愛し子がくれた夢
饒筆さま
2013/09/07(Sat) 17:44 No.14
よいしょ。満々と水を湛えた桶を慎重に下ろして、泰麒は腰を伸ばした。
「お水、運んで来ました」
「ああ、ありがとう」
袍子(野良着)に身を包んだ世卓が、畑にしゃがみ込んだまま、おおらかな笑顔を向ける。そして伸びきって絡む芋の蔓を持ち上げ、軽く引いてみた。
「泰麒」
世卓の手招きを受け、泰麒はぱたぱたと駆け寄る。
「芋を掘ってみますか?」
「いいんですか!」
つぶらな黒瞳がひときわ輝いたのを見、世卓も嬉しそうに頷く――ところが。
そんな二人の足元に、ほっそりした影が落ちた。
「まあ主上!」
廉麟だ。腰に手を当て、やや柳眉を上げている。
「泰台補はお客様ですよ。そんなにいろいろお願いなさってはいけませんわ」
「そうかな、ごめんなさい」
「いいえ!あの、僕がお手伝いさせてくださいってお願いしたんです!」
素直に謝る世卓。慌てて庇う泰麒。そんな二人を見比べ、廉麟はふわりと微笑む。そして泰麒の前で膝をついた。
「ありがとうございます、泰台輔。きっと台補の御蔭で、主上のお仕事はとても捗っておられるでしょうね」
「うん。助かっているよ」
暢気な横槍に、廉麟は「めっ」と言いたげな目を向ける。そして小さな絹の手巾を取り出し、泰麒の額を軽く拭いた。
「でも、こんなに汗をかいておいでですわ。お着替えになって、しばし涼んでいてくださいまし。主上もお戻りになるお時間ですから」
「そうですか?…ありがとうございます」
泰麒は照れて小さな頬を染める。一方、世卓はガリガリ頭を掻いた。
「その様子では、また何かすっぽかしたみたいだね」
廉麟がツンと鼻を上げる。
「有司議のみなさんがお待ちです」(だから申し上げましたのに)
「すみません、僕のせいで――」
反射的に責任を感じてしょぼくれる泰麒の背に、温かな手が優しく添う。
「泰麒は謝ってはいけませんよ。これは俺が悪いんです」
そして口を開けて笑い、黒鋼の髪をぐりぐり撫でた。
「では、また明日――いや、今宵は泰麒と廉麟が一緒にご飯を食べるんだってね? もしよければ、俺も同席していいですか」
「わあ!ご一緒してくださいますか!」
嬉しさのあまり、泰麒はぴょこんと跳ねる。世卓はうんうんと大きく頷いて、
「たくさんお手伝いしてくださったから、たくさん果実をもいで行きますね」
「主上。その前に有司議がございますよ。急いでくださいませ」
「ああそうだった!」
叱り叱られながらもどこか明るい漣の主従に、泰麒はぺこりと腰まで折って一礼し、軽い足取りで客殿へ立ち去った。
「泰台補はまだお小さいのですよ。あんな日照りの下で動き続けていたら、すっかりお疲れになってしまいますわ」
「そうか。それは悪いことをしたね」
慌てて正寝に戻り、汗や汚れを拭い、上着に袖を通しながら、世卓は廉麟のお小言を聞いた。かいがいしく衿を正しつつ、廉麟は不意にくすりと笑う。
「主上は泰台補と一緒におられるのが本当に楽しいのですね。いつもよりたくさん笑って、いつもより張り切ってお仕事をされていて――まるで父子のように見えましたわ」
「そうかい?」
世卓は嬉しそうに破顔する。
「廉麟だって、泰麒といるときはとても楽しそうだよ。いつもより良い笑顔をしている――すぐに世話を焼こうとするしね。うん、まるで母子…じゃないな、姉弟のようだ」
そして帯を巻くために腕を上げながら言う。
「父子に姉弟か……泰麒がいると、俺たちは家族になれるんだなあ」
「家族……」
廉麟がぽつりと繰り返す。
麒麟に父母はいない。生涯、伴侶を得ることもなく、子を為すこともない。繋がるのはただ主だけ。そんな廉麟に、まさかこんな幸せな家族の夢が訪れようとは。
廉麟が目尻を押さえた。
「まあどうしましょう。嬉しすぎて涙が出てしまいましたわ」
「我慢しなくていいよ、廉麟。俺も一緒だから」
世卓のすこし潤んだ瞳を見上げて、廉麟ははっと胸を突かれる――主上もまた、只の農夫として生きていれば当然のように得たはずの「家族」をお持ちではないのだ、と。
だが、世卓の表情に悲壮さは無い。
「いやあ、子供って凄いね」
そう言って、いつもどおり朗らかに笑って見せた。
<了>