樹の見る夢
葵さま
2016/09/11(Sun) 16:37 No.66
僕は、7枚目の書類紙。放り投げられたただの紙さ、ペラペラの。
もともとは平凡な楮だった。一心に空を目指してすくすく伸びて、伸びて、そうしていつかはあの紺碧の天に刺さってやろうと思っていた。樹木の見る夢はみんなそうだ――ただあどけなく天を目指す。
隣に生えた子が桃色花火みたいな雌花をつけたので、こいつはいいやと僕は自分の枝先にせっせと白い雄花を咲かせている最中だった、急に斧で切られたのは。すぐに視界が暗転し何もわからなくなった。
次に目覚めたのは仄暗い紙漉き工場の中だ。僕は他の仲間たちと同じサイズにきっちりと採寸され、積み上げられて甍の連なる重厚なお屋敷へと運ばれた。生まれて初めて見る人間の邸だ。どうやら人間という生物はやたらと樹木を殺害する獰猛な種族らしい。まず邸そのものが樹木でできていたし、卓や椅子も木製だ。僕らが置かれた卓の上には御影石の四角い池があって、端に真っ黒い水が溜まっていた。池の土手には変な箒みたいなものが立てかけてある……箒の先も真っ黒だ。
その時、しゅ、と衣擦れの音がして卓に影が落ちた。びっくりして仰ぐと、濃い紫色の衣を着込んだ男がひとり立っていた。後ろに付き従った下官にどうであった、と声をかけると、すかさず紙の束が差し出された。僕は目をまんまるく見開いた。だってそっちの紙の表面にはびっしりと黒い模様が描かれていたんだ。列をなしてきっちり並んだ無数の模様たちは、まるで木にたかる昆虫のようであった。
男は模様だらけの紙束をざっとめくると腰を下ろし、黒い箒を手にとった。そうして真っ白な僕たちを一枚ずつ摘み上げ、さらさらと箒を走らせては奇怪な模様を次々に書いていった。兄弟がどんどん減っていく。男は書くのが速かった。ついに僕の番がきたとき、身震いを止められなかった。いったいどんな模様を書いてもらえるのだろうか……
一模様、二模様、三模様。
……えっ。これで終わり?
なんと。広々と白い僕の体の端っこに三つの模様を書きこんで、男は箒を池の土手に置いてしまった。少なすぎないか。もうちょっと書いてくれよ。
男は先に渡された書類と今自分が書いた書類をまとめ、脇に抱えたかと思うと立ち上がり、いきなり踵を返してずんずんと出て行った。静かなようでいてものすごい速さだ。僕は上から数えて七枚目だったけれど、下から数えたら一枚目だったから、男の指の隙間から邸のぐるりを取り巻く回廊と、その向こうに広がる園林が見ることができた。
夏の終わり、秋の始まりの、あの独特の澄んだ黄金色の空気に満ちている。天は淡い水色で、白い千切れ雲をいっぱいに浮かべていた。園林にはどれも良質の樹種ばかりが品よくひしめいて、どれもが天をめざしている。樹木には木質が粗いものと密なものがあって密な方が折れにくくて見目も美しいが、では粗い方が劣悪かというと決してそうではない。実際、森の主となる巨樹のたぐいは、往々にして体の中にからっぽの洞を抱えている。洞――大きな穴である。体に欠損を抱えることによって、さらに上へ伸びる力を得る。不思議なことである。とりとめなくそんなことを考えているうち、園林はいつしか後景となった。
辿り着いたのはまた別の小さな堂室だった。入室するなり、男は言った。
「なんだ――お前たち、ここにいたのか」
狭い堂室の中には数人の人間が生えていた。もとい、立っていた。雲をつくような大男は、体格とは不釣り合いに悄然と首を縮めているし、すぐ隣に痩せ形だけれども隙のない気配を漂わせた中肉中背の男がいる。最も目を惹いたのは紅葉みたいに真っ赤な髪をした少女であった。まだ若木だ。おそらく雌花もうまく咲かせられないような年頃で、柔らかな新芽の瞳をしている。
なんだかんだと小難しいやりとりが続いた後――ゆっくりならまだわかるけれども、人間の発する音は砂礫みたいで拾うのが時々ひどく難しい――大男は痩せた男に肩を叩かれ、連れだって堂を出ていった。堂内には、僕を小脇にかかえたままの男と紅葉の少女とだけが残された。僕を掴む男の指がさっきから細かく震えているのは何故なのだろう……霜を孕んだ緑葉のようだ。そっと見上げる顔の表情はぴくりとも変わっていないというのに。
「では、説明申し上げます」
いきなりだった。さらりと、何の前触れもなく僕らは側の書卓に放り投げ出されていた。まだ乾ききらない墨の香りが濃く立ち昇った。きっちり重なっていた兄弟たちが斜めにずれた。よし今だ。僕はのしかかる兄弟たちを掻き分け、どうにかこうにか一枚だけ這いずり出ることに成功した。ああ息がしやすいぞ。
続く男の言葉はまさに高速で飛び交う礫の嵐で、とても拾って理解できるものではなかった。第一、第二、第三、第四、第五、第六……と少女に向かって何かの理由を並べたてていく男をぼうっと眺めているうち、そうか、と、なんとなく腑に落ちた。この男の木質はとても緻密で硬いのだ。年輪も重厚で、伸ばした専門知識の枝葉も豊富、ひどく良質で文句のつけようがない優良な樹木である。一方で、紅葉の少女はというと、肝心の幹の中央には無残な洞がぽかりと穿たれている――大きな欠損の痕だ。少女はまだ若木ながら、おそらくいろんなものを失ってこの土地まで辿り着き、ようやく根を張った木なのだろう。欠損はけれども、何か突拍子もない新しいものを生む力を秘めている。からりと乾燥していて、洞の中は心地よい風と光に満ちている。土も水も持たない樹木は、まったく新たな度肝を抜く視点で、生きるすべを自力で創り出すものだ。男はそれを理解している。そうしてそれを守ろうとしているのだ。
言いたいことだけ言い終えると男はあっさりと出て行ってしまった。用済みの僕らは書卓の上に置いてけぼりである。紅葉の少女はひとりで堂に残って、ぼんやりと考え事をしているようだった。手持無沙汰にばらまかれた書類をいじっているうち、ふと僕に指先が触れた。一番下から抜け出した、一枚はぐれた、たった三つの模様しか書かれていない僕。
「……三文字しか書いてない。もったいないな。こんなに白い部分がある、まだ使えるじゃないか」
文字――この模様は文字というものなのか。
そのとたん、どうしたわけか僕は模様の意味をすとんと理解していた。男が少女の欠損を理解していたように、文字は欠損と同じく、ある種の力を生むものなのだということを。
小麦色の指が僕の中に広がる空白を優しく撫で上げて、それから僕は折りたたまれて、胸元の袷に仕舞われた。
それからの数日を僕は少女の私室で過ごした。森と人間の住まいとではだいぶ環境は違うけれども、天を仰ぎ見て暮らすという点ではほぼ共通している。いろんな長さの箒や御影石の池に囲まれた質素な卓の上で、龍の形をした文鎮に敷きこまれたまま、格子窓からのぞく遠く広がる天の色の、その鮮やかな移り変わりをただ眺めて過ごすのだ。森と一緒だった。けれども、僕は漠然とした予感めいたものを空気の中に感じ取っていた――少女は、僕は、おそらくはこのまま穏やかに過ごしていくことはできない。
初秋のある日、未明。
ついにその日が来た。
僕は文鎮の下からおもむろに引っ張りだされた。ついさっきまで旌券の裏に必死の形相で何かを書きつけていた少女は、ようやく完成したらしいそれを見つめ、満足げに僕を広げて、木目に浮いた余分な黒い汁を拭き取ると、金髪の少年に渡した。少年はひとつ頷いてから身軽に園林の木立の中に消えていった。紅葉の少女は頬杖をついて、黒い染みが点々と残った僕を丸めもせず、棄てもせず、しばらく窓から天を眺めていたが、やがてまだたっぷりと黒い汁を吸ったままの箒をおもむろに持ち直した。そうして僕の中の空白に文字を、力のある文字を、たったひとつだけ大きく書きつけた。
――『到』。
求めるところへ、真実へ、あなたが無事に到達しますように。
書き終わると、僕はくるくると見慣れぬ形に折り畳まれ始めた。少女の手が止まった時、驚きとともに、自らの新しい形状を見下していた――樹木ではなく、もはや書類紙ですらない、天翔けるものがそこにいた。僕は翼が生えたものになっていた。
少女は雲海を見下す高楼へと登って行った。手摺に寄りかかって見上げれば、天は漆黒の布のように雲海の上をどこまでも限りなく広がり、すぐ間近にあった。茫漠とした空白に水と空だけが在る。すくすく伸びて、伸びて、あの天に刺さるのがかつての僕の夢だったっけ。
淡い月光を浴びて白く浮かんでいるような露台から、小さく儚げな騎影が二つ、ふいっと飛び立つのが見えた。とたん、少女は腕を思い切り振って、僕を大空めがけて勢いよく放り投げたのだった。
自分でも不思議なことにさほど動揺はしなかった。こうなるような気がしていた。すかさず翼を広げ、気流をつかまえて体を安定させる。そう、文字の意味を何故だか理解したように、僕は今や飛び方を知っている。体の中に広がる空白が、文字が、力を与えてくれているのがわかる。かつて僕は動けなかったが、今ならどこへでも飛んで行ける。目の前を行く二つの騎影もまた、紅葉の少女と同じ類の大いなる欠損を抱えた者達であることもなんとなくわかる。僕はきっと彼らに追いつくだろう。追いついてその荷物の影に潜り込んで、彼らと共に大きな海を渡るだろう。僕は――紙飛行機、と紅葉の少女は僕を呼んだ――彼らの行く末をすべて目に収め、文字にして空白に記録し、紅葉の少女の元へと戻って来よう。それが紅葉の少女の望むことだろうから。
僕は7枚目の書類紙。放り投げられたただの紙さ、ペラペラの。
けれど、いつか天の裏側へ突き抜けてやろう。ただあどけなく天を目指す、そんな樹木の夢を超えてみせよう。
――まずは目の前の二人に追いつくことから。
僕はスピードを上げて夜空を滑って行った。