桜 雲
作 ・ griffonさま
2009/04/19(Sun) 22:59 No.208
慶東国の最も東の端にある岬。虚海から常に吹き付ける強い風のためなのか、背が低く緑の葉の少ない潅木が疎らにあるだけで、後は黒々とした岩肌だけしか目に入らない。岬の根元は豊かな緑の森が続くと言うのに。
虚海を越えて蓬莱へと伸ばされた黒い腕のような、何もないただ黒い岩肌だけの続くのこの岬にも、実は人の手が入っていた。切り立った危険な海岸線を避け、山を削り、岩を小さく砕いて敷き詰められた道が人差し指を立てたかのような形の突端へと続いていた。何もないはずのこの岬の突端には、虚海から吹きつける風のために、真直ぐに伸びることは叶わなかったのだろう、虚海側から慶東国へと大きく傾いで黒い岩肌に這うようになってはいるがそれでも、大木となった染井吉野が立っていた。強風にも負けず淡い色合いの花をつけ咲き誇るその姿と、全ての花が満開になったその瞬間、虚海からの風に乗って一気に散ってしまうその潔さが人々の話題となり、一目見たいと言う一心が作らせた道だ。
何故こんなところに桜があるのか。それも、本来常世にはなかったはずの染井吉野と言う桜。色々な話が人々の口に上るが、その中でも最もそれらしく、人々が信じているのは、―― 常世に流れ着き人生を全うした海客達の魂魄がこの岬へと集まり桜の花と化し、散った花弁にのって、魂魄達は渡れぬはずの虚海を越えて蓬莱へと帰る事が出来る ―― のだと言うものだ。その証拠に、常に虚海から慶東国へと吹き付ける強風は、この桜が散るその瞬間だけ、常世から虚海を越えるかのように、慶東国から蓬莱に向けて、いつにも増して強く吹くのだとか。
桜の根元から少し離れたあたりに、円筒形に荒く削った岩が幾つか並んでいた、少し大振りな書卓ほどもあるその岩の上に、胡坐をかいて陽子は座っていた。膝の上に肘を付き、その上に顎を載せ、桜越しに虚海へと視線を向けていた。虚海から強く吹き寄せる風に散る事もなく、桜は咲き誇っていた。陽子の視線は確かに桜にあるのだか、焦点はもっと遥か遠く虚海の彼方にあるようにも見えた。陽子が胡坐をかいて座っている石案の上には、班渠が腹這いになって自分の前脚に顎を乗せじっとしていた。その尖った左の耳が跳ねるように動いて後ろを探るように二度三度と方向を変えた。前足に乗せた顎を起こしかけ、暫くその姿勢を保った後、再び前脚に顎を乗せなおした。
「こちらでしたか」
陽子の載った石案から少し離れた辺りから声がした。特に声を張った風では無いのだが、虚海から吹き付ける強い風にかき消される事もなく、陽子まで声が届いてきた。
「すまない」
陽子は、背筋を伸ばした。が、躯は虚海の方を向いたままだ。
「いいえ」
越えの主は、ゆっくりと陽子の傍まで歩いてくると、肩膝を付いた。
「お詫び申し上げねばならないのば、私のほうでございます。我が主上の御休暇を妨げました事を申し訳なく」
陽子は躯の横に両手を着くと、軽く尻を浮かせて方向を変え、躯ごとその声のほうを向いた。きっちりと官服を纏い、美しく結い上げた鳩色の髪が見えた。
「顔をあげてくれないか、浩瀚」
そう言いながら両腕で躯を石案の端へと押し出し、組んでいた胡坐をといて座りなおした。
「それにしても、行く先も告げずに出たのに、どうして浩瀚には判ってしまうんだろうね。まさか景麒を」
浩瀚は、顔を上げるとにっこりと微笑んで首を左右に振った。
「浩瀚も王気が見えるとか」
「どうでございましょう」
桜の咲く季節に、陽子が訪れる場所はほぼ決まっている。維竜の夫婦桜か、ここの松山を埋葬した岬の桜か、登極当初の自身と縁のある桜を眺めることが、陽子にとって重要なことであるのは、浩瀚も判っていた。
「隣に」
浩瀚は、一度首肯くと陽子の隣に座った。陽子の顔に視線を向けると、その先に桜の花が見えた。
「やはり……その……」
陽子は、言い澱んで唇を噛んだ。
突然休暇を取ると言い放って金波宮を出たのは、桜の事もあるがそれ以上に思いもよらなかった浩瀚の一言が原因だった。その日の朝議の後、陽子の執務室を訪れた浩瀚は人払いをさせた。いつにも増して美しく跪礼をすると、浩瀚は冢宰の任を解いて欲しいと言ったのだ。
陽子にとって浩瀚は、まだまだ頼りとせねばならない人だった。国情は落ち着き、国政も漸く軌道に乗り、陽子達が信を置ける者も増え、人も育ち、国の末端に至るまでとは言わないが、陽子の想いが、漸く行き渡り始めたところだった。もう乱世と言う時代は過ぎ、これからゆっくりと豊かな国にしていかなくてはと、改めて心を引き締めていた矢先の申し出だった。
「あの時は、思いもよらない言葉を聴いて動揺してしまった。そのまま飛び出してしまったから、浩瀚の気持ちを聞いていなかったよね。浩瀚は……その……」
再び陽子が言い澱んだその時、虚海から吹き付けていた風が、止んだ。空気が固形化したような重圧感が陽子を包み、余りにも静かになったためか、耳の奥に甲高い金属音のような耳鳴りがしていた。思わず立ちあがった陽子の背中を殴りつけるような風が吹き始めた。官服の裾や袖が千切れるのではと思うほどはためく。同時に違和感が陽子の中に産まれていた。―― 風の方向が……。
何かを思い出したと言うように、桜に視線を向けると、一塊の雲のようになった桜の花弁が、不思議な角度で回転をしながら舞い上がっていくところだった。桜の木は、今の一瞬で葉桜と化していた。桜の花弁の雲は、うねる様に回転しながら舞い上がる。
「噂は本当だったのですね」
思わずと言う様な声色の浩瀚の声が聞こえた。
「私は、慶東国の冢宰であるよりも、別の者になりたいと思っております。我が主上のお治めになるこの国も、多少は落ち着いて参りました。私が冢宰として補佐をせずとも、主上は」
「そんなことはないっ」
浩瀚の声を遮るように陽子は叫んだ。叫びながら浩瀚の襟を両手で掴むとその襟に額を当てた。
「わたしは……わたしは」
「私は、思い上がりも甚だしいかとは思いますが、冢宰よりも大公であることを望んで」
「ドコの大公だっ。十二国中探したってわたしよりも浩瀚をかっている者はいないんだぞっ。わたしは……わたしはっ……浩瀚のことが……」
自分の顎の下に見える紅髪の上に、右の掌を載せた浩瀚は、その頭を撫でてやった。そして、そっと抱きしめると陽子の耳元に口を寄せた。
「誰が他の国の大公を望みましょう。私が望むのは慶東国の大公でございますよ」
笑いを含んだ浩瀚の声が、陽子の耳元に囁くように聞こえた。ゆっくりと顔を上げた陽子は、言われた言葉の意味がまだ判らないと言うかのように、軽く首を傾げて浩瀚を見あげた。困ったような笑みを浮かべた浩瀚は、右目を瞑ってみせてから、こう言った。
「こう言うのを蓬莱では、ぷろぽうずと言うのでございましたか」
―了―