。尚隆は楽しげに杯を乾かす。そして、不穏な笑みを見せた。
「翡翠、お前も付き合え」
尚隆の言葉を受けて、傍にいた花娘が陽子に酒杯を差し出す。陽子は杯を受け取って嘆息した。
「私に拒否権はないようですね」
「飲み干せとは言わぬよ」
「せめてもの情けですか」
陽子は憎まれ口を返した。それを笑って聞き流し、尚隆は陽子の酒杯に酒を満たす。陽子は杯に申し訳程度に口をつけ、卓の上に置いた。
「あなたの酔狂にはいつも振り回されるけれど、今回は一段と酷い」
「酔狂とはお言葉だな」
溜息混じりの恨み言を聞き、尚隆は軽く笑う。そしてまた、酒杯を差し出した。陽子は顔を蹙め、杯に酒を注ぎながら問う。
「酔狂でなければ何ですか」
「謀だ」
尚隆の応えは簡潔だった。周囲の花娘が一斉に囃し立てる。陽子は返す言葉を失って肩を竦めた。尚隆は楽しげに語り出す。
「今宵の迎えは一人のはずだ、と女将に告げたのだ。だが、誰も来ていないと返されてな。そんなはずはない、と思っていたのだが」
そうしたらお前が花娘の姿で現れた、と尚隆は悪びれずに続けた。陽子は大きく溜息をつく。
「女将は、あなたが私に気づくだろうと言いましたよ」
「それで、賭けは勝ちだと言ったのか。巧いな」
「どういうことです?」
「俺が気づかなければそのまま宴は続き、気づけば俺をお前に任せるつもりだったのだろう。そうだな、女将」
女将は尚隆の問いには答えず、妖艶な笑みを見せるのみ。尚隆が気づかなければ鬘を取ってくれるはずだったのに。陽子がそう言う前に、尚隆が口を開いた。
「ひとつ教えてやろうか」
尚隆はにやりと笑う。陽子は眉根を寄せた。今度は何を企んでいるのだろう。身を硬くすると、尚隆は楽しげに笑って続けた。
「──俺は、存外に好みが煩いようだぞ」
女将が頭を悩ますほどにはな、と尚隆は言葉を結ぶ。すると、賑やかしい場に更に笑いが満ちた。そして、女将がすっと立ち上がる。それを合図に、花娘たちは優雅に拱手をし、潮が引くように下がっていった。
「風漢さま、どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ」
「そうさせてもらおう」
最後の花娘が下がった後、女将は深々と頭を下げた。尚隆は片手を挙げてそれに応える。後に残された陽子は、わけが分からぬまま目を見張るばかりであった。
「──もう、何が何やら分からない」
「教えてやったではないか。賭けは女将の口実だと」
「口実?」
陽子のぼやきに尚隆は呆れ声を上げる。陽子は首を傾げた。尚隆はにやにやと笑い、その問いに答えようとはしない。陽子は無性に腹が立ってきた。しかし、陽子が怒声を上げる前に、尚隆は指で陽子の唇を塞いだ。
「どの道、ここにしばらく居座ることになるだろう」
そう続けて、尚隆は陽子を引き寄せる。二人きりにされたわけを今更ながら悟り、陽子は瞠目した。抗おうと伸ばした手を簡単に押さえられ、小さく叫ぶ。
「私は迎えに来ただけだって言っただろう!」
「お前は俺を任されたのだぞ。最後まで責任を持ってもてなせ」
「滅茶苦茶なことを……」
唇で口を封じられ、抗議を言い終えることはできなかった。そして、尚隆の強い手は、難なく陽子の身体を搦めとる。
「あまり俺を煽るなと言ったはずだが」
この恰好は脱がしてみたくなる、と尚隆は耳許で囁く。確かに花娘の衣装は脱がせやすい構造になっているらしい。身を捩って抗うと、呆気なく両肩から背中が開けてしまっていた。
露にされた素肌を、熱い唇がなぞっていく。陽子は思わず息を呑み、小さく喘いだ。後ろから回された手が、それに応じてゆっくりと動かされる。
身体の芯が熱くなっていく。そして、陽子を拘束する男はそれを望んでいる。陽子の身体を知り尽くす指は、容赦なく攻めてくる。その刺激に耐えられず、陽子は息を止め、目を閉じた。
──こんなはずではなかった。こんなつもりではなかった。どうして。何を謀る必要があるのか。陽子はいつも尚隆のものなのに。離れていても、悔しくなるくらいに、己の伴侶に囚われているというのに──。
口に出せない言葉が、涙となって溢れていく。陽子は声なく身を震わせた。束の間、尚隆は手を止める。そして、低く問うた。
「──嫌か?」
その問いに答えることはできなかった。そっと前を向かされる。苦笑を浮かべた唇が零れた涙を拭った。陽子は潤んだ目で尚隆を睨めつける。
「──二人で謀るなんて」
「共謀したわけではないぞ」
尚隆は謀を巡らしただけ。そして、女将は上客の要望を察し、それに応えただけ。尚隆は苦笑したままそう言い訳をした。嘘、と小さく呟く。尚隆は深い溜息をついた。
「──俺は存外に好みが煩い、と言ったろう」
聞いて陽子は目を見張る。瞬きをすると、また、涙が零れた。尚隆は愛おしげにその涙を拭い、陽子の唇を求める。陽子は伴侶の熱の籠った双眸に思わず見入った。
「──好みの女でなくば、欲しくはない」
微かな声が聞こえる。陽子を求める伴侶の、甘く切ない声が。陽子はとうとう屈した。目を閉じると、熱い唇が落ちてきた。口づけに応えると、身体が浮いた。
陽子を抱き上げた尚隆は、ゆっくりと次の間へ向かう。そして、臥牀に横たえた陽子をじっくりと眺めた。
「花娘姿のお前など、二度とお目にかかれぬだろうな」
「こんな戯事が何度もあっては困る」
襦裙を纏うことすら稀なのだ。頬を膨らませて即答すると、尚隆は呵々大笑した。
「それでは新入り花娘の味見をさせていただこうか」
今度は抗議をする間を与えてもらえなかった。熱く深い口づけが、陽子の理性を奪い去っていった。
夜が明ける頃に目が覚めた。陽子を抱く伴侶はまだ眠っている。その寝顔を見やり、陽子はふと唇を緩めた。
悠久の時を過ごしてきたはずのこのひとが、子供のように見えることがある。時に埒もない我儘を言い、小狡い謀を巡らす尚隆。仕様もない悪たれだが、どうも憎めない。苦笑を浮かべて見つめていると、目を開けた尚隆が、陽子の唇を啄ばんだ。
「──門が開く。帰るよ」
陽子は口づけが深くなる前に断じる。尚隆は大きな溜息をつきつつも頷いた。
「──どんな顔をしていいか分からない」
着てきた袍を着こみ、髪を結びながら、陽子は嘆息した。尚隆は意地の悪い笑みを見せる。
「普通にしていればよかろう」
お手の物だろう、と続け、尚隆は低く笑う。陽子は顔を蹙めて首を振った。知らぬ者を欺く術ならば心得ている。けれど、誰もが何が起きたか分かっているこの状況下で平静を保つことは難しい。
「お気楽な人だ」
「お前が固過ぎるのだ」
陽子は仏頂面のまま、昨日着せられた花娘の衣装を几帳面に畳む。そして、くつくつ笑う尚隆の後について房室を出た。
辺りはしんと静まり返っていた。こんなに早くここを出たことはない、と尚隆は嘆息する。陽子は聞こえない振りをした。そんなとき。
「風漢さま」
「世話になったな、女将」
早朝だというのに、女将は律儀に二人の見送りに立つ。待ち構えていたのだろうか。陽子は密かに溜息をついた。
「どうぞまたいらしてくださいね」
女将は陽子に顔を向け、にっこりと笑む。陽子は何と答えてよいか分からず俯いた。すると、女将は楽しげに耳打ちした。
「風漢さまのお好みは翡翠のようですから、いらしていただけると助かります」
陽子は思わず女将の顔を凝視した。女将はしたり顔で頷く。陽子は頬に血が昇っていくのを感じた。尚隆が不思議そうに陽子を覗きこむ。
「どうした?」
「あなたの好みは変わってるんだと思うよ」
真っ赤な顔でそう返すと、尚隆は吹き出した。そうして、陽子の肩を抱いて囁いた。
「お前といると、ほんとうに退屈することがない」
「風漢さまは、やはりお目が高いようですわね」
女将がそれを受けて楽しげに笑う。では、と片手を挙げ、尚隆は陽子の肩を抱いたまま妓楼を出た。
広途に出ると、身体の力が抜けた。強かな妓楼の女将と対峙するのは、かなり疲れることのようだ。大きく嘆息すると、尚隆がにやりと笑った。
「疲れたか?」
「誰かのお蔭で、とても」
陽子は仏頂面で言い返す。尚隆はしてやったりというように呵々大笑した。
「市井の者は逞しいだろう?」
「──そうだね」
陽子が頷くと、尚隆は満足そうな笑みを浮かべた。悠久の時を生きる者は、その身に時を刻む者の輝きに魅せられて已まないのだ、と思う。尚隆が身を窶して風漢を名乗るわけが分かったような気がして、陽子は微笑する。しかし──。
「また来ような」
「こんな戯事に何度も付き合う気はないよ」
陽子は懲りない伴侶に蹙め面を向ける。口ではそう返しながらも、陽子はまた尚隆の気紛れに振り回されてしまうのだろう。そう思い、陽子は深い溜息をつく。尚隆は悪戯小僧のような笑みを見せた。
2009.08.26.
中編「戯事」最終回をお届けいたしました。
久々に楽しく書くことができた作品でございます。
こうやって陽子主上は「包容」の域に達していくのだな、と感慨深く思います。
中身の薄いお話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
2009.08.26. 速世未生 記