陽光抄
篝さま
2016/09/09(Fri) 22:23 No.45
正直な話、あちらにいた時の姿形がおぼろげなものであったと同様に、今思い起こせば、あの時の記憶も随分とまばらで定かなものではなかった。
それでも、あの笑顔にまた逢いたいと、例えひかり輝く場所ではないかもしれないけれど戻ってきてほしいと願って、決意して、行動を起こしたことに後悔などしていない。
意味が無かったと言われようとも、過ぎ去った時間を取り戻すことなど出来ないのだと解かっていても、己は、己の信じる道を進んだまでなのだ。
*
「廉麟。外がすごく気持ちいいよ。気分転換に散歩でもしないかい?」
この声が、主と慕うべき存在の声が聞こえなくなったら、どれだけ心細いことか。あの幼い稚けない存在はどんな思いをしたのか。自分ならとてもではないが耐えられないとそう思う。
仁重殿の己の居室で書卓に向かっていれば、ふらりと世卓がやって来た。すぐ傍にある榻に腰かけるよう促せば、勝手知ったる何とやらで言われる前に行動していた。廉麟は筆を置き、世卓と向かい合うように体勢を変える。
「ふふ、では少しだけ休憩させて頂きますね」
「少しだけなんて言わないでさ、思いっきり休憩したらいい。そして気持ち良くまた仕事に戻ればいいさ」
「もう、主上ったら。そんなに甘やかさないでくださいませ」
「だって、廉麟。何だか辛そうな顔をしてるよ」
そう言いながら、世卓はこちらに近寄って手を伸ばしてきたかと思えば、軽く指を押し当てて眉間の皺を伸ばすような仕草をする。
額には麒麟にとって大切な角があり、他者に触れられることに嫌悪感を抱くはずなのに、それがない。やはり主は特別なのだろうかと独り言ちれば、世卓の慌てたような声がとんでくる。
「ご、ごめんっ!女の人の身体に勝手に触ったりして」
ほんの少しの間を、拒絶の意と捉えたのか、そのように言う世卓に廉麟は声を上げて笑う。女人の身体云々の前に、麒麟の額には角があり、滅多なことでは何人たりともそこには触れないのが暗黙の了解であった。その付近に触れたことに対する謝罪ではないことに笑いを堪えきれない。
それに、主の気配を身近に感じることができて、厭う気持ちなどさらさらなかったのに、気遣ってくれるその心根が嬉しかった。
「大丈夫ですわ、主上。気になさることなんて何もございません」
「で、でも…。あっ!手はちゃんと洗ってあるよ、大丈夫!」
まるで幼子のように両の掌をこちらにきちんと見せるように向けてくるその仕草に、くすぐったいような何やら面映ゆいものを抱く。
「ええ、大丈夫ですわ」
「…いつぞやは天官長にえらい迷惑かけちゃったからなあ」
火急の用で官吏から呼び出され、慌てて畑から宮に戻ったところ、畑いじりをしていて泥だらけのそのままの状態で宮の床やら柱やらを汚してしまったことは未だ記憶に新しい。
「ええ、あの温厚な方が目を吊り上げるのを初めて拝見しました」
その時のことを思い出して、また一人思い出し笑いをしていれば、優しい瞳をした世卓がこちらを見つめてくる。
「ど、どうかなさいましたか?主上」
思い出し笑いをするのをじっと見られていたかと思うと妙に照れくさく、何事もなかったかのような素振りをしてこちらから問い掛ければ、榻に戻り、すとんと再度腰を落とした世卓が静かに口を開く。
「…やっと笑ってくれたね」
「何をおっしゃいますの?主上。先程だって笑っていたではありませんか」
胸の内を見透かされたような気がして、廉麟は慌てて取り繕うも、世卓はゆるゆると頭を振る。
「何だか、その、上手く言えないけれど、さっきまでのは空元気のような気がしてたんだ。だから笑ってくれて、嬉しい」
「しゅ、じょう……」
それまで耐えに耐えてきたものが堰を切って溢れ出でてきたのを感じた。
国を長らく明け、その間宰輔としての職務もろくに全うすることも出来ず、それだけでも民は勿論のこと、世卓や官吏たちにも多大なる迷惑をかけたであろう。だからせめてもと、見聞きしたことや今後の方針、決定事項はつぶさに報告した。主観を交えずに、あくまでも事務的に。
心情では、もっと泰麒に心砕いてあげたかった。だがしかし、それは、それ以上のことは許されざることであった。
大切な同胞。己と同じ運命を持つ者。
でも、何よりも慈しみ護るべきものは他にあるのだ。
もっと何か出来ることがあったのではないか、せめて帰還した泰麒が目を覚ますまでは残るべきだったのではないか。
そう詮無いことばかり考えてしまい、表には出さないものの鬱々とした日々を過ごしていた。自分自身では上手く誤魔化せていると思っていたし、実際そのような指摘をしてきたのは、世卓が初めてであった。
それを嬉しく思うと同時に、己の不甲斐なさに自己嫌悪に陥る。
しかし、もう、止めた。
「主上。お願いがございます」
これまでの暗澹とした気分を吹っ切るように、廉麟は世卓の瞳をひたりと見据える。その眼差しに迷いはなかった。
「うん?」
「泰麒が泰王を無事お連れしてお戻りになられるという確証もございません」
「そう、だね。うん…」
「私共には待つ以外の術もなく、どうすることも出来ないでしょう。それでも、もし、お二人が無事に戻られたあかつきには、どうか私を戴への使節として派遣しては頂けないでしょうか」
戴と漣の距離を考えれば、労いや言祝ぎの言葉を贈るのに、鸞を使用してのやり取りで充分かもしれない。
けれども、かつて遠路はるばるあの小さな身体で幾つもの国を越えてきてくれた幼き同胞のことを思うと、どうしても自分自身で言葉を伝えたかった。
「…うーん」
てっきり世卓の性格からして、快く送り出してくれるだろうと勝手に期待していたものだから、予想外の反応に「ああ、我が儘が過ぎたか」と自嘲する。慌てて前言撤回をしようとすれば、
「廉麟は褞袍を持っているかい?戴はうんと寒いと聞くし。いや、この国にいれば必要ないものなあ。持っている筈がないよね。うん。急いで誂えてもらわないと。ああ!そうだよ。廉麟に同行してもらう人たちの分も用意してもらわなきゃ」
ああ、ああ。この御方は。
なんと得難く尊い方か。
この方が、私の主で良かったと、心の底からそう思う。
「…ありがとう、ございます。主上」
まなじりに浮かびかけた涙を誤魔化すように手を頬に当てていれば、世卓はそれを見逃さなかった。懐から手巾を取り出し、そっと拭う。
そして廉麟はふと気が付く。
「あら、これは…」
「うん。前に廉麟に貰ったものだよ」
以前、ささやかな、本当にささやかな贈り物をした。己で刺繍を施した手巾を。それを何回も何回も、洗っては使い、洗っては使い、を繰り返したのだろう。布地はくたりとよれ、刺繍は少々綻び、端には若干のほつれが見れた。大切にし、使い込んでくれたことの何よりも証拠であった。
その事実に感極まり、身を震わす。
すると、それを冷え故のものとでも思ったか、先ほどの続きと言わんばかりに「陽ざしは暖かいし、本当に気持ちいいから」と、外へ出ようと強く促してくる。
普段あまり我を通そうとしない世卓にしてみれば珍しいことであり、そのことに疑問を抱きつつも、気持ちの切り替えも必要だと思って、廉麟はようやく腰を浮かし足を扉の方へと向けるのであった。
世卓はまるで幼子が母親の手を引きながら歩くかのように、廉麟の手を引いて外へ連れ出しながら、回廊の道すがらとつとつと語る。
「あのね、身体は資本だと言うし、食べる物もきちんと眠ることも大事なんだと思う。でもね、一番大切なのは日の光をめいっぱい浴びることなんだと思うんだ」
だからさ、と世卓は言い訳をするかのようにもごもごと言う。先程までの強気はどこへやら、もうすっかりいつも通りの世卓であった。
庭院までの回廊を突抜け、地面に一歩足を踏み出して空を見上げれば、一筋の光りが射し込んでいた。
辺りを包み込むかのような柔らかな陽光、身体を撫ぜる爽やかな風、辺りに響き渡る木々の騒めき。
廉麟は全身でそれらを感じ、癒されるような気がして、そして悟る。
自分が随分と、身もそして心も、疲れていたことを。
表立っては言わないものの、世卓もそれに気が付いていたからこそ、先程のような行動に出たのだろうかとふと思うも、もう何も言わなかった。
振り返ったそこには、静かな笑みを湛えてこちらを見つめている世卓がいた。
それだけで、十分であった。
「主上」
「ん?何だい」
「私の休憩に付き合って頂けますか?」
「勿論!」
庭院へと消えていく二人の姿を、周囲の樹々だけが優しく見守っていた。