雨期の回想
ネムさま
2012/10/06(Sat) 21:41 No.129
「主上は霄山へ行かれたのですか」
驚きと感慨を込めた白沢の言葉に、六太は彼も知っていたことを今更のように気が付いた。
「何でも恨み言を聞いてやるって言ってたよ」
「主上がそんな…」
言いかけた口を閉じ、白沢はどこか寂しげに笑う。外では小雨が降りしきり、玻璃の窓が閉められた部屋の中には、どこからか香の匂いが漂い流れる。
「もしかして、今日だっけ」
「はい。州城が開城された日です」
それは斡由が死んだ日でもある。六太は香のする方へ顔を向けて言う。
「じゃあ、これは斡由の為?」
「はい。牧伯もあの時の子供も、内乱で命を落とした人々全てに」
暫しの間会話が止み、雨の音だけが室内に満ちた。やがて独り言のように、白沢がぽつりと言った。
「あの企てが、どれ程天意を考えず、稚拙な計画だったか、今なら分かります」
六太が顔を上げると、白沢はやはり寂しげに微笑んでいる。
「けれども…あの時は本当に、真剣に自分達が国を変えられると信じていました。そして、その気持ちに私心も邪なものも、一切無いと、斡由様も私達も自分を疑わなかったのです
攫われた台輔からすればご不快でしょうが、梟王の末世からの荒廃の中、令尹がおられなければ、元州は滅んでいたと、やはり今でも思うのです」
六太は朧な記憶の中から、あの頃の元州を思い浮かべた。まだ荒廃の残る中、元州だけが確かに豊かで美しく、人々の表情が生きていた。
「あの時、斡由が勝っていたらって、考えることある?」
六太の問いに白沢は首を横に振った。
「あの内乱が成功しても、我々では何時か壊れてしまったでしょう。
州の中だけであれば、自分の思うような自分でいられたかもしれませぬ。しかし国中全ての民の目に晒された時、己の間違いや弱さを指摘された時、それでも自分の信じる自分で在り続けられるかどうか。
自分への不信も弱さも正視出来るかが、器の違いと言うことになるのでしょうな」
六太も言った。一貫して態度の変わらなかった尚隆と、高邁な人物であろうとしながら崩れていく斡由を見て“器が違う”と。
「それでも― 最後に乱の責任を押し付けられて、罵られても、斡由を惜しむのか」
六太の問いに白沢は少し首を傾げる。
「正直に申せば、あの時は“裏切られた”と思いました。しかし…確かに私達は王より令尹を選びました。それは、令尹の演技に騙されたと申す者もいましたが、当時の令尹の言葉にも行動にも疑うものが無かった。そして、天意や王の存在がどういうものか知っていたはずの私達官吏は、それを思い起こすことなく、ただ令尹を信じ王を廃そうとしました。
令尹は最後にご自分の掲げた理想に殉ずるのではなく、罪を逃れようとして亡くなった。そして令尹を信じたはずの私達は、王を支持する民に囲まれ、令尹と共に戦うより降伏を請うた。
浅慮で覚悟の無い主従同志、令尹お一人を責めることなど出来ませぬ」
自嘲と言うよりはどこか哀しげに白沢は笑みを浮かべた。外の雨は変わらず、景色の輪郭を滲ませる。六太は深く息を吐いた。
「しょうがないよ。今もだけど、尚隆の態度を見て信じるなんて、驪媚みたいに頭を下げられるか、帷湍達みたいな変わり者でなけりゃ、出来ないって」
「しかし…」
「それにあいつの強欲さに勝てる奴なんか、そうそういないぞ。何せ“民は俺の体そのものだ”って、絶対手放そうとしないもんな」
人差し指を振り回して説く六太の姿を呆然と見ていた白沢は、やがて小さく噴出した。
六太は問うた。
「擁州へは何時立つんだ」
「五日後になります」
「あそこは今少々きな臭いぞ」
「だからこそ、ですよ。主上の強さが身に浸みている私ですからね。驪媚殿のようにはいかなくとも、牧伯として擁州の者達が早まらぬよう努めます」
「でも、あっちの方が正しいかもしれないよ」
六太が意地の悪そうな笑みを浮かべる。白沢は一片の曇りも無い明るさで答えた。
「その時は、主上と州の者達と、覚悟のある方へ付きます」
弾けるような笑い声が二つ上がった。
「そのうち遊びに行く」
「出来れば、天官長方にお断りしてからにして下さい」
そこだけは強く、白沢は頭を下げた。