夜を行く
饒筆さま
2012/09/21(Fri) 12:09 No.70
凌雲山の麓に広がる関弓の街は、夜が長い。
だから日が暮れても、皆、こぞって外へ繰り出す。月や星の綺麗な宵は尚更だ。王だって例外ではない。
朱衡は待ち伏せを敢行し、浮き立つ喧騒の中へ紛れようとした袖を、すんでのところで捕まえた。この主は下界で一体何をしているのか、一度この目で確かめてみたかったのだ。
「どうしておまえがついてくるんだ?」
横目で睨まれても何のその。朱衡は澄まして答える。
「いつもいつも帷湍ばかりがお供しております故、たまにはお役目を交代してもよろしいかと」
「あれは供とは言わん。ただ連れ戻しに来るだけだ」
「左様でございましたか。拙は彼と違って非力ですから、主上を連れ戻すことはできません。おとなしくお供を務める所存ですが、それでもお許しいただけませんか?」
主は口をへの字に曲げた。
「……好きにしろ」
ただ、街では風漢と呼べよ、と言うので、
「風漢と無謀でございますか、これまた楽しい道行きになりそうですね」
と返せば、
「おまえの口は嫌味しか言えんのか」
我らが国主はげんなりして、逞しく張った双肩を落としたのだった。
◇◆◇◆◇
大股でスタスタ進む主の速さについて歩くのは、ちょっとした運動になる。
朱衡は薄ら滲んだ汗を拭った。ひんやりと冷え始めた夜風が心地好い。
まだまだ華やかとは呼べぬ街に出て、妓楼にむかうのかと思いきや、主は街の中心部を素通りして、周辺の貧民街へ迷い込んだ。
一体、何処へ向かうのだろう?
もはや石造りの立派な楼閣は絶え、崩れた建物が点在する空き地に、日雇い労働者や流れ込んだ浮民が勝手に建てた粗末な小屋ばかりが並んでいる。中には店もある。そのうちの一件、屋台に毛が生えたような小店舗の前に卓やら椅子やらを並べた、至って簡素な飯店に主は立ち寄った。意外と客が多く、繁盛している。
「よお、オヤジ。来たぞ」
「おお風漢か! 其処に座りな。今、揚げたてを出してやる」
額に大粒の汗を浮かべながら大量の唐揚げと格闘しているのは、オヤジと呼ぶには若い店主だ。まだ四十にはなっていまい。
泥だらけの半袴を穿いたモッコ担ぎ達に一言断り、主は悠然と隣の卓につく。勢い良く座ったら壊れそうな古椅子を引き、朱衡もご相伴に預かることにした。
「いらっしゃい」
ダン、ダン。洗いざらしの前掛けをした女が、ぞんざいに湯呑を置いた。中を覗き込めば、どうやら酒のようだ。
まだ何も注文していないが?
首を傾げて見上げれば、痩せた女の痛々しくこけた頬が目についた。
「おい、おかみ。もう店に出ていいのか?」
主も気遣わしげに問う。女は気丈に笑いとばした。
「『貧乏ヒマ無し』だよぉ。いつまでも店を空けとく訳にゃいかないだろ?」
そして力が抜けたように、ふっと眉尻を落とす。
「先日はありがとう。ゆっくりして行っておくれ」
囁くような小声でそう言うと、揺れる足取りで別の給仕を務めにいった。主は眉を顰め、湯呑を呷る。店主が香ばしい唐揚げを運んできた。
「ほらよ。たんと喰って帰りな」
「おお旨そうだ! ありがとうよ。今日はお代を払って帰るから、飯と汁もつけてくれ」
「いいよ。あんたからお代を貰おうとは思わねえよ」
「いいや、払う。ちゃんと財布も連れて来たから」
真っ黒な箸が朱衡を指した。……拙は財布ですか。
鋭い白眼で突き刺すも、まるで効果は無い。店主が笑う。
「えらく小奇麗なお財布様だねえ。こないだは怖い大旦那はどうしたんだい? 偉い剣幕で怒鳴られていたが、クビになっちまったかい?」
「なんとかクビは繋がっている」
はふはふと唐揚げを頬張りながら、主が答える。その白々しい呑気顔に釘を刺してやりたくなった。
「このまま無断欠勤や職場放棄が続けば、どうなるかわかりませんけれどね」
「おお、お財布様も充分怖いじゃねえか」
苦笑しながら立ち去る店主を、主が呼び止める。
「で、おかみは店に出して大丈夫なのか?」
「本人が出たがっているんだ。いくら泣き続けても、寧寧が生き返る訳ではないからな」
淡々とした返答に、主の動きが止まった。箸を置いて真摯に向き直り、頭を下げる。
「すまない」
「風漢が何度も謝ることは無い」
「だが、助けられなかった」
「仕方がねえさ。寧寧は台輔を脅すための人質にされていて、風漢は元州に雇われた小臣だったんだろ? あの子の衣を持ち帰ってくれただけでも有難いよ……衣だけになっちまったが、母親の許に帰って来たんだ。あの子もほっとしているだろうさ」
身を斬るような辛さに顔を歪めたのは、主の方だった。途端に丸くなった背を、固い微笑の店主が叩く。
「いつまでもシケた面しなさんなって! 俺ら夫婦なら大丈夫だ、昨日話し合って決めたんだ。寧寧の喪が明けたら、新しく子を願おうと」
主は目を丸くし、次いで穏やかな感動を素直に浮かべた。未だ見た事も無い、鮮やかで温かな笑顔に朱衡は声を失う。主が感嘆を言葉にする。
「それは……それは凄い決断だな。流石だ、オヤジ」
「よせやい」
店主は鼻の下を掻いて横を向いた。その目尻が小さく光っている。
「だから、あんたも頑張りな。とにかく真面目に働きな!」
わざと大声で笑い飛ばして、店主は厨房へ戻った。「まいったな」主は満面の笑みでその背を見送る。
朱衡は動けなかった。
いつの間にか、傾いた卓には野菜屑の汁とほとんど具の無い炒飯が載っている。
「早く食え。冷めるぞ」
口にした質素な食は、沁みるように美味だった。
主が、平らげた汁椀を置く。そして周囲を見回す。
「不思議なものだ。手を差し伸べたい、何か俺にできることはないか、と仕事を探して歩いているのに、なぜかいつも町衆の方が俺を励ましてくれるんだ」
不作法に腕を上げて背筋を伸ばせば、どこぞの遊女に贈られた、ふざけた桃色の髪巾が揺れる。
「ああ……俺はきっと、延の民に生かしてもらっているんだろうな」
主の顔に残ったのは、宮城では見ることのない、心から満たされた笑顔だった。
「オヤジ、また来るぞ!」
「おおう! また来いよ!」
朱衡に勘定を任せ、主はぶらりと夜を行く。
帷湍は、王には威風が必要だと言った。尊崇を集め、仰ぎ見て感嘆するような立派な王者でなければ、馬鹿馬鹿しくて官など務めていられるか、と。
成笙は、王には度量が必要だと言った。臣や民の言葉を真摯に聞き、正当に遇してくれる王でなければ、身命を捧げたいとは思えない、と。
二人は梟王を知るからそう言うのかもしれない。だが、生憎、朱衡は目前を行くこの王しか知らない。
次々に屋台へ呼び込まれ、遊女に腕をとられ、花売り小僧の鴨にされ、酔っ払いに説教されるその背に、威風などあるものか。臣民に分け隔てなく接するという点には度量の一片があるのかもしれないが、どうもそれは王器の広さというより、王器の底に大きな穴が開いているとしか思えない。
だが、それでも。
なんと情けの深い御方だろう。その御心を常に民に寄せようとしている……いや、寄せずにはいられないのだ。民が王を求めるように、王も民を求めている。愛さずにはいられない。尽くさずにはいられない。それほどにこの王は民が、ひとが好きなのだ。
――私は、もっとこの御方を信じてもいいのではないだろうか。
己の内から涌いた言葉が、腑に落ちた。
気まぐれで無軌道で兎角に破天荒な主だが、この性分なら延の民を裏切るようなことは決してなさるまい。私などが尻を叩いて机に向かわせたり玄英宮に閉じ込めたりするより、御心のままに振舞っていただいた方が延の為になるのかもしれない。
「おい、朱衡! この坊主の花を全部買ってやれ!」
……私の財布と堪忍袋の為にはならないが。
仕方が無い、と溜め息を零して主を追う。
のらりくらりと、しかし確固たる足取りで夜を行くその背は、やはり紛れもなく朱衡の「王」そのものなのだった。
<了>