4月5(由旬さま)
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4      月  (5)

作 ・ 由旬さま

「私にも言わせて下さい」
 浩瀚を見ると、いつになく悲壮な面持ちで陽子を捉えていた。
「私も貴女の前では普通の男でいたい。王と冢宰ではなく、ごく普通の男と女で向き合いたい。ですが、貴女は天帝に選ばれた王。私はそれに仕える者。その敷居を越えて良いものかどうかわからない。貴女のような可愛らしい方と、もう何年も生きて初々しさの無くなった自分とが釣り合うかどうか、それも自信がない。何もかもわからない。何もかも不安なのですよ」
 陽子の言葉を踏襲するように言って、浩瀚は片手で陽子の片頬を包む。
「でも、それでも、私は貴女が愛おしい」
 改めてそう言われて、陽子の全身は震えた。自分も何かを告げたかったが、口はわななくばかりだった。
 そして、じっと見つめられているこの状況は、あの桃の庭を彷彿とさせた。浩瀚の瞳が近い。今にも陽子に覆い被さってくるかのようだった。
――ま、まさか、こんな所で?
 目を閉じようかどうしようかと狼狽えていると、浩瀚がゆっくり腕の力を抜いて陽子から離れた。安堵すると同時に、また余計なことを考えてしまったと、陽子は自分をせせら笑った。
 それでも浩瀚の手は陽子の手を握りしめたまま、その目は陽子の瞳を捉えたままだったので、陽子の胸の鼓動は速いままだった。
「貴女は貴女のままで良いのです」
 浩瀚がぽつんと告げる。
「王のままで良いのです」
「でも、街では普通の民に紛れようと言ったじゃないか。お前も普通の民として私を扱うと」
 浩瀚は首を振った。
「普通の民になることが、即ち、王という衣を取り払うこと、ではないのです」
「でも」
「私とて、冢宰という衣を完全に脱ぎ捨てているわけではありません。たぶん脱ぎ捨てられないでしょう。貴女も私も、例え街へ降りたとしても、王であり冢宰であることに変わりありません」
 二人はまた歩き始めた。
「王と冢宰の衣を剥いでしまえないのなら、せめて街に出た時は、普通の民という衣を上から纏いましょう、私はそう言いたかったのです」
 陽子はその言葉を反芻する。
 着ている衣を取り払って普通の民になるのではなく、更に上から羽織って普通の民になる。
「引き算ではなく足し算か」
 陽子が言うと、浩瀚が頷く。
「王宮に戻る時は、普通の民の衣を脱ぐ必要があります」
 その口調は厳然としていた。
「貴女は公私混同しないでいられますか?」
「それは……」
「王と冢宰という組み合わせ自体、諸々問題があります。その上公私混同してしまうと、ゆくゆくはまつりごとに支障を来すでしょう。公私をきちんと区別した方が良いと私は思うのです。それくらいの責務を負って当然だとは思いませんか」
「それは、そう、だな」
 浩瀚らしい堅実な提案だった。
 確かに王宮では、こんな風に寄り添って歩いたり、仲睦まじくしたりするのはどうかと思う。例え公認で、二人きりになろうと……
「あ、でもじゃあ、お前はあの時桃の庭でどうして私に――」
 言いかけて陽子は慌てて口をつぐんだが、赤くなった頬は言いかけた先を隠すことができなかった。それを察して浩瀚は、目を伏せて自嘲するようにため息を付いた。
「あの時は、周りに踊らされてつい、見境を無くしておりました。少々反省しています。失礼いたしました」
 するりと言われ、陽子は余計に恥ずかしくなった。
「失礼だなんて――そんなことは」
 陽子は口ごもった。
 見境を無くしていたのは陽子も同じだった。
 あの日祥瓊が用意したのは、露出の多い衣装だった。それを特に抵抗しないで着たのは、浩瀚を魅了したいという思いがあったからに違いなかった。魅了して、浩瀚が何らかの行動に出ることを、期待していたのだ。そして期待通りに浩瀚が口唇を寄せようとした時、どれだけ胸がときめいたことだろう。
 だから失礼だなんて言わなくて良い。
 それを口に出して浩瀚に伝えたいところだったが、そこまで勇気はなかった。

 やがて二人は広い公園に出た。そこが夜桜見物のできる場所であった。
 大きな池の周りを、数十本の桜がぐるりと囲んでいた。木と木の間に縄を渡し、色とりどりの提灯をぶら下げ、更にその下へ灯籠を幾つも配している。それらの揺らめく明かりが、ちょうど満開を迎えた桜の花を暗闇に浮き上がらせていた。
 陽子は思わず感嘆のため息を付いた。
「綺麗だ」
 昼間の桜とは雰囲気が違う。
 暗闇を背景に咲く桜の花びらの白さは、昼間の陽の光に晒された白さに比べると、どこか艶めかしくしっとりしているように感じられた。光と闇の境が曖昧だからなのかもしれない。
 灯りに照らし出された花と、暗闇に潜んでいる花と、そして光と闇がせめぎあって作り出した様々な陰影を持つ花とが、同時に存在している。
 明瞭で、同時に不明瞭。
 その桜の下を二人は歩いていく。
 間もなく消灯になるせいか、屋台はほとんど店じまいしていて、見物客も帰っていく人達の方が多かった。逆に今頃からやってくるのは、やはり男女二人連ればかり。しかも皆、密着度が高い。それを見るとどうしても、側にいる浩瀚を過剰に意識してしまうのだった。
――浩瀚は言った。公私混同は避けようと。では二人で過ごすためには、こうやって街へ出てこなければならなくなるのだろうか。ならば、頻繁に会うわけにはいかない。次にこうやって会えるのはいつになるのだろう。今夜は王宮に帰るまでもうあまり時間がない。それまでに浩瀚は、どうするつもりなのだろう。あの桃の庭の続きはあるのだろうか。
 動悸が速くなる。不安だからではない。それを待ち望んでいるためだ。
 好きだから。浩瀚が好きだから。
 その時はたと気が付いた。
 私は、普通の娘ではないか。
 こんなことを考えていること自体、普通の恋する娘なのだ。
 自分に自信がない、相手に相応しくないなどと、悩むことすら普通であろうに。
 浩瀚の言動に緊張したり、心をときめかしたりすることも、当たり前の反応に違いない。
 誰かに想いを寄せ、その想いが叶うように願い、叶えば今度はそのしるしが欲しくなる。普通の娘ならば、誰でもそんな風に思うことだろう。今こうしてくちづけを期待しているように。
 自分は王だから普通になれないなどと、よくも言ったものだ。
 陽子は自分が滑稽で仕方なかった。
 どうして早く気付かなかったのだろう。普通の民という衣はとっくに纏っている。
――浩瀚に恋をした。その時点で私は既に唯人になっていたのだ。

 周りのどこを見回しても男女連れだけになり、しかも見せつけるように大胆な行動を取っている者達もいるので、自然と陽子と浩瀚は無口になっていた。
 陽子の手は相変わらず浩瀚の手の中にあったが、自分の手が汗ばんでいくような気がして、それを浩瀚に気付かれる前に手を離してしまいと思っていた。だが、しっかり握られた手を振り解くのも気が引ける。
「寒くないですか?」
 沈黙を破って浩瀚が言う。
「大丈夫だ」
 しかし後が続かない。浩瀚が再び話しかける。
「私は昼間より、夜の桜が好きですね」
 なぜ、と陽子は浩瀚を見やる。
「昼間の桜と違って、見えない部分があるからです。全部が見える昼間の桜も美しいですが、こうやって闇を纏っている桜の方がより気高くて深みがあるように感じます」
 浩瀚がそう言って桜を見上げたので、陽子も同じように見上げる。
「あるいは、暗闇の中、光を纏っている桜、とも言えます。通常街明かりや月明かりでもない限り、夜に桜は見えませんからね」
 夜風が吹いてきて、桜の花が舞い散った。陽子の髪にも浩瀚の髪にも、花びらがとまった。
 浩瀚は陽子の髪にそっと触れ、花びらを一枚取りながら言った。
「纏うということは、覆って隠すような印象がありますが、その下の姿を引き立てるということも、あり得るように思うのです」
「では、王という姿を引き立てるために、普通の民を纏うこともあった方が良いわけだ」
「立派に見せるためには、纏う衣の質が大切です。こうやって街に出てきた時に、様々な経験をしておくことが大事でしょうね」
「では、もっといろいろ経験をしたいものだ」
「お望みなら、いくらでもお手伝いしますよ」
「わざわざ手伝って貰わなくても良いと思うが」
「二人ででないと成しえないこともありますから」
 さらりと言った浩瀚だが、陽子はその言葉に引っかかりを感じた。言うと同時に浩瀚が、陽子の腰にそっと手を置いたからだった。浩瀚を見ると、どこか人の悪そうな笑みを浮かべている。
「ことに、二人で現実的な衣の引き算をしようという場合、進んで貴女に手を貸してあげたいものです」
 陽子はかぁっと顔を赤らめた。
「な、何を。ま、またからかっているな」
 抗議するが、声に力が入らない。
「からかうと面白いので」
 平気で言うのがまた小憎らしかった。
 その時、銅鑼の音が響いた。消灯の合図だった。係の者が現れて、提灯や灯籠の火を一つ一つ消し始めた。落ちたゴミを拾う係もいる。
 それを見ながら、陽子は急いで話題を反らす。
「これだけの桜を整備して、夜桜会場を管理するのも大変だな。ここの管轄は瑛州府だが、堯天の商業組合が自発的に運営していると聞く。人寄せ目的とはいえ、民の憩いになっている効果を考えれば、少しは州府から援助してやっても良いのではと提案――」
 すると浩瀚の人差し指と中指が伸びてきて、陽子の口をそっと塞いだ。
「公私混同はしないと言ったでしょう。仕事に絡む話は御法度です」
 と言って浩瀚が指を離したところで、二人の近くの明かりが消され周りが暗転した。
 再び陽子の口唇が塞がれる。
 しかし今度は指ではなく吐息だった。


(了)

* * *  由旬さまの後書き  * * *
 最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 けろこ様の絵と未生様の文章から、「乙女心」に刺激を受けてしまって、よし!と奮起しました。
 腐った乙女心を呼び覚まし、乙女になりきって書こうとしましたが、私にはやはり無理が ありました(笑)……桜、あまり出てこないし……
 とにかく最後の5行を書きたかったのです。そのためにこんなに回り道してしまいました。
 予想外に長くなってしまい、祭り期間中に間に合わず、管理人様にはご迷惑おかけいたしました。 この場をお借りしてお詫び申し上げます。

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閻浮提(えんぶだい)



 由旬さんより「呼び覚まされたオトメ心」をいただきました。 しかも、4〜5(最終話)は、まだご本宅にアップされていないのですよ〜〜〜(大興奮)!
 陽子さんの悩める乙女ぶり、沢山の知り合いの茶々を受け流しながらも次第に焦る浩瀚……。
 ご本宅でも叫ばせていただきましたが、「頑張れ! 浩瀚っ!」とまるで浩瀚の母になったような 心持で手に汗握って読ませていただきました。
 由旬さんにもご指摘いただきましたが、「陽子主上の母」ではなく「浩瀚の母」でございます。 陽子の母ならば、心配で心配で夜のお外に出したりいたしませんから(笑)。
 ラストに辿りついたときには、おめでとう浩瀚! の気持ちでいっぱいになりました。 由旬さん、可愛くいじらしい乙女な陽子主上をありがとうございました!

2008.05.27. 速世未生 記


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