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戯 事ざれごと (3)

* * *  3  * * *

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 鏡に映る己の姿を見つめ、深く嘆息する。花娘の仮装をさせられた鏡の中の陽子は、情けない貌をしていた。
 やはり、ひとりで来たのは無謀だったようだ。雁の官に嫌がられても、六太に同行してもらうべきだった。が、今更そう思ってももう遅い。
 再び溜息をつくと、女将が楽しそうに笑った。陽子は恨めしげに女将を見返す。それでも、女将は全く動じない。我が伴侶がこの店を気に入るわけだ、と納得し、陽子は肩を竦めた。
「さあ、ついていらして」
 にこやかな笑みを浮かべ、女将は陽子を先導する。陽子は無駄な抵抗を諦めた。尚隆を玄英宮に連れ帰らなければ、陽子の仕事は進まないのだ。陽子は女将の言葉に大人しく従った。

 尚隆がいるという房室の前で待つと、膳を持った花娘たちが現れた。女将は花娘と陽子に細かく指示を出し、膳のひとつを陽子に持たせた。
「ああ、名前が必要ですわね」
 不意に女将はそう呟いて、陽子をじっくりと眺める。そして、にっこりと笑って言った。
「今宵は、翡翠、とお名乗りくださいませ」
「ヒスイ?」
「宝玉の翡翠です。綺麗な瞳にお似合いですわ」
 慶では目立つ髪の色から赤子と名付けられた。なるほど、髪を隠すと今度は瞳の翠が注目されるのか。兎にも角にも、この場限りの名だ。陽子はそう思い、黙して頷いた。
「まいりましょう」
 女将のその声に頭を下げ、若い花娘が扉を開ける。女将が最初に室内に入り、尚隆に向けて恭しく拱手した。
「夕餉をお持ちいたしました」
 女将は朗々とした声で口上を述べる。皆の視線が集まる中、女将はゆっくりとした足取りで、雅やかに尚隆の許へと進んでいった。
 女将の後ろにいた花娘が、やはり恭しく頭を下げ、中へ入っていく。花娘たちは次々とそれに従った。陽子もまた、女将の指示通りに、しずしずと房室に入っていった。

 花娘たちは軽やかに歩んでいく。慣れぬ衣装を着せられた陽子は、前を行く花娘に遅れないよう、裾を踏まないよう気を付けなければならなかった。
 膳を置いた花娘は優雅に拱手し、所定の位置に腰を下ろしていく。前の花娘に倣い、陽子も膳を大卓に置き、ぎこちなく拱手した。
 顔を上げると、風漢のなりをした尚隆が、花娘を十人ばかり侍らせているのが見えた。相変わらずのその様子に、陽子は少し唇を緩める。それから、己も前の花娘の後に並び、所定の位置につき、再び頭を下げた。そのとき。

「──こちらへ」

 明朗な男の声がした。俯いていた陽子を、隣にいる花娘がそっと突く。慌てて顔を上げると、尚隆が陽子を見つめ、手招きをしていた。尚隆の後ろでは、女将が満面の笑みを湛えて立っている。
「翡翠、お召しですよ。こちらへいらっしゃい」
 女将もまた陽子を差し招く。驚きのあまり、心臓が口から飛び出そうだった。陽子は思わず口許に手を当てる。目を見張って小さく首を横に振ると、女将はにこやかに笑い、再び陽子を招いた。尚隆もまた破顔し、女将を見上げる。
「ほう、ヒスイというのか」
「ええ、翡翠のような美しい瞳をしておりますのよ。どうぞお近くでご覧くださいませ」
 笑みを湛えた女将が楽しげに答える。陽子はますます狼狽えた。そんな陽子を、花娘が更に促す。陽子は観念して立ち上がった。
 ゆっくりと歩き、尚隆の手前に立ち止まって拱手する。我知らず手が震え、鼓動が速まった。これではまるで小娘のよう。それが腹立たしくもあり、可笑しくもあった。けれど、千々に乱れる陽子の心の内を占める大きな思いは。

 気づくはずがない──。

 不意に強い腕に引き寄せられる。息を呑む陽子の頤を、尚隆が優しく掬い上げた。笑みを湛える双眸がじっと陽子を見つめる。
 心のままに振舞いながら、強引過ぎないその手。このひとは、どこにいても変わらないのだ、と思う。そんな陽子の耳に低い笑い声が響いた。

「──そんな恰好で何をしておるのだ?」

 虚を突かれ、陽子は何度も瞬きを繰り返した。陽子を覗きこむ尚隆の瞳は楽しげな光を浮かべている。まさか気づかれるとは思わなかった。陽子は苦笑を浮かべて応えを返した。
「──あなたを迎えに来ただけのはずだったのですが」
「それはご苦労だったな」
 そう言って尚隆は呵々大笑する。息を詰めて見守っていたらしい花娘たちも一斉に笑いさざめいた。そのまま陽子を隣に坐らせて、尚隆は堂々と酒杯を差し出す。陽子は眉根を寄せて問うた。
「何の真似ですか?」
「今宵のお前は俺をもてなす役目を担っているのだろう?」
 尚隆は悪びれない。それどころか、狡猾な貌をして問うてくる。陽子はぷいと横を向き、硬い声で応えを返した。
「──私は迎えに来ただけですよ。勝手に決められては困ります」

「賭けはわたくしの勝ちですわね」

 間髪を容れず女将が口を挟む。陽子と女将の会話を聞いていた花娘たちも次々と肯定の声を上げた。
 確かに、陽子は女将と賭けをした。確かに、女将の言ったとおり、尚隆は直ぐに陽子に気づいた。しかし、そんなはずはない、と思っていたから、賭けのことは陽子の念頭から消えていたのだ。

 女将はいったい何を要求するつもりだろう。

 陽子は眉を顰め、身構える。そして、黙して女将を睨めつけた。女将はそんな陽子に笑みを返し、おもむろに尚隆に視線を移す。
「風漢さまには、大いにお楽しみのご様子。わたくしも嬉しゅうございます」
「なかなか気の利く余興だったな、女将」
 尚隆は相好を崩す。そんな上客に頷き返し、女将は陽子に笑みを向けて言った。

「今宵は、風漢さま専属の翡翠としてお傍に侍っていただくことにいたしますわ」

「え──」
 陽子は目を見張る。その場が大きな歓声と拍手に包まれた。そして、女将の合図を受けた花娘が、陽子の前に酒瓶や膳を運んだ。
「というわけだ、翡翠」
 尚隆は満面に笑みを湛え、再び酒杯を差し出す。陽子は恨めしげに尚隆を見つめ、深く嘆息した。
「あなたというひとは……」
「あいにく俺は困らぬからな」

 困るのはお前だろう、と尚隆はいつにも増して人の悪い貌をした。

2009.08.12.
 中編「戯事」第3回をお送りいたしました。
 一部お気づきの方もいらっしゃいましたが、この「戯事」は「常世語のお題(尚陽編)」より 「化粧の濃い花娘」を膨らませたお話でございました。 以前、「続きを気長にお待ちします」とおっしゃってくださった方、お待たせいたしました!  お待たせし過ぎてもういらしてないかもしれませんが……。
 次で終われると思います。もう少々お付き合いくださいませ。

2009.08.12. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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