「帰山で十題」其の七
次男三男
つくしさま
2015/09/10(Thu) 16:28 No.22
「ねぇ、風漢? 蓬莱の名前って〈字〉はないの?」
奏国国境に近い巧国の寂れた宿屋の一室で杯に酒を注ぎながら利広が尋ねた。
日暮れも近づき、今宵の宿を探そうとすう虞を引いて道を歩いていると、向かいの宿の二階の窓から聞き覚えのある声が己の偽名を呼ぶ。
呑気に手を振るその男に苦笑を浮かべながら風漢は片手を上げた。
「ここ、厩もしっかりしてるし、酒も美味いよ。風漢もどうだい?」
夕食後、風漢がとった部屋に酒を頼んで二人で飲んでいると、急に利広が尋ねた。
「ねぇ、風漢? 蓬莱の名前って〈字〉はないの?」
「そうだな・・・昔の学者や公家などにはあったようだが、普通はないな」
「じゃぁ、姓・名があるだけ?」
「あぁ、今はな。だが、俺が居た頃には一般の民には姓は無く名だけだった。だから、六太はただの六太だ。姓があるのは支配階級である武家や公家か、何か功績があって姓を賜った者だけだった。名も支配階級の男の場合は、生まれてすぐつける〈幼名〉と、元服の際につける〈烏帽子名〉があった。」
「元服って?」
「大人になったってことさ。大体11〜16歳位の間に元服式をやり、その際に烏帽子名を貰う。」
「ふ〜ん・・・じゃぁ、風漢は〈幼名〉あったの?」
「あぁ、三郎といった」
「何か意味がある名前?」
「いや、単に三番目の息子ってだけだろうな。兄が二人いたから・・・」風漢の声が僅かに強張る。
「ところでお前はなんでここに居るんだ? わざわざ泊まらずとも家はすぐそこだろうが!」杯に酒を継ぎ足しながら風漢が問う。
「そうなんだけどねぇ〜」とばつが悪そうに杯を空ける利広。
「実はね、今回は西の方をぐるっと回って、昨日家に帰ったんだ。で、何時もの通り窓から入ろうとしたら、声が聞こえて来てさ・・・」
「なんだ? 風来坊をとっちめる話でもしていたか?」
「って言うか・・・羨ましいってさ・・・」
「はぁ? 誰が誰を羨ましいと?」
「兄さんがさ、偶には俺みたいに世間を見て歩きたいって・・・」
「ほう、お前みたいにってか?」風漢が悪戯っぽく片眉を上げる。
利広が窓を潜ろうとした時、隣の部屋から兄・利達の声が聞こえてきた。
「なんで俺ばかりがこんな書類の山に埋もれてなければならんのだ!」
答えるのは妹の文姫。
「しかたないでしょ! 利達兄様は長男なんだから!」
「長男は仕事で、次男は気ままにフラフラして良いって誰が決めたんだ? 俺が出歩いてあいつが書類仕事したってかまわんだろうが!」
「無理よ! ず〜と小さい頃からそうやって育ってきたんだから・・・ 出来の良い長男の下にはああいう次男が育つのよ!」腰に手を当てて文姫が明言する。
「そうか、ではああいう次兄の下だからお前は出来が良いってことか?」
「まあ、そういうことなんでしょうねぇ〜 仕方ないからお土産でも期待してましょ!
手ぶらで帰ってきたらただじゃおかないから!」
「で、土産を買いに巧まで出向いてきたと?」
「いや、慶までちょっとね。で、飛び疲れてちょっと一休みしてたところさ」呑気に杯を傾け笑う利広。
徐に利広は風漢をしげしげと見て言った。
「僕、風漢は長男だとばかり思っていたよ。な〜んだ、三男だったんだねぇ〜」
「なぜ長男だと?」
「だってさぁ、人を使うの上手いじゃない! 留守の間、誰かさんがしっかり仕事してくれているんだろう? でもさぁ、自分の根城にじっとしていられないところは僕に似てるから、そこんところは次男、いや三男ってことなんだろうね!」と片目を瞑って見せる。
「お前と一緒にされたくはないわ! 俺は生まれたのは三番目だが、物心着いた頃には上はいなくなっていたからな、実質長男と変わりなく育ったのだからな。」
「実質は長男でも、本質が三男なんだよ、風漢はさ!」
酒も残り少なくなったので、お前の戯言にはもう付き合えぬと利広を部屋から追い出し、風漢は一人窓辺に寄りかかり下弦の月を眺めた。
三男の彼は本来なら領主となるはずではなかった。しかし、戦乱の世で二人の兄は早くに世を去り、否応なく領地と領民を背負う身となった。
「長男がしっかり者なら次男は風来坊か・・・ 俺もそうなら・・・」
だが、そうであったならば延麒は彼に王気を感じることはなかっただろう。
〈若、若と呼ばれる度に降り積もるものがある〉
「賢い長兄が領主となり、俺が三男のままであったなら、彼らは生き延び、俺はここには居なかったのだろうか?」心の中で月に問いかけた。
細い月はただ静かに中空に浮かんでいた。