御題其の七「御伽噺」
琵琶 〜Pipa
縷紅さま
2017/09/22(Fri) 16:12 No.91
荒んだ美女だった。
顔の造りは極上に美しいが、髪も肌も洗い放しで化粧っ気なく、眼光だけは鋭い。
しかし、右手の美しい爪と白い指先だけは、王宮の美女と比肩するほど。
卵果の形をした琵琶を赤子のように抱いて掻き鳴らす。
女の琵琶弾きには珍しく荒涼とした戦場を描き出す武曲を得手とし、叙情的な光景を謳う文曲においてすらその奥底に悲痛な嘆きを響かせた。彼女の奏でる音は、救いのないこの世そのもののようであった。
夏の初めの、降り止まぬ長い雨。
麦の穂を腐らせ、畑の土に疫(えやみ)の毒を注ぎ込む。
王が斃れ、そして新たな王が下っても、この国に降り続く雨は止まない。
崑崙山の向こうへ逝ってしまった者が戻ることはない。
琵琶の音が描き出す厭世観に眉を顰める者もある。しかしそこにある悲嘆は才の民の心に共鳴するのだった。
新王が登極して五年ほど、今もまだ生活に光は見えない。不平も不満も口にするものは居ない、それらは全て人心の奥底に沈み澱んでいる。
王は苦悩していた。
齢五十と少しで登極する前の彼は、官吏として前の王に仕え朝廷内の腐敗に失望し、治世の末期には野に下り民の為に力を尽くした。玉座に登ることで、かくあるべきという国へ近づく確信があった。しかし現実はどうだ。私腹を肥やすことに慣れきった官吏の粛正を行えば政の端々が行き届かぬようになり、結果荒れ果てた国は少しも変わらない。
深い悩みを抱えた王を案じた采麒に揖寧の街に下ってみてはと提案され、気乗りがしないまま街へ降りた。
采麒が付けた使令は穏形させ、目立たぬように騎獣は三騅を使い文人の衣を纏った。かつて野に下った日の暗い気持ちと、それでも己の手で救えるものを救いたいという胸を灼く思いが昨日のことのように思い出される。
即位して自分は、果たしてどれだけのことができたというのだろうか。
己の無力さに打ちひしがれる毎日はあの頃と何も変わらない。
信頼の置ける臣下は誰も不満を言うことなく、彼の作ろうとしている国のために力を尽くしてくれる。その負担が計り知れないと分かってはいても、今はただ、我慢させるしかないのが苦しかった。終わりの見えぬ苦労、それがどれだけ人の心を蝕むものか、それは誰よりも彼自身が知っていることなのだから。
特に行くあてもなく街を歩くうちに、妓楼の並ぶ花街の入り口へ来ていたことに気づいたのは、どこからか聞こえてくる物悲しい琵琶の音が耳に届いたためである。
かつては華やかだったその場所も、先王が斃れてからは櫛の歯が欠けるように廃業する店が目立つようになった。彼の登極直後は少しは賑わったと聞くが、皮肉なことに綱紀の粛正によって羽振りの良い顧客達を減らしてしまった街は人通りもなくひっそりとしている。
琵琶の音の奏でられる場所を探して、王は首を巡らせた。
無常感の漂う爪弾きが高く低く響く。その音が聞こえてくるのは楼門の上からだった。
女が一人、脚を組んで座り琵琶を抱えている姿が彼の目に映った。
この琵琶の音を以前に聞いたことがあるような気がする。その記憶を辿る彼の脳裏に五年と少し前のことが蘇った。それは昇山のために黄海へ向かう支度を整えるために、長い友人である商人を頼り揖寧へと金策に来た折のことだった。
その時、女は三十の少し手前。美しい女だと思った。しかし花街近くの舎館から垣間見たその姿はどこか世捨て人のようで、生きることを厭うてただ死だけを見つめているような、そんな様子に見えた。
女は賃仕事の代わりに、時折裕福な者たちの通う妓楼に招かれては何曲か琵琶を奏でることで生活を立てていると聞いた。しかし彼の友人である商人は、苦々しい表情を見せて女の所業を悪し様に語った。
「あの女は何様のつもりか、どれほど客に金を積まれても頑として花を売らん。それだけならまだ分からんこともないが、やたらと弁が立つ小賢しい物言いで客をやりこめ、果てはこの世の恨み辛みと呪いを詰め込んだような曲を奏でては宴席を白けさせる。おかげであたしは上得意の機嫌を損ねて大損をさせられたんだ。とんだ疫病神だよ」
そんな琵琶弾きをなぜ呼んだのか、と彼は思ったが、資金の都合を頼む身としてはその言葉を飲み込んだ。
彼らが話をしていた舎館の一室は裏の水路に面しており、向こう側にある妓楼のひとつと軒を近くする場所にあった。まだ夜は浅く、酒の席で妓女たちの笑いさざめく声が時折聞こえてくる。
そんな時だった。女の爪弾く琵琶の音が、風に乗って吹き寄せてきたのは。
悲しい、苦しいと、胸が詰まるような悲哀に満ちた音だった。
男なら思わず手を伸ばし、女の白く細い肩を抱きしめて己の物としたくなるような、毒を含んだ色香すらある。
確かに聞くものを魅了する、圧倒的な音色であることを彼は納得した。これならば噂を聞き及んで呼びたがる好事家がいるだろう。しかし彼にとってはそれ以上に、深く深く胸を抉るものがあった。全てを失った絶望の中で爪弾くようなその音は彼の心に沁み入ってくる。為すべきことを為さぬのは何故なのかと、その身の怠惰を責めるように聞こえた。
黄海を渉る昇山の旅路は人の身には長く苦しいものである。支度も整わぬまま入ればその身は骸となって、野ざらしとなるだろう。彼の内にも、恐れを抱いて一歩を踏み出すことへの躊躇は無かったとは言えない。そんな弱さを琵琶の音は決して赦しはしなかった。あるいは劫火に追い立てられるように、彼は身震いをした。