宿題の提出
西 方
ネムさま
2016/09/01(Thu) 23:24 No.8
席を外したのは酔い覚ましのため。
「よその王の即位式で、朝から飲んでる奴があるか〜!」
などと、相方の珍しく真っ当な罵声を背に浴びながら、尚隆は賑やかな宴席を後にする。
雲海の上とは言え、秋分を過ぎた戴の風は、微かだが既に冷気を含んでいる。しかし火照った体はその風を求めて、回廊から園林へ、そして路亭を巡りまた回廊へと、自由気儘に動き回る。他国の宮内をこうも自在に歩く王を、虎賁氏が呆れながら追いかけた。
気まぐれに上った階の上は、雲海に面した露台だった。ちょうど日の入りの時刻で、雲海は一面金色に染まっている。光り輝く空間の中、黒々とした人影が佇んでいた。
「…驍宗殿…?」
呟くような尚隆の呼び掛けに、振り向いた人影は、急ぎ膝を付いた。
「これは…延王がお出でとは気が付かず、大変失礼を―」
「いや。そなたは確か禁軍の―」
「はい。右将軍を拝命しております、丈阿選と申します」
尚隆は手振りで丈将軍を立たせ、改めてその姿を見る。
堂々たる体格の、それでいて落ち着いた風貌は、本日即位したばかりの戴王・驍宗に似ている。しかし驍宗が朝焼けのような鮮やかさと勢いを感じさせるのに比べ、この男は―
「何か?」
丈将軍の問いに、尚隆は物思いから覚め、目を外へ転じた。
「見事な夕焼けだな。西に極楽浄土があると言われるのも、これ程素晴らしい光景を見せられたら納得できる」
「…雁では仏を祀られておられるのですか」
「俺は胎果だからな。蓬莱では大概の家が寺に入っているから、生まれた時から仏教徒で、地獄や極楽の話を聞かされている」
そこまで言って、尚隆は驚いた。
「“西の浄土”と言っただけで、よく分かったな。戴には寺は無かったと思うが」
「私の恩師が、そうした事柄を調べるのがお好きだったのです」
柔らかく微笑みながら言う丈将軍の瞳が、ふと揺らいだ。そのまま口を閉じた将軍を見やり、尚隆も何も言わず、暫し無言のまま、二人で黄金の彼方を眺めていた。
やがて空に紅と紫が混じり合う頃、小さな溜息が漏れた。
「浄土は消えた、か」
「どうかな」
自分の呟きに、思いがけず返答があったのに驚き、将軍は顔を上げた。柱にもたれ今だ視線を黄昏る空へ向けながら、尚隆も呟くように言う。
「御仏の黄金の腕に抱かれ、闇へ吸い込まれるように眠れるなら、それこそ“救い”なのではないか」
「…明日の憂えも無く、目覚める時の不安も無く…」
微かな唱和の声に、尚隆は顔を向けた。空は濃い紅に覆われているが、既に光りは無く、露台には闇が広がりつつある。陰になった互いの顔を、見えないままに見合っていた。
やがて声の調子を変え、尚隆は笑いながら言った。
「そろそろ宴に戻らねば、新王に失礼だろう。
将軍も共に来ぬか。驍宗殿も相当に強いが、将軍もそれなりに飲めると踏んだが」
しかし将軍が答える前に、露台の下から声が掛かった。
「…どうやら麾下が呼びに来たようです。残念ですが」
「そうか。ではまたの機会に」
不意に光が射した。手提げの燭台も持って梯を上がって来た兵士は、灯に浮かび上がる二人の貴人の姿に仰天した。
太保が書房へ入って来た時、尚隆は窓から暮れなずむ空を見つめていた。
振り向いて“ご苦労”と声を掛けると、太保は拱手し尋ねた。
「何かご思案中でしたか」
「いや― そうだな。忘れていた酒の約束を思い出した」
隣国の麒麟並みの溜息を吐く太保に、尚隆は笑いながら更に言う。
「あと、どこぞの風来坊に言われたことも思い出した。俺が国を滅ぼす時は、ある日唐突に思い立ち、しかも徹底的にやるそうだ」
「成る程。しかし無理ですな」
一刀両断された尚隆は顔を顰める。
「貴方様なら梟王よりも完璧に雁を滅ぼせるかも知れませぬ。しかし、あまりに余所見が多い」
そして五百年来の忠臣は、書見台に置いた漆塗りの箱を開けた。
「こちらが七か国の王への親書、巧と芳の仮朝へはお知らせだけで良うございましたね。これで宜しければ、御璽をお願い致します」
「…改めて見ると、多いな」
「ご自分で抱えて来られた事です」
太保の言葉に“押し付けられただけだ”と口内だけで言い返し、尚隆は親書を手に取る。
行方不明の泰麒を、常世の国全てが協力し合い探し出すという、嘗てない企ての為、雁では三公を中心とした有司議がもたれ、昼夜を問わずの慎重かつ迅速な打ち合わせの末、まずは各国王への親書が完成した。もちろん今も、太師と太傅は手持ちの官吏を総動員し、今後の対策を練っている。
隣国の年若い王にやり込められた顛末は、とうの昔に相方から彼らに洩れ、盛大な揶揄と文句を浴びせられた尚隆なのだが。
― それでも俺は、この状況を面白がっている ―
手の施しようのない暴虐と、それを打破するための試みと。どちらも自分が考えもしなかったことを実行し、しようとする者達がいる。それに対する多少の嫉妬と、尽きぬ興味。
― 確かに、これほど余所見をしていれば、自国を滅ぼそうなどと考える暇はない ―
苦笑しながら尚隆はまた、黄金の空を背景に佇んでいた影を思い出す。
あの時の不思議な共鳴。
しかし尚隆は今だ現世をうろつき、彼はただひたすらに、あの浄土を目指して行ってしまったのだろうか、と。
― あの時もし、共に飲んでいれば、あの者は別の方を向いたのか。それとも、俺の方が ―
傍らで太保が灯りを増やすよう、下官に命ずる声が聞こえた。尚隆は既に闇が広がる戸外を一瞥すると、灯の下で書面を開いた。