4月4(由旬さま)
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4      月  (4)

作 ・ 由旬さま

「今まで街へ行った話などしてくれたことなかったし」
 陽子は少々不満げだった。
「政策に繋がるような話ならまだしも、他愛ない世間話になってしまうので、それを王宮で仕事中にお話しするのもどうかと」
「二人でいる時だってあるじゃないか」
 浩瀚はふっと目を伏せる。
「王宮ではなるべく冢宰でいようと心がけています。そうでないと、見境が無くなってしまいますので」
 それを聞いて陽子はまた、あの桃の庭を思い出した。
 あれは、見境が無くなったから、だったのか、という問いかけを呑み込んでいた。
「でも、今なら存分に貴女と世間話ができますよ。もう王宮ではありませんので。何も気にすることはありません」
 浩瀚は、食卓の上に両肘をついて、組んだ手に顎を載せたまま、じっと陽子を見つめていた。
 その視線を熱く感じて、陽子は思わずうつむいた。
「し、知らない」
 浩瀚は首を傾げ、次に含み笑いをした。

「はい、お待ち」
 食堂の主人が料理を運んできた。
「ここの肉饅が美味しいのです」
 食卓の上に置かれた二つの大きな肉饅。一つを陽子に勧めながら、浩瀚はもう一つを手に取って食べ始めた。長く白い指で二つに裂いて、ふぅふぅ息を吐きかけながら頬張る。陽子はしばらくそれを眺めていた。それに気付いて浩瀚は食べるのを止めた。
「肉饅はお好きではなかったですか?」
「いや、そうじゃない。お前がこんな風に肉饅を頬張ったりして庶民的なのが、何だか不思議なのだ」
 浩瀚は笑った。
「いつもと違うこの姿に幻滅しましたか?」
 陽子は顔を赤らめて、呟くように言った。
「そんな訳ないだろう」
 そして同じように肉饅にかじり付く。
「それなら安心しました」
 浩瀚もまた肉饅を食べる。
 肉饅は確かに美味しかった。その後出てきた野菜の汁と、小海老の入った炒飯も、素朴ながら陽子の口に合って、何度も椀によそって食べた。
 食べながら陽子は、この男のことを考えていた。
 王宮で冢宰をやっている男を、この男のすべてだとどこかで思い込んでいた。それが全くの間違いだということを、今更ながら噛みしめていた。
 この男はかつて麦州候であった時、民から慕われていた。民のことを思い、民のために尽力したという。その当時、こうやって市井に出て、現状を見聞していただろうことは想像に難くない。冢宰になってからも、それを続けていたとして何ら不思議ではなかった。
 街に降りて舎館の親爺と親しくなり、あるいは何処かで碁をやって、更には少年を助けたりする。
 陽子の知らない男の姿が、次々と現れる。
 しかも、この男は陽子よりずっと長く生きているのだ。
 自分の知らない男の姿が無数にあるような気がして、陽子は目眩を感じた。
 どれだけの人と出会い、どれだけのことを経験してきたのだろうか。
 そしてどれだけの女と出会い、どんな恋をしてきたのだろうか。
 陽子は浩瀚と情を交わしたすべての女に嫉妬を覚えた。だがすぐに、それがとてつもなく空虚なものだと気付き、ため息と共に吐き捨てた。
 ただ心の中に、自分はこの男の側にいても良いのだろうかという疑問を残した。

 浩瀚に比べれば、自分は子供でしか過ぎない。
知り合いに会うのが恥ずかしいなどと言って、こそこそしている自分。浩瀚は堂々として、揶揄されてもやんわりと対応していた。そのことからしてもう、自分が卑小に思えた。
 浩瀚にありのままの自分を見せたいなどと思ったことが、今更ながら恥ずかしい。
 ありのままの自分に果たして自信が持てるだろうか。
 王というものを纏わなければ、自分に何があるというのだろう。何を誇れるというのだろう。
 趣味は――こうやって市中へ出て民の生活を観察すること。
 特技は――強いて言えば剣を扱うこと。
 得意な分野は――新しい政策を考えることや財務計算で、人材登用や対外折衝にも手腕を発揮できる自信がある。
 それらがすべてのような気がして、陽子は頭を抱えた。
 これは普通の娘の姿ではない。
 浩瀚と一緒にいれば、王であることを忘れてしまうと思っていた。
 だが、自分は王でしかない。
 もう普通になれないのかもしれない。

 食事をしたあと、本来の目的である夜桜見物に向かう。旧午門をくぐり、更に南へ下って、途中の角を東へ曲がった。そこから夜桜見物のできる場所までもう少しだった。
 並んで歩いていると、浩瀚はその手で陽子の手を探り、その滑らかな指を絡ませてきた。陽子は一瞬びくりとしたが、再びその温もりを得て嬉しかった。
 ふと気付くと、同じ方向に向かって、夜桜見物に行くのだと思しき男女連れが数組歩いていた。皆、陽子と浩瀚のように寄り添って歩いている。手を繋いだり、男が女の肩に手を回したり、中には女の腰に腕を巻き付けている男もいる。
 自分も男と手を繋いでいる。一人で歩いているわけではない。二人連れを見て、気恥ずかしいと思う必要もないし、気後れする必要もないのだ。
 だが陽子の心は何となく晴れない。
――私たちもあんな風に普通の二人連れに見えているのだろうか。
――端から見て釣り合っているように見えるだろうか。
――王でない私を浩瀚はどう思うだろうか。
――果たして私は浩瀚に相応しい女なのだろうか。
――では王ならば浩瀚に相応しいと言えるのだろうか。
 陽子はため息をついた。
「どうしました?」
 浩瀚が声をかける。陽子はもう一度特大のため息をついた。
 しばらくして、
「私は普通の娘に見えるだろうか」
 と、うつむいて呟くように言った。
「ええ、見えますとも」
「本当に?」
「貴女はお忍びで街に降りる時、誰かに王だと見破られたことはありますか?」
 浩瀚に訊ねられ、陽子はうつむいたまま首を振る。
「皆、貴女を普通の娘だと思っているのでしょう?それならそう見えるのですよ」
 陽子はまた首を振る。
「世間知らずの小娘に見えるだろう。王様稼業以外、大した経験が無い」
 陽子は浩瀚を見上げる。浩瀚は少し眉を顰めていた。
「何を卑下しておられる。貴女は王だ。王として様々な経験を成してこられている。街へ降りた時は、民と進んで交流し、そこからいろんなことを学んでおられるはず。それで充分ではないですか」
 それでも陽子は首を振った。
「私は」
 陽子ははにかんだ。
「お前の前では普通の娘でいたいと思う。王とか冢宰とか肩書き無しの、普通の民としてお前と向き合いたいと思う」
 その瞳でまっすぐ浩瀚を見た。浩瀚は目を細める。
「そう思うのだけど、だめなのだ。王というものが染み付いて、それを纏うことをやめられない。だから、普通の娘としてどう振る舞って良いのかわからない。“普通”になれたとしても、その自分に自信がない。こんな自分がお前に相応しいかどうかわからない。そもそも王である私が普通の民になっても良いものかどうかもわからない。何もかもわからない。何もかも不安なのだ」
 言い終えた陽子は、いきなり浩瀚に引き寄せられ、その腕の中に抱き留められた。
「貴女一人にそんなことを言わせない」
「ちょっと、浩瀚――」
 道行く人達の視線を浴びて、陽子はいたたまれなくなった。だが浩瀚は離そうとしなかった。




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