桜 鈿
作 ・ ネムさま
2009/04/12(Sun) 21:58 No.186
燭台の灯がわずかに揺れた。
老匠は黙々と手を動かす。古びた工房に不似合いの、高雅な薫りにも気を止めない。
「相変わらず、忙しそうじゃな」
「貧乏暇なしって奴でね」
「先の支払いは済んである。お前のは、ただの貧乏性じゃ」
フンと鼻を鳴らして、老匠はようやく傍らの人影に目を向けた。
品の良い婦人の姿をした、しかし薄暗い灯りの下でも男性と分かるその貴人は、板戸を開けたままの窓の枠に腰を掛け、美しい横顔を見せている。視線の先には今を盛りとする桜の花房達が、半月の光の中に浮かんでいた。
「同じ変わらずでも、こちらはほんに美しい」
「そりゃ花は毎年生まれ変わるもんだから綺麗だろうが、こちとら幹と同じ歳喰って、醜くなる一方よ」
「歳を取っても彼女は綺麗だった」
その言葉に目を見張った老匠だが、次の瞬間には盛大に鼻を鳴らした。
相手はくすくす笑って言う。
「まだ根に持っているのかえ?」
「ったりめぃだ。人がせっかく作った花鈿を、選りによって作った本人の女房にやるなんざ、どういう了見だい」
「彼女は喜んでいたよ」
「しがない細工師の女房になった時から、飾りもんを作りはしても、自分に着けるなんて諦めてたさ」
「しかし、あの年の桜は彼女のために作ったのであろう」
老匠は口を思い切りへの字に曲げた。そして窓の外の桜を見上げる。
月明かりに浮かぶ、薄紅を微かに溶かした白い花々。その陰には消炭を固めたようにざらついた肌の、太い幹が蹲っている。そしてその無骨な木肌の処々に、小さな花房が鈿を挿したように咲いていた。
― まるであの時の女房みたいだ −
老匠の脳裏に、昨年の桜時(はなどき)のことが浮かんでくる。
小さな薄い銀製の花弁を幾重にも重ねた円い鈿。長い指が優雅な仕種で、思いがけず白茶けた髪に鈿を挿した瞬間、皺だらけの顔が花のようにほころび、髪も肌も照り輝いた。
確かに昨年の桜は、病んだ女房が待ちわびる花を思って作り上げた。しかし、毎年一度だけ顔を出す古馴染みに作ってやる桜の鈿も、長く連れ添った女房には、照れや懐具合やで、贈ってやったことは一度もない。それを知っていての振る舞いだったのだろう。
― 変わらねぇ −
呟くように老匠は思う。
― こいつの一筆、一工夫だけで、どんな物でも最高のもんになっちまう。
くやしいけどな… −
「感謝してるよ」
溜息と共に言葉がこぼれた。
「お前が組合の長になって、それから王になって、俺達の作った物が遠い国まで出るようになって…。お陰で俺達みてぇに子供が飢えることはなかったし、女房も満足して逝った」
いつの間に自分より小さくなった肩を見下ろし、相手は言った。
「以前も聞いたが、冬官府へ来る気はないのか」
「仙なんざ柄じゃねぇ。そこらの若い奴を持ってきな。一通りは仕込んである」
「…そうか」
よく手入れされた指が台の上の道具をまさぐる。嘗て手の内にあった感触を懐かしむかのように。
ふと、その手が古布の上に止まった。そして老匠の止める間もなく、古布が滑り落ちる。
シャラ――ン
長い髪に沿って小さな花々が水のように流れ下る。幾本もの銀糸に止まる白銀の花からは、嵌め込んだ貝の薄片の作る虹がこぼれ光った。
糸桜を模した花鈿を髪に挿した相手は艶然とした笑みを向ける。
「これは私のであろう」
その動作の鮮やかさ、姿の美しさに一瞬目を奪われた老匠は、そうした自分と相手に腹を立て、盛大にツムジを曲げた。
「そんな邪魔くせぃもんを使うのは、お前だけだよ」
「一月も経たぬうちに、女官達からの注文が殺到するぞ」
「知るか!とっとと持ってけ」
相手はもう一度笑みを浮かべると、戸口に向かい、そしていつもの言葉を口にした。
「また来る」
戸の閉まる音を背に聞いた後も、老匠は台に向かったままだった。やがて立ち上がり、戸の前に置かれた上等の酒を拾い上げると、そのまま外へ出た。
少し湿った木の根元に腰を下ろすと、幾ひらかの花弁が鼻先を掠めていった。盛りの花は既に散り始めようとしている。その早さ、儚さは人のようだと、老匠は思った。
― 俺たち人が花なら、仙になったあいつは、いつまでも変わらねぇ幹か −
そして少し笑った。驚かされる格好(なり)ではあるが、あの雅な姿の古馴染みが、ごつごつした無骨なこの幹に例えられたと知ったならば、どのような顔をするだろう。
― まぁ、あいつの根性はこれより余程頑丈だし。
あいつの幹になら、花も長くきれいに咲くだろう −
酒瓶をそのまま口に運び、老匠は目を瞑る。瞼の裏には、昔、自分の横にいた若者の姿がぼんやりと浮かぶ。
飢えと不安の日々に、高慢とも思える態度で挑戦し続けた姿は、何の飾りもなく、それでも美しかった。自分達に希望を残し、遥か先に行ってしまったその顔は、毎年見ているはずなのに、記憶の光に紛れ年々掠れていくようだ。
― 俺も近々女房の所へ行くことになるんだろうな −
老匠は哀れむような視線を花でなく、黒い幹に落とした。
「それでも、あと二つか三つ、桜鈿を作ってやれるだろう」
そう呟くと、老匠はどこともなく“それまで待っててくれ”と言い、酒瓶をまた仰いだ。
了